現代のテニスは女子も含め、フィジカルな強さが前提になっている。それはたんに強い打球を打てるパワーだけでなく、強い打球に耐える手首と肘の強さ、強いサーヴィスを打てる肩と上腕の強さ、異なるサーフェースを縦横無尽に動ける脚力を意味する。
男子の一流選手のサーヴィスピードはファーストで平均200km/hで、セカンドでも170km/hを超える。ストロークスピードも130~150km/hである(錦織選手はストローク力に定評はあるが、ファーストサーヴィスの平均スピードは180km/h以下で、セカンドサーヴィスのそれは150km/h以下である)。スピードのある強い打球による荷重が腕一本にかかってくる。もちろん、下半身の強さが上体のぶれを少なくし、腕にかかる荷重を分散させるが、それができないと腕の筋肉は耐えきれない。
トップ30で活躍する選手の中で、錦織選手は他の選手より体が一回り小さい。それ分だけ、体にかかる荷重も相対的に大きい。だから、フィジカルなハンディを抱えている錦織選手が定期的に故障するのは仕方がない。連戦が続くプロテニスの世界では、どの選手にとっても、すべてのサーフェースやトーナメントでコンスタントにフィジカル条件を維持するのが難しい。錦織選手よりはるかにフィジカルが強いと思われる選手ですら、皆、それぞれに故障を抱えていることを考えると、体を休める時間をきちんと取り、体力を回復し、コンディションを整えるプロセスが、きわめて重要なことが分かる。そのためには、可能な限り、参加するトーナメントの取捨選択が必要になる。
ところが、トップ選手にはランクの高いトーナメントへの参加が義務づけられており、選手にとってもポイントを稼げるトーナメントは重要だから、簡単に抜けることができない。ウィンブルドン4回戦でリタイアした錦織選手の故障明け最初のトーナメントは、7月下旬のトロント(マスターズ1000)だった。鈍い動きながら、格下の選手を退け、準決勝でワブリンカを破って決勝に進出し、準優勝の600ポイントを取得した。昨年の同大会で獲得したポイントは360ポイントだから、実質240ポイントを上積みできたことになる。このポイント獲得はランキングを維持するために貴重なポイントになった。
というのは、昨年8月のシティ・オープン(ワシントン)を連覇し、500ポイントを獲得したが、リオ五輪日程に押されて、このトーナメントが今年は7月中旬に行われたために、故障中の錦織選手は参加できなかった。この結果、昨年獲得した500ポイントは獲得日の1年後にあたる8月8日に消滅する。さらに、トロントで獲得した600ポイントのうち、昨年の360ポイントが8月15日に消滅する。これに伴い、8月8日にはランキング一つ下がり、現在の6位から7位に落ちることになる。また、8月15日には年間ポイントが4000ポイントを切ることになる。ランキングベスト4でなければ、6位も7位は大差ないが、トーナメントシードで有利になるベスト4への道が遠くなることだけは確かである。
幸い、リオ五輪の後に開催されるシンシナティ(マスターズ1000)では、昨年の欠場によって失うポイントはないから、勝ち上がればポイントを上積みできる。ここで、少なくともベスト8、できればベスト4まで勝ち進みたいところだ。全米オープンも、昨年は1回戦負けで10ポイントしか獲得していないから、ここでも勝ち進めばポイントを上積みできる。だから、五輪直後の二つのトーナメントはランキングを維持する上で、たいへん重要な意味をもっている。
問題は、昨年夏もシティ・オープンから好調を維持しながら、途中で故障し、全米オープン1回戦で敗退した苦い経験があることだ。体調が万全でなければ、グランドスラム大会の長丁場を戦い抜くことはできない。リオ五輪が終われば、すぐにシンシナティのトーナメントが始まり、それが終わって1週間すると全米オープンが始まる。錦織選手に、この長丁場を戦い抜く体力があるかどうかだ。ただでさえフィジカルな弱さが指摘される錦織選手である。ランキングポイントが付かない五輪参加のために、その後のトーナメントの戦いに支障がでれば、ランキングを維持できなくなり、自分で自分の首を絞めることになる。トップテンの選手の半分が参加しない理由である。
五輪に参加する上位選手(ジョコヴィッチ、マレー、ナダル)は、皆、グランドスラム大会やマスターズ1000を制したことのある選手である。だから、もう一つの勲章として、五輪の金メダルを狙っている。彼らは金メダル以外、眼中にない。しかし、錦織選手はグランドスラム4大会だけでなく、年間9トーナメント開催されるマスターズ1000すら制したことがない。これらの大会を制する可能性を秘める錦織選手だからこそ、皆、五輪での活躍ではなく、五輪以後の2つの大きなトーナメントでの活躍を期待している。ポイントが付かず、トップテンの半数が欠場する大会で、金メダル以外のメダルを獲得しても、日本のテニスファンは喜ばないだろう。リオ五輪に出場したがために、次に続くトーナメントの試合に影響が出れば、錦織選手の選手生命にかかわる。
春先に行われた2009年のWBC大会で、松坂投手が股関節の故障を押して連投した結果、肩を痛め、そのシーズンを棒に振ってしまった。以後、大リーグにおける松坂選手の選手生命は事実上、終わってしまった。トップ選手の故障は選手生命にかかわる。2009年に20歳で全米オープンを制し、パワーで錦織選手を寄せ付けなかったデル・ポトロ選手は、2010年に利き腕でもない左手首を痛め、両手打ちのバックハンドができなくなったために、現在もなおトーナメントに参加したり棄権したりを繰り返している。今年、急成長した若手の最有力選手テイームは、連戦に次ぐ連戦で、今季すでに48戦勝利してポイントを荒稼ぎし、トップテンに躍り出たが、案の定、ここにきて疲労が出て、ここ3トーナメントはほとんどポイントを稼げず、最後のトロントでは初戦の2回戦で股関節の故障でリタイアを余儀なくされた。
五輪に出たいという選手の意思は尊重されなければならないが、プロとしての選手生命を犠牲にしてまで出場する意味はない。もっとも、エキジビジョンマッチとして、上位の選手の状態を確認する意図であれば、全米オープンへの準備にはなるが。マスコミが騒ぐような「メダルのチャンス」は無責任な期待で、どんな色でも良いからメダル数を増やそうというのは、個人を犠牲にして、国家的高揚を図るもので、賛成できない。
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