関東軍軍馬防疫廠「100の会」の情報をお寄せください!

● 2023.9.1   暑い9月です。異常気象は、もはや異常ではありません。常態化しました。西武・そごう労組が、雇用保証を求めてストライキに入りました。大手百貨店では1962年の阪神百貨店以来、61年ぶりの労働基本権の行使とのことです。ストライキという言葉自体が久しく日本の労働運動から消えていましたが、メディアの異常な報道には、いっそうの驚きです。20世紀の日本ばかりでなく、今日のアメリカ・ヨーロッパでも韓国などでもあたりまえの労働者の団体行動権の行使が、「平和な社会」の秩序破壊につながりかねないかのような騒ぎ方です。非正規労働が常態化した21世紀の日本は、敗戦・占領期はもとより、日常の中にストライキもデモも溶け込んでいた高度成長期の社会から、ずいぶん遠くまできてしまったようです。日本政府は、原発デブリの汚染水をALPSで浄化し「処理水」と言い換えて、フクシマ原発事故の世界の記憶をフェイドアウトしようとしましたが、ウクライナ戦争と核危機にも手を打てず、中国や韓国から「核汚染水」と反発されるのは想定外だったとか。 デブリ取り出しの見通しは立たず、廃炉への行程はいっそう困難になっているにもかかわらず。日本の閉塞です。

● 大きな手術と入院で、すべての活動をストップして1年経ちました。術後1年の精密検査が続きましたが、何とか快復に向かっており、リハビリは続ける必要はあるが、徐々に活動に戻っていいという診断です。そこへ、5月の明治大学登戸研究所でのゾルゲ事件研究の現況についての講演記録が、2時間のYouTube 映像になって公開されたとのこと、講演の一部である岸惠子主演『真珠湾前夜』が可能にした学術的ゾルゲ事件研究」 と共に、ご検討ください。同講演でも用いたマシューズ『ゾルゲ伝』の書評が、毎日新聞の岩間陽子さん読売新聞の井上正也さんにより書かれたとのことで、東京新聞・中日新聞での私自身へのインタビュー愛知大学「尾崎・ゾルゲ研究文庫」設立のニュースも報道されました。この夏の私のリハビリの成果として、残しておきます。9月30日の午後、『ゾルゲ伝』の著者マシューズ氏のオンライン参加を含めて、尾崎=ゾルゲ研究会主催の 『ゾルゲ伝』合評会を予定しています(拓殖大学茗荷谷キャンパス予定、詳細は後に)。

● こうした研究発表の過程で、今夏、二つの体験をしました。一つは、すでに北海道新聞で()()()の連載記事になりましたが、ゾルゲ事件の外国人被告の捜査と訊問を担当した当時の特高警察外事課鈴木富来警部のご遺族から、曾祖父の残した遺稿「ゾルゲ事件の捜査記録」という手記が実家で見つかったので見てほしい、と貴重な証言記録が寄せられました。鈴木警部はゾルゲ事件の被告ブーケリッチを訊問したとのことで、伊藤律を事件発覚の端緒とした戦後米軍ウィロビー報告の政治性を批判し、事件の本質は思想弾圧ではなく国家機密漏洩だったと主張します。渡部富哉さんの『偽りの烙印』や私の平凡社新書『ゾルゲ事件』での伊藤律発覚端緒説の否定を、1980年代に先駆的に認めたもので、「太田耐造関係文書」中の昭和天皇宛「上奏文」の見方とも近いものです。曾祖父が特高警察であった歴史的事実に向き合い、その訊問相手であった被告の遺族に手記への「感想」を求めるという、新世代のジャーナリストによる戦争の追体験記録は、8月の戦争体験継承の、新しい試みです。

● もう一つ。これはゾルゲ事件ではなく、昨年小河孝教授と共著で『731部隊と100部隊』を公刊した、100部隊=関東軍軍馬防疫廠についての、読者からの重要な情報提供です。8月の本欄で、明治学院大学の松野誠也さんによる、関東軍防疫給水部=731部隊正式発足時「職員表」の発見の画期的意義を述べましたが、松野さんはその際、関東軍軍馬防疫廠=100部隊についても、1940年本格発足期の「職員表」を発見し、メディアとの記者会見で発表していました。昨夏刊行された私たちの書物は、獣医たちの100部隊を扱った本格的研究書でしたが、それを詳しく読み、松野さんの100部隊「職員表」発見も知った上で、一人の読者が匿名で、発行元の花伝社気付で共著者加藤・小河宛の手紙と資料を送ってきました。もともとある「100部隊元隊員から遺言を託された」という当事者の記録で、いくつかの貴重資料の一部も添えられていました。

● なかでも驚いたのは、「100の会会員名簿 関東軍軍馬防疫廠<通称満州第100部隊>および関係部隊の在隊者・関係者名簿 平成7年5月末日現在」という「100の会」名簿の表紙コピーで、100部隊の関係者は、戦後も30年以上経った1977年以降、「100の会」という隊友会をつくり、18回以上も年に一度の会合を持ち、1995年段階では生存者497名、物故者179名、戦死者9名、計685名・生死不明372名という旧隊員名簿を作っていたのです。関東軍防疫給水部=731部隊の医師たちの隊友会「精魂会」は1955年発足でしたから、獣医師たちの「100の会」1977年発足はずいぶん後ですが、森村誠一『悪魔の飽食』で広く存在が知られるようになる1981年よりは前です。残念ながら、名簿そのものは同封されていませんでしたが、100部隊解明の貴重な資料です。私たちが指摘してきた100部隊第二部6科の人体実験・細菌戦についても、『紫陽』という仲間内の会誌で経験交流してきた模様が綴られた一部が送られてきました。これも貴重で、1000人近い隊員の家族・親族の皆さんのお宅には、まだ現物が残されていると考えられます。「100の会」名簿や「紫陽」を見つけられた方は、ぜひご一報ください(<katote@jcom.home.ne.jp>へどうぞ)。

●「旧隊員から遺言を託され」「機会があれば世の中に発表してほしい」といわれた読者は、隣人であった元隊員は「温厚、博識、かくしゃくとした紳士」で、「このような方が非人道的で残虐な行為をされたのかと思うと、戦争はいかに人を変貌させてしまうのかと改めて戦争の恐ろしさを感じました」と、私たちへの手紙に書いています。旧隊員は「戦争は絶対にしてはならない」とも遺言したとのことです。このようなかたちで、隠されてきた80年前の日本軍の加害体験は、ようやく明らかになってきているのです。政府や厚生省は「資料はない」と否定しますが、中国や朝鮮の被害者遺族は、調査を進め告発を続けています。今回の身元を明かさぬ旧隊員のように、実際に加害に加わった旧軍人の中にも、何らかの形で悪夢を歴史に残そうと、記憶を記録にして家族や隣人に受け継ぐ事例がありうるのです。

● 9月1日は、関東大震災から100年です。多くの朝鮮人や中国人、社会主義者、アナーキストらが憲兵隊や「自警団」によって虐殺されたことは、当時の人々の日記・伝承・文学・学術論文などの中に、数多く見られます。しかし日本政府は、公式の警察記録に残されていないといった理由で、未だに公的調査を行わず、虐殺を認めません。東京都は、1973年に建てられた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」への慰霊を、小池知事の2016年以降とりやめています。当時は流言飛語ばかりでなく、「3・1独立運動」などで日本の植民地支配が揺らいで「外国人」を恐れている時期でした。そこでの事実関係を共同で解明しないことには、中国や朝鮮の人々との対等・平等な友好関係を築くのは難しいことを、20世紀後半の歴史は幾度も示してきたはずです。東アジアにおける「帝国」日本の植民地支配・戦争の負の遺産、関東大震災の100年を教訓にしながら、加害の歴史をもしっかりと記憶と記録に残して収集し受け継いでいくことが重要です。

初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5101:230902〕