青山森人の東チモールだより 第238号(2013年5月24日)

祝!東チモール民主共和国、独立11周年
バウカウ地方のファトマカにて

独立11年目を地方ですごす

 最近の『東チモールだより』でわたしはファトマカの総合技術学校の創設に寄付・協力を呼びかけていますが、実はわたし自身、まだファトマカを訪れたことがありませんでした。寄付・協力を呼びかけている人間がこれではイカンと思い、5月19日から21日までファトマカに滞在しました。したがって今年の「5月20日」つまり独立記念日(正式には「独立回復の日」)は首都デリ(Dili,ディリ)ではなく、地方で迎えました。「5月20日」を地方ですごしたのは、独立11年目にして今年が初めてです。

ファトマカ高校の歴史

 バウカウ地方の海に近いところに位置する主都バウカウから内陸へ十数キロいくとファトマカ(Fatumaca,ファトゥマカ)があります。このあたり一帯はワイモア語の世界で、美しい田園風景が広がります。そのなかに異空間のように浮かび上がるのが寄宿制ファトマカ高校のキャンパスです。ここを開拓したのはカトリック教会サレジア会の宣教師ですが、さぞものすごい労働力を要したことでしょう。かれらが自分たちの生活の拠点として当時のポルトガル植民地当局からこの土地を割り当てられたのが開拓史の始まりです。校舎の建設がはじまったのが1964年(来年でファトマカ高校は50周年記念)、翌1965年にまず農業学校として開校しました。現在F-FDTL(国防軍)の最高位にあるレレ=アナン=チムール司令官はこの農業校の第一期生なのです。

 1973年に科目を農業から技術系へと変更し、インドネシア占領時代の1980年代の半ばに教育水準を中学校から高校へとあげ、現在に至っています。現在、大工科・機械科・電子科・電気科の四科目を教える技術専門学校として、ファトマカ高校(正式名はコレジオ・ドン・ボスコ・ファトマカ)は東チモールの名門高としての地位を不動のもとしています。この学校が有名なのは、東チモール人にいわせると規律がしっかりしているからです。勉強だけでなく寄宿生活のなかで生徒たちが規律を身につけることが親にとって子どもをこの学校に入れたがる大きな理由です。インドネシア軍事占領時代でも教育の質を落とさず堅実な教育機関として機能したこともこの学校を有名にしている理由です。またこの学校は抵抗運動を支えるカトリック教会の聖職者たちと解放軍司令官の接触場所としても機能したことでも知られています。1980年代、ベロ司教とシャナナ司令官が初めて会合をもったのもここです。ベロ司教とシャナナ司令官の密会場所となった部屋はいまも事務所として普通に使われ、相当に年季の入った椅子やテーブルはいまも使われています。「将来この部屋は歴史資料室として保存されるのがいいでしょう」とファトマカ高校の教頭に相当する立場にあるアドリアノ=マリア=デ=ジュススさん(故・コニス=サンタナ司令官の親戚)はいいます。

 ええ、そうすべきです。1980年代にシャナナ司令官やベロ司教が座った椅子にいまわたしが座っていますが、壊したらどうしよう……と、知らず知らずに体重がかからないように腰を浮かしている自分がいます。

 校長に相当する立場にあるエリジオ=ロカテリ神父は初年1964年からここファトマカに身を捧げているイタリア人です。1980年代にシャナナ司令官が大きな黒縁めがね(フェリーニ監督作品に登場するマルチェロ=マストロヤンニを思い起こさせる大きな黒縁めがね)の男と談笑している写真が解放軍の活躍を示す写真としてよく目にしますが、シャナナ司令官の横に座っているその人がロカテリ神父です。50年間もここにいるのだから、神父さんとかイタリア人とかいう肩書きはあまり意味あなく、 “ファトマカ人”が一番ふさわしい肩書きではないかと思います。

写真1

カトリック教会とFALINTIL(東チモール民族解放軍)とが秘密会合をもった部屋。写真の左に4.5リットルの大きなウィスキーの瓶がある。戦争時代、ゲリラ兵士たちは山の寒さをしのぐ“薬”として好み、教会がよくゲリラ兵士へ差し入れたこのウィスキーは両者にとって思い出の品だ。その思い出のために飾っている。瓶の中身は本物だという。
2013年5月19日、ファトマカにて。ⒸAoyama Morito

田園のなかの独立記念式典

 5月19日、ファトマカの高校は隣接する小中学校とともに行う20日の独立記念式典の準備に生徒も先生も忙しい様子でした。しかし驚くべきことにとても静かなのです。生徒たちの私語と行動はその日その日の時間割に沿って厳しく制限されているからです。ホッケーゲームや卓球に興じる遊び時間でさえも、生徒たちの歓声や笑い声よりも、ガタガタガタッというゲーム台の音やピンポン玉の跳ねる音の方が高いくらいです。独立記念日という特別な行事の前日なのだからもっと浮かれた雰囲気があってもよさそうですが、非常に抑制の効いた生徒たちの行動は、東チモールにとってまったくの別世界をつくっています。この学校が規律の良さで有名なのが理解できます。

 毎日5時半に起床、普段の日は、身じたく・お祈り・自習のあと、朝食が6時45分、そして掃除をして7時半から授業の準備、7時45分から1時間目(45分)の授業が開始という時間割です。5月20日、記念式典日も時間割が決められています。5時半に起床、朝食が6時45分までは普段どおりで、8時半に祝日としての時間割が始まり、一般信者とともにキャンパス内にある教会でミサ、9時半ごろから小中学生を含めたファトマカの全生徒たちが校庭に集合し、10時から独立記念式典が始まり、10時半ごろからお昼まで、住民も参加するレクリエーション大会を楽しむ。昼食後には祝日の行事が終了し、日常へ戻ります。

 独立記念式典はいたって簡素なものです。生徒たちが校庭に整列し、教師や一般住民が周りに立ち、国旗掲揚をするだけです。白いシャツと白い帽子を身に付けた生徒たちが行進しながら国旗をポールまで運び、国旗がゆっくりと掲揚されるあいだコーラス部隊が国歌「パトリア」(祖国)を斉唱します。そのあと独立闘争に捧げられた命に一分間の黙祷。国旗を運んだ生徒たちが元の位置に行進して戻ると、終了です。これが大統領府の式典ならば大統領の演説やら兵士や警察の行進があるのでしょうが、ここではそれがありません。誰かの短い演説がありましたが、録音だったのでしょうか?演説者の姿はわたしには見えませんでした。式典はおよそ30分しかかかりませんでした。

 この後、お楽しみのレクリエーション大会です。棒登り大会と綱引き大会です。学校側はちゃんと立派な懸賞を用意しています。一等賞には160ドルもする自転車を2台、毛布、Tシャツ、ラーメン1箱などなど。自転車をもらったのは住民の子で、さっそく乗って帰っていきました。

首都と地方の格差

 タウル=マタン=ルアク大統領は大統領府の式典に参加するため首都にいましたが、シャナナ首相は17日から東部ラウテン地方に遊説活動をし、バウカウ地方、そして20日にはマナトト地方の主都マナトトに移動し独立記念日を祝いました。首都での独立式典の雰囲気はどうだったのか、わたしにはわかりませんが、5月22日から首都を歩いてみる限りでは、「独立回復の日」を祝う横断幕や大型看板の数は去年と比べると激減したまま20日を迎えたようです。ラウテン・バウカウ・マナトトを訪れたシャナナ首相の一行と地元住民との会合が首都の式典よりテレビで大々的に報じられました。わたしが21日にマナトトを通過したときはまだシャナナ首相がそこにいたようです。首相の警護のため主要道路が封鎖され回り道をしなければなりませんでしたが、そのおかげで賑やかだったのはシャナナ首相の周辺だけだったのがよくわかりました。ほとんどの町や村は飾りつけさえない独立記念日を迎えたのです。そのような地方の町や村の様子をみると、今年は質素な飾り付けだったとはいえ、首都だけに突出してお金がかけられている格差がはっきり見えてきます。

 シャナナ首相は地方遊説で、市庁舎を建て地方に権限を与えるからそのための準備をしてほしいと住民に訴えていますが、首都と地方の格差を考えると地方分権は東チモールではまだ無理な相談のようにわたしには思えます。

写真2

ファトマカの校庭の独立式典。10時25分ごろ国旗掲揚がおこなわれた。この学校で毎年「5月20日」にこうした式典をしているかといえばそうではない。今回は二度目だという。2013年5月20日、ファトマカにて。ⒸAoyama Morito

~次号へ続く~

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ファトマカの総合技術学校建設への寄付・協力へのお問い合わせ先は以下の通り。

エリジオ=ロカテリ神父(Pe.Eligio Locateli)
E-mail; fatumaca50@gmail.com

ベルジリョ=ド=カルモ神父(Pe. Vergilho do Carmo)
電話:+670-77354007

アドリアノ=マリア=ド=ジェスス(Brother Adriano Maria do Jesus)
電話:+670-77361826
E-mail; donbosco_ctc@yahoo.com

エドアルド=ソアレス(Eduardo Soares)
電話:+670-77519999
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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