青山森人の東チモールだより 第245号(2013年8月5日)

<オーストラリアによる難民政策の大転換>

ボート難民受け入れ完全拒否

オーストラリアの与党・労働党のケビン=ラッド氏は今年6月に、三年振りに党首の座に返り咲き第二次首相時代を迎えるや、第一次首相時代(2007年11月~2010年6月)の難民政策をまるで否定するかのように難民受け入れ拒否政策へと大転換しました。

2013年7月19日、オーストラリアとパプア=ニューギニアの両政府は、オーストラリアを目指してやって来る査証のないボート難民にたいして全員パプア=ニューギニアに収容され(難民でない者は本国に送還されるか第三国に送られる)、オーストラリアには決して上陸できないという合意文書に署名したのです。情け容赦のないボート難民受け入れ拒否宣言です。これにより7月19日以降、移民の国・オーストラリアを目指すボート難民はオーストラリア上陸の夢を絶たれることになったのです。

7月23日、インドネシアの難民キャンプからオーストラリアに航路をとってイラン・イラク・スリランカ人ら約200名(実際は何人かはわからない)を乗せたボートが転覆し、160名が救助されましたが、他数十名が行方不明になる遭難事故が起きました。ボート難民のこのような悲劇はここ数年多発し多数の幼い犠牲者をうんでいます。オーストラリアとパプア=ニューギニアの合意に基づく新た難民政策によって、密航業者にお金を払いオーストラリアを目指すボート難民の命がけの“努力”は報われないことになります。ボート難民は目的地・オーストラリアへは決して上陸できないとなると、危険な密航の試みの意思がくじかれ、海の悲劇を喰い止めることができる――これがケビン=ラッド首相が第一次首相時代に自ら打ち出した比較的難民に寛容的であった政策を非情な政策に転換した理由です。

今年になってオーストラリア領海に入ったボート難民は、1万5610人(220隻のボート)といわれています。

無慈悲で安易な演出

しかし東南アジアの貧国・パプア=ニューギニアはマラリアの感染率が非常に高いことで知られており、このことを重々承知したうえでボート難民をここに収容するという政策には冷酷さを覚えます。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などの難民人権団体が収容環境の劣悪さを懸念しています。

また、ケビン=ラッド首相のこの政策転換は、9月に実施予定の総選挙向けの安易な演出であることが丸々透けて見えます。

2007年11月、それまで長期政権を維持していたジョン=ハワード首相の率いる保守連合(自由党と国民党)から政権を奪還したケビン=ラッド首相率いる労働党政権は、保守連合によって2001年に導入された、いわゆる「パシフィック・ソルーション」(Pacific Solution、太平洋諸島にボート難民の収容所を設置し、そこを中継地点として難民審査をする政策)と呼ばれる難民政策を、パプア=ニューギニアのマヌス島やナウルの難民施設を閉鎖し集結させ(ただしインド洋のクリスマス島における難民施設を利用)、国内で難民審査をする政策に修正緩和をしました。孤立した施設で収容される人びとの人権を憂慮してきた難民人権団体はクリスマス島での状況を注視しつつ、「パシフィック・ソルーション」の終結を歓迎しました。

しかしイラクやアフガニスタンの戦争・イランの圧制・スリランカの内戦などの世界情勢が相まって、オーストラリアに逃れようとするボート難民が増加するようになると、野党の保守連合はナウルの施設再開を主張し、労働党政権の難民政策を厳しく批判しつづけます。

2010年6月、急速に支持率が低下したケビン=ラッドに代わって急遽選挙前にジュリア=ギラードが党首となりオーストラリア史上初の女性首相となりましたが、このギラード首相は、いったいどこからその発想が降って出たことやら今でも不思議ですが 、東チモールに難民中継地センターを建設すると唐突に発表し、なんの相談もうけなかった東チモールはもとよりオーストラリアからも(そして労働党内、ケビン=ラッド氏からも)驚きと非難の声が沸き起こりました。このことも影響したことでしょう、同年8月の選挙で労働党は過半数を獲れず、かといって保守連合もしかり、結局、労働党は多数派工作でかろうじて過半数を獲得、かろうじて政権の継続となりました。しかしその後もギラード政権は、マレーシアにいる難民とオーストラリアへの避難民を交換するという奇妙な政策を発表し非難され続けます。2011年5月、ギラード政権はパプア=ニューギニアの難民センターを再開させると発表し、事実上、東チモール難民中継センターの構想は完全に放棄されました(「東チモールだより第181号」参照)。

そうこうしているうちにクリスマス島の難民センターやオーストラリア国内の施設は収容能力が飽和状態となってしまいます。難民への人道的配慮を求める世論と強硬な難民対策を求める世論を両端として難民政策は常にオーストラリアの論争の的になり続け、当然、今度の総選挙でも大きな争点となっています。

かくしてケビン=ラッド首相は難民への強硬路線に身を寄せてしまい、ジョン=ハワード政権と同様にUNHCRなどの難民人権団体から批判される立場になってしまいました。自らの信念を選挙目当てに変えてしまう政治家・政党の末路はいかに……ケビン=ラッド首相は日本を見て学ぶべきです。

東チモールも他人事ではなくなってきた

オーストラリアへ入れないぞというこの難民受け入れ拒否は、はたして難を逃れようとする人びとをしてボートに乗る選択を阻ませしめることになるであろうか。密航業者の巧みな誘いで危険な船出をする人たちが相変わらずいるのではないか。例えば、オーストラリアの難民政策は変化する、たとえパプア=ニューギニアに収容されたとしても、9月にオーストラリアに政権交代が起こればどうなるかわからないし、国際世論で政策が変わるかもしれない……などと言われてオーストラリアを目指すボート難民がこれからも出るのではないか。

オーストラリアは、国連やインドネシアや周辺諸国と協調して(当然、東チモールも含まれる)難民問題の解決を図るべきです。オーストラリアを目指すボート難民の問題はオーストラリアだけでは手に負えない問題であることは明白です。日本政府は自衛隊を国防軍に変えて海外で戦闘に参加させることを考えるのではなく、またオーストラリアと捕鯨問題で裁判沙汰になっていることは棚におき、オーストラリアと協力してボート難民の根本的な問題解決に貢献すべきです。

東チモールもこの問題はもはや他人事ではありません。ボート難民が東チモールに漂着することはすでに去年発生しています。そしてこの7月、ビルマ(ミャンマー)のイスラム少数民族ロヒンギャ人が大半を占める95名の一団がインドネシアからオーストラリアを目指していたところ東チモールに図らずも着いてしまいました。

このとき東チモール当局は、ボート難民から保護を求められたにもかかわらず保護せずに強制的に押し返したと批判されています。また東チモールでは難民は隔離され、赤十字や国連機関そして人権団体は難民と接触できなかったとも批判されています。これにたいしジョゼ=ルイス=グテレス外相は、当局は保護を求められなかったし隔離もしなかったと反論しています。

東チモール当局は難民のボートを修理し、難民をインドネシアのウェーター島へ送還しました。その後、かれらはスラウェシ島へ送還されたといわれています。

本当に東チモール当局つまり移民局は保護を求められなかったのか、難民を隔離しなかったのか。グテレス外相は当時オーストラリアを訪問中で、報告されたことを述べているにすぎません。東チモールにおける外国人としてのわたしの個人的な移民局の観察からすれば、移民局の報告に懐疑的にならざるをえません。

地理上の問題として、物理的な紛争がなくなった東チモールにボート難民が漂着することは今後とも発生することでしょう。東チモールがもし難民の人権を蔑ろにするとしたら、それは歴史を鑑みれば、東チモール人がアイディンティティを蔑ろにすることを意味します。東チモール人指導者たちにはそれだけはしないでくれと願ってやみません。

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion1408:130810〕