<ポスト・シャナナ、世代交代への動き>
シャナナ=グズマン首相、来年に辞任する意向を示す
オーストラリア諜報機関による東チモール閣議室の盗聴にかんして(「東チモールだより第253号」参照)、オーストラリアのABC局が東チモール政府側の意見をとりあげるさい、日本でいう官房長官の地位にあるアジオ=ペレイラ氏を紹介するとき「次期首相と有力視されている」という飾り文句をつけて紹介しています。
これは、先月11月、東チモールのシャナナ=グズマン首相が公の会議の場で、任期途中で首相を辞任する意向を示したことを受けてのことです。そして東チモール国内ではシャナナ首相に最も近い関係にあるといわれるアジオ=ペレイラ官房長官が次の首相となる可能性が高いと見られているからです。
2006年に勃発した「東チモール危機」をうけて当時の与党で最大政党フレテリン(東チモール独立革命戦線)に対抗すべく2007年に政党CNRT(東チモール再建国民会議、解放闘争時代のCNRT=チモール民族抵抗評議会と混同しないよう要注意)を立ち上げ当選し、連立政権を組み首相として率いたかつての解放闘争最高指導者シャナナ=グズマンは、去年2012年の総選挙にも勝利しCNRTは最大政党に躍進、第二期目のシャナナ連立政権が8月に発足しました(任期は2017年までの5年間)。二期目の首相に就任して一年数ヶ月たったところで首相の座を自ら去る意向を示すというのはどういうことか、何かの内政的駆け引きなのか……、わたしは最初そう感じましたが、『テンポ=セマナル』のインターネット版ニュース(2013年12月16日)をみれば、そうでもないようです。この記事によれば、シャナナ首相は最初、2015年に辞任すると発表しましたが、その後、タウル=マタン=ルアク大統領と会談したあと、辞任するのは2015年ではなく来年の2014年であると発表し、この決意は翻ることはない、自分たちは古い世代として若い世代を助けるという別の役割があると、改めてシャナナ首相が辞任の意向を発表しました。この記事から読み取ればシャナナ首相の意図は世代交代にあるようです。
世代交代という挑戦
次期首相の最有力候補といわれるアジオ=ペレイラ官房長官は同インターネット版『テンポ=セマナル』(12月15日)に「シャナナ=グズマンなしで前へ進む挑戦」と題する文を寄せています。この寄稿文でアジオ=ペレイラ氏は、東チモールは解放闘争の最高指導者が去ったあとの国づくりに向き合わねばならないのだと、やはり世代交代を主張しています。冒頭部分を粗訳してみます。
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東チモールは主権国家として12年目を迎えようとしているが、いま避けがたい挑戦のなかの挑戦に直面している、それはシャナナ=グズマンが指導しない状態で前進することである。戦争時代とくに1980年と90年代から今日まで、シャナナ=グズマンが団結と安全の意識を用意し、人びと全体の信頼を得てきた。かれが平和の最終的な責任を背負い、みんなが差別・復讐・暴力なしで前進することができた。響き渡る成功でかれは責任を果たしてきた。
しかしながらこの成功自体が心理的な不安定要素となりうるのだ。なぜなら東チモールは、すべての人びとが繁栄するため国が歩む道のなかにおいて、平和の頼みの綱であるシャナナ=グズマンぬきで前進しなければならない局面を迎えているからである。
愛国心を鼓舞し、東チモールの人びとの弾力性を力としていく“シャナナ因子”の能力は決して過小評価されることはできない。かれはこの国の解放者であり、東チモールがいま甘受している自由と平和の父であり、かれのおかげで東チモールが国際社会に成功している国づくりの世界的なかがり火として見られているのである。
多数の指導者がわれわれに想起させるように、シャナナはアジアのネルソン=マンデラである。ネルソン=マンデラが亡くなり世界中が喪に服している。言葉と行動をともなった博愛のこの指導者を東チモールも尊敬している。シャナナ=グズマン首相は南アフリカでおこなわれた追悼式に出席した。シャナナは政治犯として7年間すごしたインドネシアのチピナン刑務所に服役中、ネルソン=マンデラに面会した。1997年、ネルソン=マンデラは南アフリカ大統領としてインドネシアを公式訪問したとき、スハルト大統領に最も有名な囚人であるカイ=ララ=シャナナ=グズマンとの面会を求めたところ、スハルト大統領は承諾した。シャナナ=グズマンにとってそれは大きな喜びの驚きであった。ネルソン=マンデラはアジアのマンデラに会ったのである。そして面会場所は刑務所ではなく、スハルトの大統領宮殿であった。この地殻変動的な会合が東チモールの民族解放の進行をたしかに助けたのであった。
マンデラ同様、シャナナ=グズマンも乏しい指導をする指導者ではなかったし、海の風や波に見をまかせる指導者ではなかった。マンデラ同様、グズマンも既成事実として現状維持をよしとしなかった。二人とも社会と国家の変革者である。二人とも有罪をうけ投獄された指導者である。そして二人とも英雄として刑務者から解放された。人びとの英雄としてだけでなく、博愛の英雄として、である。この高貴な理由ゆえに、人びとはかれらが去ることを拒むのである。
(中略、ネルソン=マンデラにかんする描写)
シャナナは依然としてわれわれとともにいる。東チモールの国民はかれが去ることを拒んでいると思われる。シャナナ=グズマン首相が辞任の意向を発表するや、今かれが去る時期だろうかという疑問が最も投げかけられた。しかし適切な時期とはいつなのだろうか。シャナナやマンデラのような指導者が去る適切な時期とは決して存在しないというのが人びとの見方である。だが、かれらのような指導者はいつかを知っているのだ。人びとは心の中で考えたくもないのかもしれないし、神の思し召しによるのがいいと大半の人びとは思っているのかもしれない。
2014年か2015年かは問題ではない。最も重要なのはシャナナが権力や政府から去ったとき、他の者たちがシャナナぬきで国家の挑戦を買って出ることができるかということである。不確かなことが多くある。恐れもある。しかし東チモールの人びとの勇気が克服するという確信もある。そしてまたシャナナが去ったあとも、ある分野において発育が不十分なものもあるが、人びとの必要とするものや政府の要求に応える制度がいまや存在するという事実もあるのだ。
東チモールは以前このことを経験している。解放闘争時代、ニコラウ=ロバト議長(*)が死去したとき、1978年からシャナナ=グズマンが指揮を握る1981年まで、真空状態が続いた。この逆境のなか、シャナナは、使えるレンガを見出し積み上げるように解放闘争の組織を再建したのである。幹部構造を再構築し新しい原動力を注入した。まずは指揮系統に着手し、次にすべてのエネルギーを抵抗組織が機能するように注ぎ、ひとつひとつ組織を構築していった。シャナナが焦点をあてたのは、自分たちがどこからどこへ行くのかという明確な方向指示であった。ある程度必要な楽観主義を取り入れるため、そして最後の審判の日の預言者の対策のため、シャナナは現実とは人がつくるものであり人が現実を変えることができるだという考えを宿していったのである。
現実を変えることがシャナナ哲学の核心である。五つの政党が連立する政権に就いたとき(2007年、青山)、シャナナは行政を成功させるため最重要視したのは“メンタリティの変化”であった。第一に、これはつまり一党制の終焉という見方を固めることの必要性を意味していた。過去においても現在も、違いを乗り越えて共に働くことがわれわれに課せられているのである。第二に、選挙で負けた者は政府のなかにいなくとも非常に重要な役割を担ってもらうこと。第三に、政府内にいながら野党の貴重な意見を抱擁することを求めること。第四に、人びとが自由と独立の果実を味わってもらうため、全員に、とくに権力側に依然として犠牲が求められるということ。最後に今一つ大事なことだが、すべての社会現象を考慮することが必要だったこと、最初は世界的な視点から、そして次にそれを噛み砕き、状況から要求される可能で最適な解決を生み出すことである。
果たしてこのことが達成されただろうか。もしそうならば、シャナナは舞台から降りることができ若い世代へさらなる挑戦を委ねることができるか。
答えは単純だ。誰もこのような任務を本当に完了することはできないのだ。なぜなら誰もが国づくりの永きに渡る過程、世代間の結合を要求する過程、の一部分を担っているだけであるからだ。加えて言うならば、政府をもって統治するこの過程は民族解放闘争と差異はない。まったくもって、闘争の継続なのだ、なぜなら、民族解放闘争の行く着く先は国旗をもつことだけでなく、政府とその他主権の支柱をもつことだからだ。福祉と繁栄を築き維持し、東チモールのすべての男性・女性・子どもたちへ幸福をもたらすことが最終的な目的であったし、いまもそうなのだ。
(以下、略)
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このあとアジオ=ペレイラ氏は、すべては東チモール人しだいであると述べ、アメリカの独立宣言やアメリカ・スペイン戦争で活躍したアメリカの伝令兵のエピソードをひき合いにだしたりしながら、挑戦する若い世代の能力を育てることこそが最重要であり、そうすれば国は挑戦に応じることができ、人びとに幸福をもたらすという最終目標をもたらすことができるだろうと結びます。やや平凡な結びであることは否めませんが、冒頭部分はシャナナ首相の心境を代弁したとも受けとれるし、首相となる意気込みとも受けとることもでき、なかなか興味深い寄稿文だと思います。
アジオ=ペレイラ官房長官はいくつか大切な指摘をしています。わたしなりに解釈するとこうなります。解放闘争の英雄が権力の座から身をひく適切なタイミングとは本人だけが知っているのだという指摘、解放闘争は幸福をすべての人びとにもたらす目標のためにいまもそして未来にも継続し、解放闘争の指導者誰でもその過程に部分的にかかわっているだけで完了ということはないのだという指摘です。シャナナ=グズマンとても過程の一部を担っているだけで、次世代の挑戦が必然的であるという考え方です。民族解放闘争とは“終わりなき旅”だということなのでしょう。
50代を媒介に60代から40代へ
東チモールにおける世代交代とは具体的にいうとこうなります。シャナナ=グズマン首相やノーベル平和賞をとったラモス=オルタ元大統領、あるいはフレテリンのマリ=アルカテリ元首相は1970年代にアフリカの旧ポルトガル植民地の解放闘争とともに闘いを始めた世代で、年齢でいうと60代です。タウル=マタン=ルアク大統領を代表する世代は現在50代で、1990年代、シャナナがインドネシア軍に捕まった後に抵抗組織を再編し司令官として若者たちを指揮してきた世代です。ルアク大統領の他に、去年ルアク候補と大統領決戦投票を競ったフレテリン党首のル=オロ元国会議長がこの世代です。いま40代ないしは40前後の世代とは、ポルトガル植民地支配を知らない、インドネシアの軍事占領下で育った世代で、1990年代、実質的に解放闘争を最前線で闘ってきた世代です。東チモールの世代交代とは、60代の世代から40代ないしは40歳前後の世代へ国づくりの責任を譲ることを意味します。
シャナナ首相が世代交代のために権力の座から見を引くという意思表示は、去年タウル=マタン=ルアク大統領が自ら世代交代のバトンの引渡し役になるといった発言と響き合います。
今後、東チモールは世代交代が一つのキーワードとなって、政局だけではなく文化や社会の空気・雰囲気・在り様という面でも新しい局面を迎えていくことでしょう。
(*)1978年12月31日、フレテリンの第二代目の議長・ニコラウ=ロバトが戦死した。いま「議長」と訳したが、President(英語)またはPresidente(ポルトガル語)を「議長」と訳すか「大統領」と訳すか悩むところである。最近、1970年代のフレテリンの「議長」も東チモール民主共和国の大統領とする取り扱い方が既成事実化している。
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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