青山森人の東チモールだより 第261号(2014年3月8日)

憲法違反の報道法

バレンタインデー、近所で2件の結婚式

2月14日は日本では「バレンタインデー」として好意のしるしとして主にチョコレートを贈る商業的な行事と半ばなっていますが、東チモールでは「祝、聖なるバレンタインの日」
という横断幕が教会施設の入り口に張ってあるのをチラホラと見うけられ、日本と違って宗教色が強い印象を受けます。

日本ではこの日はチョコレートの日ですが、東チモールではチョコレートとはインドネシアやオーストラリアからの輸入品でかなり値の張るお菓子なので気軽に買える代物ではありません。ましてや義理チョコなど東チモールではありえないことです。

この日、2月14日、パーティ(東チモールではポルトガル語を使って「フェスタ」という)のしやすい金曜日ということもあって、ベコラ地区のわたしの滞在するジョゼ=ベロ君の家の近所だけで二件の結婚式がありました。まさに愛の誓いをする「バレンタインデー」らしい雰囲気に町内は包まれました。東チモールでは結婚式の披露宴は家の庭でやります。日本にある洋風の城のような結婚式場はありません。自分の家に大勢が集まって踊れる空間があればそこが結婚式場になります。その庭の広さが十分でなかったら近所の庭を借ります。地方では公共の広場を使用することもあり、こちらの方が日本人の感覚に近い結婚式場といえましょう。隣近所で結婚式がおこなわれるとなると、家族・関係者・町内の人たちがやんや・やんやと食卓・テーブルや椅子・ソファーそして食器などを貸し出し合って会場を整えます。祝い事の会場を自分たちの手で作る作業は、東チモール人の住む空間に占領者の雰囲気から東チモールの雰囲気を入れ替えるための大切な文化活動といえます。

さて2月14日に近所で催される結婚式をまえにジョゼ=ベロ君の家族もその準備に加勢して忙しそうでした。2件のうちの1件には、なんとカトリック教会のデリ(Dili、ディリ)教区のリカルド司教が、近所にできた小礼拝堂の完成式典への出席を兼ねてやってくるというので、近所の人たちがしているのはたんなる結婚式の準備ではなく、司教さんを迎える一大行事の準備でした。若者たち・子どもたちが2月初めから合唱や踊りの練習を続けていました。わたしは夜、自分の部屋にいながら美しい合唱団の歌声を聴くことができました。キーボードの演奏も歌も若者たちはうまいものです。そんなわけで2月に入ってから、近所一帯はどことなくそわそわとしていました。

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リカルド司教を出迎える“少女舞踏隊”。普段はいたずら少女たちだが、こうして伝統衣装を纏うと、なんとまあ凛々しい姿だこと。
2014年2月14日、ベコラにて。ⒸAoyama Morito

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リカルド司教(右、白い鬚)が花飾りを付けられた軽トラックに乗ってやってきた。この軽トラックは前の晩、わたしの滞在先する家で飾り付けをされていた。
同。ⒸAoyama Morito

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小さな礼拝堂の完成式がリカルド司教を迎えて始まった。合唱隊は舞踏隊より少し大きなお姉さんお兄さんだ。演奏も歌声もなかなかうまい。
同。ⒸAoyama Morito

報道の自由を保障し守ることとはいうけれど……

前号の「東チモールだより」で報道法なるものが国会に諮られようとしており、その内容たるや東チモールの、報道の自由、表現の自由、言論の自由を脅かすものであることを述べましたが、もうしばらくこの話題を続けたいと思います。

この法案の責任者といえる社会通信庁のネリオ=イザック長官は、週刊新聞『セマナリオ』(2014年2月15日)のインタビューに応じており、そのなかで「この間、ジャ-ナリストを規制する法律はなかったのではないか。政府がジャーナリストを規制する法律をいそいで成立させようとしています。この社会通信法の目的とは何か?」という質問に次のように答えています。(なお、わたしが報道法と邦訳している法律の名称は、テトゥン語でlei impresa、英語ではmedia lawと呼ばれていますが、この記事のなかでは社会通信法、テトゥン語でlei komunikasaun sosialと書かれている)。

「この法律は憲法第40条と第41条からきています。東チモール民主共和国憲法の第40条は報道の自由を保障しています。国家はジャーナリストに敬意を払い、すべての人びとには社会通信の組織をつくる自由があり、言論の自由を報道の自由としてもっています。憲法第40条は、国家はメディアを独占してはならず、したがってメディアが一部の者たちに独占されてはならず、すべての人びとがメディアをつくる権利をもっていると謳っているのです。すべてのメディアが知っておかなくてならないことは、このことにおいて報道の自由とは政治的・経済的な力に影響されてはならないことなのです。東チモールにおいてメディアを立ち上げるということは、政治的・経済的な力から自ら遠ざけて情報通信を守る仕事をすることなのです。情報通信の法律をわれわれが練っていることにかんして、東チモールという民主国家においてすべての人びとが言論の自由を、そして諸々の自由をもっているということを認識しなければなりません。
しかし責任が要求されます。メディアもまたすべての人びとにたいする責任が市民としてあるのです。この法律の目的とは、政治的・経済的な力から報道の自由を保障し守ることなのです」

このようにネリオ=イザック長官は憲法の第40条と第41条に基づいて報道の自由を保障し守るのが報道法だといます。しかし、その第40条と第41条に違反し報道の自由を脅かすのが報道法だというのが反対する立場の意見です。自由には責任を伴うという趣旨のことをチラリと口にしますが、そこにこそ目的があるようです。

前号の「東チモールだより」でみたとおり、この法律は報道評議会なる機関を設置して、それがジャーナリストになるための資格免許を発行する権限をもつという第6条と第7条は、どう考えても言論の自由と報道の自由を謳った憲法第40条と第41条と正面衝突します。また第8条は、ジャーナリズムの仕事に就いてはならない人や立場の条件を示しています。それは……、
a) 政府で働く者
b) 主権機関・地方自治体または共同体の責任者
c) 政党の指導者
d) 公共出版の関係者や役員
e) 商品やサービス業を宣伝している人

上のa) ~ e)のなかで意味が曖昧でよくわからない部分もありますが、「c) 政党の指導者」は明らかに大問題です。支持率にして第二の勢力である政党政治フレテリンは「ラジオ マウベレ」というラジオ放送局をもって番組を放送しています。報道法が成立すると「ラジオ マウベレ」は違法になってしまいます。あるいは日本に置き換えれば東チモールでは『赤旗』のような新聞は許されないというわけです。新聞ではないにしても、フレテリンの機関紙の出版も違法という可能性もあります。こんな法律が報道の自由を保障し守るためのものであるはずがありません。

イザック長官は、「報道の自由とは政治的・経済的な力に影響されてはならない」という一方で、報道の自由が政府という政治的な力に影響されることに矛盾を感じないようです。また、ある特定の立場に立った報道姿勢が即、公平ではない、ジャーナリズムとはいえない、と単純に考えているフシがあります。政府の立場も数ある一つの立場であることに気がつかないのでしょうか。権威のお墨付きを持った者だけが報道の仕事やジャーナリスト活動ができるという排他的な制度が報道の自由を保障し守るとイザック長官は本気で考えているのでしょうか。

フレテリンは最近、元国会議長のル=オロ党首も元首相のマリ=アルカテリ書記長も連立政権から責任ある任務を引き受けており(東チモールだより第259号を参照)、シャナナ=グズマン首相との関係が良好で、野党らしい政権批判の発言は控え気味です。シャナナ首相が辞任しても混乱なく新しい政府が樹立するまでこのような関係を保つつもりかもしれませんが、党の「ラジオ マウベレ」局が違法になるかもしれないという危機感を声高らかに表明してほしいものです。

emaとsidadaun

誰がこの法案の文言を考えたのか知りませんが、その人は、憲法や法案のなかで使用される用語への気の配り方が雑です。例えば、市民団体「共に歩く」(テトゥン語でLao Hamutuk[ラオ ハムトゥク])の指摘ですが、憲法第40条第1項に「すべての人は言論の自由のための権利、知る権利、そして事実を提供する権利を有する」とあり、権利を有する人が「すべての人」(テトゥン語で ema hotu-hotu、emaは人、hotu-hotuは「みんな」「全部」という意)となっている一方で、報道法第3条第1項では「すべての公民は、情報を提供する権利、知る権利が、自由で、発展した、正義の民主社会に到達するという最終目的とともに有している」と、権利を有する人がここでは「すべての公民」と「公民」(テトゥン語でsidadaun、ポルトガル語がcidadão、わたしはテトゥン語版を読んでいないが英語版ではcitizenとある、「公民」「市民」の意)となっているとのことです。憲法で「すべての人」に与えられている権利が、報道法では「公民」でない人には与えられないことになり、したがって報道法は憲法違反だと主張できます。emaとsidadaunの定義を明確にしないと法案として物になりません。

「人」が「公民」へ置き換えられることに抵抗感を覚えない人が法案の文章を練ったとしたら、用語の定義が不完全で使い物になる法案なのかという疑問が生じます。時間をかけて用語の定義を定めるため、法案を一度破棄して仕切り直しをした方がよいでしょう。

言語問題が引っかかる

わたしは、報道評議会の発行する資格について書かれている第7条を読んだとき、言語問題が引っかかりました。第7条で、インターシップ期間(ジャーナリストになるための6ヶ月の研修期間)中、被訓練者は職業の実践をとおして、権利・義務・正当な倫理の性質を認識するとともに、技術と言語の技能を深める努力をすること、その研修期間を成功裡に終了したと認められたら報道評議会はその研修生にジャーナリストとしての免許を発行する、という内容が書かれています。問題は「言語の技能」です。報道評議会の構成員が誰になろうとも、東チモールの言語状況をちょっと頭に浮かべれば、「言語の技能」という問題を一組織が混乱なく対処することはわたしには想像できません。

例えば、研修は何語で行われるのか?公用語であるポルトガル語とテトゥン語で?母語は無視するの?ジャーナリストを目指す若者にポルトガル語の読み書きができる人はいるの?いないから教えるとしたら誰が教えるの?ポルトガル人教師を招いて学んでもらう?テトゥン語は?いま大部分の新聞記事はテトゥン語で書かれているが、テトゥン語の作文能力の善し悪しを判断する基準はあるのか?……ちょっと考えただけでこうした問題が立ちはだかります。これらはこれから十数年あるいは数十年かけて解決すべき問題です。

結局、報道法は……

結局、言語の技能は報道評議会が資格免許を与える判断要素とは事実上なりえず、そもそも言語の技能は二の次であり、報道法はジャーナリストとしての権利・義務・倫理を押し付ける法律になる可能性があります。

東チモールでは、いまだ山の中に自由の戦士たちの骨が大量に埋まったままで、有志たちの手で細々と収骨作業がされているという状態にあり、自由への渇望の記憶がまだまだ生々しい状態にあります。自由を束縛する法案は、自由のために戦って死んでいった戦士たちの精神に反するのではないでしょうか。

~次号へ続く~

 

記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion4782:140309〕