青山森人の東チモールだより 第262号(2014年3月16日)

歴史を共有しよう

「3.11」

 東チモールで「2.11」といえば、2008年、反乱兵士らが二手に分かれてシャナナ=グズマン首相とジョゼ=ラモス=オルタ大統領(当時)それぞれを襲撃した日のことを指し、「3.11」といえば、東チモール民族解放軍の民衆に愛された英雄・ニノ=コニス=サンタナ司令官の命日(1998年)を指します。

 日本でいう「3.11」とは、大地震と大津波そして福島第一原発事故によって未曾有の災害と犠牲者をもたらし、今もなおもたらしている「東日本大震災」です。戦争に導いた指導者たちの責任がとられなかった第二次世界大戦の「第一の敗戦」と同様に、この「3.11」はこれまた責任が問われることない「第二の敗戦」となり、原発が再稼働されようとしています。

 二度あることは三度ある。「第三の敗戦」をなんとしてでも回避し、三度目の正直を迎えるためには、何が起こったかを記録し、何故敗れたかを検証することが必要不可欠であることはいうまでもありません。歴史と過去を無視して間違いを間違いとして認めたがらず自分の思いだけを主張すれば再度「敗戦」を迎えるのは、水が高きから低きへ流れるごとく、あたりまえのことです。

 何が起こったか、何をしたのか、日本政府が責任をもって検証していない歴史・過去に、日本軍占領下の東チモールがあります。2月19日(あるいは20日か)は、第二次世界大戦中の1942年、日本軍が中立国ポルトガルの植民地・東チモール(当時はポルトガル領チモールと呼ばれていた)に侵略した日として東チモールで記憶されていることをどれだけの日本人が知っているでしょうか。当時の日本にしてみれば、先に東チモールに軍を駐留させたのは連合軍なので(1941年12月)、これは「侵略」ではなく「防衛」なのでしょう。第二次世界大戦末期の日本の「絶対防衛圏」の南端にはチモール島があったのです。ポルトガル領のチモール島の住民にとっては、第二次世界大戦とはオーストラリア軍と日本軍の戦争に巻き込まれた災難以外の何物でもありません。

 オーストラリア政府は戦後、東チモール人にたいしてどのような賠償や補償をしたのかと問う前に、日本人はまず自分たちのしたことを考えなくてはなりません。最近NHK会長の問題発言などでしばしばし話題にのぼる従軍慰安婦の問題は東チモールにもあるのです。中国・韓国などのこの問題とは違い、東チモールのこの問題は話題にさえのぼりません。話題にならないのは、われわれ一般の日本人が知らなかったり、日本政府が意図的に放置したりするからであり、マスコミがだらしないからです。

過去より経済を優先することの弊害

 日本政府が東チモールにおける戦争責任や従軍慰安婦の問題を放置するのは、東チモール政府が日本政府にこの問題にたいして物申することをしてないことが口実を与えている面があります。

 『朝日新聞』(2013年12月21日)に載っていた伊東正子・京都大学大学院准教授(ベトナム史)による「ベトナムの『歴史』、国民が共有できない理由」はたいへん参考になります。ここで指摘される韓国・日本・ベトナムの関係も興味深いのですが、ベトナム国内事情に興味がひかれました。このなかで、ベトナム現政権は過去にふたをして、ベトナムを侵略したどの国にも過去を問わない、それは国民が「輝かしい戦いの勝利の歴史」を共有できないからであり、「国家は「『経済発展』こそが代わりになるとし、いたずらに『過去』を持ち出して対外関係を悪化させ、経済援助を減らしてはならないと考えている」と述べられています。

 侵略されてもその過去を侵略者に問わないとは、国際政治のなんと理不尽なこと。東チモールも、侵略国であるポルトガル・日本・インドネシアそしてインドネシアによる軍事占領を支えたアメリカを筆頭とする西側先進諸国などに、過去を持ち出していません。それどころかとくに気を遣い友好関係を保とうと努めています(ただし最近オーストラリアとは天然資源をめぐって外交関係が緊迫している)。

 侵略した過去をベトナム政府が持ち出さない「恩恵」に日本もあずかっていると伊東准教授は指摘します。東チモールもしかり、日本は東チモール政府が過去を持ち出さない「恩恵」にあずかっています。ベトナムと同様、東チモール政府もまた「いたずらに『過去』を持ち出して対外関係を悪化させ、経済援助を減らしてはならないと考えている」からです。

 そしてベトナム政権が過去を問わないのは「国民が『輝かしい戦いの勝利の歴史』を共有できないから」という伊東准教授の指摘は胸に突き刺さります。歴史の共有ができないことが過去を侵略国に問えない一因になっていることも、もちろんベトナムと事情は異なりますが、東チモールと共通するところです。東チモールの場合、「輝かしい戦いの勝利の歴史」は共有できているとわたしは考えますが、勝利(1999年9月)から独立(2002年5月)までの2年半、国連などの国際社会は不透明な国づくりに東チモールを落とし込み、指導者と民衆に溝をつくることに成功し、「輝かしい戦いの勝利」の喜びを東チモール人から奪い去りました。このことが東チモール人同士の「歴史」の共有に冷水を浴びせたのです。また、もし東チモールが外国にたいして過去を問おうとすれば必然的に1970年代後半の歴史に焦点があてられることになり、そうなれば1975年に内戦に陥り殺し合いをした自分たちの過去を問うことも回避できなくなります。すると圧倒的な勢力をもっていたフレテリンが裏切り者や反フレテリン勢力にしたといわれる過酷な仕打ちの責任が問われることになり、政情不安につながりかねません。1970年代後半の歴史の共有ができないという東チモールの弱みがあるわけです。

 外国の侵略軍に殺された東チモール人、フレテリンによって殺された東チモール人、反フレテリンによって殺された東チモール人……それぞれの遺族は泣き寝入りを強いられ、または納得できず苦悶しているのが実情です。過去を問わず、経済を優先することは、東チモール人に幸福をもたらさないとわたしには観えます。

日本は「恩恵」に甘えるな

 ベトナムや東チモールが過去を問わない「恩恵」に、過去に侵略した国は甘えていいわけがありません。いまの日本政府には期待はできませんが、「恩恵」に甘えることなくアジア諸国と積極的に歴史の共有に努める政権の樹立をわたしたちは目指さなくてはなりません、「第三の敗戦」を迎えないためにも。

 政情不安につながりかねない東チモールの内部事情を刺激しないように、日本は自分たちがしたことを自ら進んで検証し責任をとることはやる気さえあればいくらでも可能なはずです。東チモール政府からいわれないから責任を放置するのでは、たんなる甘えです。真の友好関係を築くためにも日本政府は日本のこととして東チモールを占領した過去と向かうべきです。

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首都の中心街を望む丘にある村・ダレにある第二次世界大戦記念館まえ。
2013年9月12日。写真Aoyama Morito

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第二次世界大戦に東チモールに起こったことが、テトゥン語・ポルトガル語・英語で記されている幕が張られてあるだけの簡素な展示空間となっている。
2013年9月12日、第二次世界大戦記念館にて。写真Aoyama Morito

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展示内容の一部。「連合軍とポルトガルの外交接触をうけて連合軍は、モザンビークから派遣された800名のポルトガル軍兵士を乗せた船・ジョアン=ベロの到着が差し迫ったあとに、東チモールを撤退する合意をする。しかしポルトガル軍が到着するまえに日本軍は1942年2月19日、ディリ(東チモール)とクーパン(西チモール)に同時上陸する。同日、オーストラリアは歴史上最大の攻撃を敵軍(日本軍)からダーウィンにうける」(カッコは青山)。
2013年9月12日、第二次世界大戦記念館にて。写真Aoyama Morito

~次号へ続く~

記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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