涙に暮れたベコラ
合同部隊が解散、捜査は続行
今年3月初め、CPD-RDTL(東チモール民主共和国-大衆防衛評議会あるいは人民防衛評議会)と「マウベレ革命評議会」という団体を非合法とみなし活動を強制停止させるために警察の実力行使を認める決議が国会で採択されると、3月半ば東部において、警察とこの両団体のメンバーらが衝突し、多くの者が武器を持って山岳部へ逃亡してしまいした。この事態をうけて、3月31日、政府は東チモールの国軍と警察の合同作戦部隊を結成することを決めました(「東チモールだより 第265号」を参照)。
軍と警察の合同部隊は、武力衝突を避けながらも多数を投降させるという成果を挙げました。しかしまだ武器を持って逃げている者たちが山か村かどこかに隠れているままです。30数人といわれています。かれらは現在の指導者たちの政治的方向性についていけない、いわゆる“思想的な不満分子”だと思われます。かれらは住民の脅威になる存在ではないとみなされたのでしょうか、東チモール東部のラガ・ケリカイ・バギア・ウアトラリなどで展開されてきた合同部隊は5月17日に解散されました。ただし、警察による捜査は続行されます。『テンポセマナル』紙のジョゼ=ベロ君によると、かれらを捕まえるのは容易ではないとのことです。
国家の武装機関の人員でない者で、かといって犯罪集団でもない者たちが不法に武器を所持しているという事実はスッキリしない東チモールの状態を象徴的に表しています。過去に起こった指導者たちの覇権争いが未だに尾を引いています。この問題は住民を不安にさせるほどの影響がないようですが、決着のつかない過去の問題は東チモールにはこの他にも多数残っています。「過去」は思いもかけないかたちで頭をもたげるかもしれないので注意は必要です。
道路の側溝が掘られまくっている
あいかわらず首都デリ(ディリ、Dili)は道路工事の雨あられ状態です。工事をしては、すぐに穴ぼこになったり、ちょっとまとまった雨が降るとすぐ冠水したりする道路は「質がない」「金の無駄使い」などと住民や新聞に悪態をつかれる政府ですが、それでも道路工事は止みません。しかし今の道路工事はこれまでとは一味違うように見うけられます。アスファルトで黒くきれいに化粧された、大統領府や政府庁舎付近を中心とした大通りの様子はこれまでにないきれいな景観です(たぶん、近くCPLP=ポルトガル語諸国共同体の議長国となる東チモール政府は、外観だけでも恥をかかないようにとそれなりに懸命なのでしょう)。アスファルトの黒化粧をしていない道路でも、両側面が重機のドリルで掘られ、側溝あるいは排水溝が工事されているのです。したがって、いま見られる工事とは正確にいうと道路工事ではなく道路側溝工事です。
あっちこっちの道路の側溝が削り掘られコンクリートの残骸で盛り上がっているので道幅が狭く歩きづらいといったらありません。中・小型の重機が路肩をドリルで削り掘っている現場が首都に点在し、これまたそこを歩いて通り過ぎるのに難儀してしまいます。活躍しているその中・小型の重機は一箇所に留まっておらず絶えず各現場へ移動しています。おっ、全体的に統制がとれているな!……と、これまでの道路工事とはちょっと違う趣を感じ、期待をもたせます。
写真1
首都のあちらこちらでこのように重機のドリルで道路の側溝が削り掘られている。これまでに見られなかった道路工事の風景だ。
2014年5月22日、メルカードラマの環状交差点にて。ⒸAoyama Morito
しかしながら重機で削り掘った側溝工事現場に作業員が工事をしている所が少なく、ただコンクリートの残骸が盛り上がっているだけの状態になっている所がほとんどなのは、やはり不安を感じさます。そして作業員がいるとしても、重機で本格的に掘られた跡に素手でいじっている姿は本格的に工事している様子にはとても見えないので、心細く思えます。
もし排水溝工事が成功し、ちょっとくらいまとまった雨が降っただけでは道路が簡単に水浸しになるようなことにならなければ、世論は政府にこれまでのようには悪態をつかないことでしょう。そうなるように望みます。
写真2
掘ったあと、ちゃんと水はけの良い道路に仕上げてくださいよ。口をあけた側溝に落ちないように、下を向いて歩こう。もちろん走る車にも要注意だ。歩きにくい道路が多くて困る。
2014年5月22日、クルフン地区にて。ⒸAoyama Morito
しかし最も望まれるのは、国際社会のお客さんの顔色を心配しなくてすむための工事ではなく、都市部では小さな裏路地界隈にいたるまで一般庶民の衛生状態を向上させる工事であるし、地方の住民の生活が向上するための工事です。
独立記念式典のためにオイクシに行っているタウル=マタン=ルアク大統領は、まだオイクシの一部住民のあいだで東チモールの国旗を知らずインドネシアの国旗を掲げる人がいるときいて少し心配していると語っています。また、このオイクシ地方を含めて、電気の恩恵を受けていない住民はまだ東チモール全体で約44%にものぼると語っています(『チモールポスト』2014年5月23日より)。全土に発電網を張り巡らすためのヘラとベタノにつくった新しい発電所は一体全体何なのだと疑問に思わざるを得ません。このような現状で、南部海岸地方の「タシマネ計画」やオイクシ地方の「特別経済区」の大型開発事業に何の意味があるでしょうか。地方住民に疎外感を与えない政策と快適な日常生活を都市部よりもむしろ地方の農村部でこそ営めるくらいの気の利いた細かい公共工事を大規模事業よりも優先させた方が得策です。
「ビラ ハルモニア」のジョアナさん、死去
わたしが滞在するジョゼ=ベロ君の家はベコラと呼ばれる区域にあります。ベコラはかつてインドネシア軍占領時代にもわたしはよく泊まりました。泊まったのは「ビラ ハルモニア」という宿でした。わたしだけでなく他の日本人を含めて多くの外国人の活動家やジャーナリストがよく利用したのが「ビラ ハルモニア」でした。外国人が集まる「ビラ ハルモニア」を経営するご主人のペドロさんは当然のごとく常にインドネシア当局から監視される身でした。当時ペドロさんは神経質そうにいつもびくびくしているような仕草をしていましたが、奥さんのジョアナさんはどっしりと構えていて、とても好対照でした。インドネシア政府の役人の制服を着て仕事に行く堂々とした姿は、わたしたち(わたしとカメラマン)を安心させてくれたものです。
かくまうように客として泊めてくれただけでなく、「ビラハルモニア」はわたしたちには貴重な情報を与えてくれたり、またこちらの情報を解放軍へ送ってくれたりするなどしてくれました。わたしたちだけでなく他の外国人活動家や支援者たちにも同様のことをしたに違いありません。解放闘争時代、「ビラハルモニア」の果たした役割は大きく、そして特殊でした。また、わたしたちはジョゼ=ベロ君や重要な活動家たちとよくここで密会したものです。
ちなみに、ペドロさんはタウル=マタン=ルアク大統領と同じバウカウ地方のバギア出身で、子ども時代、二人は兄弟のように近しい関係にあり、ペドロさんは兄貴分にあったようです。またバウカウの学校ではペドロさんの同級生にデビッド=アレックス司令官がいたのです。
戦後(インドネシア軍撤退後)、わたしは「ビラ ハルモニア」に泊まることはありませんが、海外の東チモール研究者や学者がよく「ビラハルモニア」に滞在しているのが見られます。戦後の「ビラハルモニア」の売りの一つは「エコツアー」です。これに参加した日本人もいることでしょう。
わたしはジョゼ=ベロ君の家から坂道を下ってデリ中心地へ向かう途中、東チモールに滞在するあいだは毎日のように「ビラ ハルモニア」の前を通ります。ときどきご主人のペドロさんと話をしますが、ジョアナさんとは顔で挨拶する程度でした、
そのジョアナさんが5月21日、亡くなってしまいました(享年はたぶん60歳前後だと思う)。21日の午後の帰り道、「ビラ ハルモニア」の前には公用車を含めて多数の車が止められていました。22日になると、大勢の弔問客が「ビラ ハルモニア」に押し寄せ、この辺一帯は混雑状態になってしまいました。
葬儀は5月23日におこなわれました。午後3時40分ごろ家族や関係者の一行と霊柩車がゆっくりと「ビラ ハルモニア」から出てきて、近くの教会へと移動しました。その間わずかな距離ですが、道路は完全に人で塞がってしまいました。教会での葬儀は管弦楽器の生演奏がされ、厳かな様式美に包まれました。教会には入りきれない人もでるほどでし。葬儀で弔辞を読むシスターが生前のジョアナさんについて述べるなかで、やはりインドネシア軍占領時代に多くの外国人の活動家やジャーナリストを「ビラ ハルモニア」に泊めて助けた活動が紹介されました。5時10分ごろ、一行は再び「ビラ ハルモニア」にゆっくりと戻りました。この時間帯はそれでなくても交通量が増える時ですので、道路は大渋滞、交通麻痺を引き起こしてしまいました。もしもこのとき偶然に、この道を軍や警察の車輌や救急車が急いで通過しなければならない事態になったらどうなるのか……ちょっと心配になります。
ジョアナさんの永眠する棺は5時半ごろから6時40分ごろにかけて、「ビラ ハルモニア」の中庭に埋葬されました。この一時間以上のあいだ大勢の人がその様子を立って見守っていました。埋葬が終わると、弔問客は一人ひとりお墓に献花し祈りをささげます。すでにあたりは真っ暗になっていました。7時ごろから弔問客に「ビラハルモニア」の用意するご馳走が振舞われました。なにせ大勢の人びとですので、生半可な食事の量ではありません。車は路肩に駐車されているとはいえ、相当の台数なので、「ビラハルモニア」周辺の交通渋滞はしばらく続きました。
抵抗運動に尽くした縁の人物が一人また逝ってしまうのは、このうえもなく寂しいことです。戦争という苛酷な環境のなかでジョアナさんからいただいた親切なもてなしを決して忘れることはありません。
写真3
ジョアナさんの家族が葬儀のおこなわれる近くの教会へ涙ながらにゆっくり歩く。
2014年5月23日、ベコラにて。ⒸAoyama Morito
写真4
教会の葬儀が終わり、「ビラ ハルモニア」に戻ってきた人びと。あたりはすごい人の数で交通が麻痺した。
2014年5月23日、「ビラ ハルモニア」の入り口にて。ⒸAoyama Morito
~次号へ続く~
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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