青山森人の東チモールだより 第300号(2015年5月19日)

「独立回復」13周年を迎える東チモール

まだ雲たちぬ五月

 ここ3~4日間の早朝はとても肌寒く、朝五時ごろ目を覚まして何か一枚重ねないと寝冷えをしてしまうほどでした。わたしの部屋の温度は朝の7時ごろで25~26℃と、東チモールの首都としてはかなり低い部類の気温となりました。わたしのまわりには鼻風邪をひいてくしゃみを連発する人が多くいます。

 しかし18日の夕方、南部の山岳部から雲が立ちこめ空の一部を覆いながら北の海へ流れていきました。このような雲が発生するのは雨季の特徴です。まだ雨季は完全に終わりきっておらず乾季との狭間にあるとみえます。実際、19日は肌寒いどころか、室温が29℃と30℃は下回りましたが、湿度がほぼ70%近くまで上昇しムシムシと汗ばむ暑い朝を迎えたのでした。

 ベコラにあるわたしの滞在先からちょっと歩くと川があるのですが、雨の降らない普段は水無し川です。水が流れない“川底”は人が歩き車も走る道路としても利用されます。しかしひとたび大雨がとくに山岳部で降ったとき、このような水無し川の様相が一変するので気をつけなければなりません。大量の水がうなりをあげて激しく流れます。つい最近、この川の激流に60代の男性がのまれ海で遺体が発見されるという事故が発生しました。この男性は村の村長を務めたことのあるフレテリン関係者だった人物で、わたしの滞在先の家にもよく訪ねてきた人だということです。東チモールでは災害から住民を守る防災態勢が整っていないので、自分で自分の身を守るため天候不順と自然災害の因果関係をよく知っていなければなりません。

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このあたりで男性は激流にのまれ死亡したという。大雨が降ったとき“川底”はもちろんのこと、この付近を歩くのさえ危険だ。
ベコラにて。2015年5月16日。©Aoyama Morito

依然として逃走中のお尋ね者・マウク=モルク氏

 早いもので、この5月20日で東チモール民主共和国が広く国際社会に認められるかたちで独立してから13年目を迎えようとしています。東チモールでは「5月20日」に達成した独立を「独立回復」と呼んでいます(詳しくは「東チモールだより第213号」〔2012年5月22日〕を参照)。しかしたんに「独立」と称しても東チモール人から噛み付かれることはなく一般に差支えはありません。

 いま10歳~15歳になっている東チモールの子どもたち、つまり独立前後に生まれた東チモールの子たちと遊んでいると、少子化の日本との比較においてういういしい東チモールのエネルギーを感受することができます。また、この子たちがこうして元気に笑顔で遊べるためにどれだけの犠牲が必要だったことか……と感傷に強くひたることはほとんどなく、解放闘争の苦しい時代のことは過去になりつつあるのかなと時の流れをつい感じてしまうこともあります。もちろん、わたしがそう感じるのはわたし自身の個人のことであって、外国に占領されていた時代に被った東チモール人の傷が癒されたかどうかとはまったくの別問題です。

 インドネシア軍に侵略占領された24年間、大勢の行方不明・失踪者がでました。5月18日、家族と離れ離れになりインドネシアでインドネシア人として長年暮らしてきた17名の東チモール人が祖国の土を踏み、家族と涙の再会を果たしました。まだまだ大勢の東チモール人家族が離散状態のままであることを考えると、解放闘争が過去のものとなるにはまだまだ先のことだと想い直すしだいです。

 あるいはまた、東チモールで見る大勢の10代の子どもたち・若者たちはこのままいくと大勢の失業者となってしまうことを考えると、雇用創出が国家の急務であり、東チモールは解放闘争の感傷にひたる余裕はないのです。

 未来を見据えなければならない国づくりにまるでケチをつけるように、1980年代の解放闘争組織の覇権争いに敗れたマウク=モルク氏が騒動を起こし、3月にはバギアで国会議長の警備隊や警官そして地元有力者宅を襲ったとして、警察と軍の合同部隊のお尋ね者になっていますが、同氏の逮捕はどうやら独立記念日をまたぎそうです。

 政府は合同部隊に200万ドルの予算をつぎ込み今度こそはと意気込んでバウカウ地方で捜索活動を展開しています。しかし意気込みが空回りしたか、捜索活動は無関係な住民にとって交通や移動の障害となるなどの反感を買い、政府は少々てこずっている様子です。5月18日、国営「ラジオ東チモール」のニュースで、アジオ=ペレイラ内閣官房長官は、もうすぐマウク=モルク氏を捕まえるであろうと自信を見せる発言をしていました。

 マウク=モルク氏の行動は一般庶民にとってまるで無関係であり、ある程度の共感を得ているともわたしには思えません。合同部隊がなかなか同氏を探し出せないのは、家族がかくまっているからでしょうが、そんなものはたんなる家族の問題であり、土地ましてや国の問題でもなんでもありません。本当に苦しい解放闘争を戦い抜いてきた東チモール人は謙虚な人たちばかりなのであからさまに口には出しませんが、インドネシアに投降してオランダに滞在してきた人物が、何をいまさらほざいているのか!というのが本音であろうとわたしは確信しています。ともかく合同部隊は地域住民の生活を妨げることなく速やかにそして平和裏にこの騒動に終止符をつけてほしいと思います。

「独立回復」記念式典、今年はマリアナで

 「独立回復」記念日前の首都デリ(ディリ、Dili)の町は国旗で飾られ祝賀ムードが漂っています。去年まではたしか、小さな国旗を連ねて軒下に飾るのが主流だったと記憶していますが、今年は大きめの国旗をドカーンと一本、家や店の前に立てておくのが主流となっています。

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このように小旗ではく大きな国旗をはためかせておくのが目立つ。
2015年5月15日、首都のクルフンにて。©Aoyama Morito

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通信会社の「独立回復」13周年を祝う看板だが、星条旗を東チモールの国旗に摩り替えたようなデザインには反発を覚える。だいいちヘルメットをかぶっている兵士のシルエットは東チモール人を連想させない。2015年5月15日、首都のコルメラにて。©Aoyama Morito

 今年は政府主催の「独立回復」式典はボボナロ地方の主都マリアナでおこなわれます。
したがって首都デリで見かける祝いの看板や横断幕は質素なものです。おそらくマリアナには「独立回復」13周年記念を祝う大掛かりな看板や横断幕の飾りつけがされていることでしょう。

 政府主催の式典に東チモール国民が集中して群がる時代はもうとっくに終わりました。政府の式典を見たかったらテレビを見ればよいだけです。それぞれの団体や共同体が思い思いの祝い方をする時代になったのです。

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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