「さらば、ラサマ」、あまりにも早すぎる死
突然の訃報
早いもので今年も6月になりました。1日は雨でしたので2日はカラリといきたいところですが、明け方の室温は28℃と低いのですがさほど冷えはなく、期待に反してジメジメといきました。その2日のお昼ごろから雨が降り出し、町ゆく人たちは歩みを速めました。
ファロル地区の学校帰りの生徒たちは、雨にあたりながら、家路を急ぎみんなでキャー~ッという声をあげながら、渡れば怖くないとばかりに危なっかしい大通りの横断をします。ここはわたしを含め多くの歩行者が横断する道路ですが、警察の配慮が届かないところで、なんとかしてほしいといつも横断に手間取るたびに思っている道路です。
訃報です。1日の午前10~11時ごろ、コバリマ地方の首都スアイで教師たちとの対話集会の最中、民主党の党首・フェルナンド=デ=アラウジョ(通称「ラ サマ」)教育大臣(社会問題調整担当大臣を兼任))が脳卒中(あるいは脳溢血か)で倒れ、急遽、小型飛行機で首都デリ(ディリ、Dili)に搬送され(車だと少なくとも山道7時間)、午後2時、国立病院の集中治療室に入院しました。国内では対処できないとして、病院側はシンガポールへ大臣を搬送すべく特別機を手配しました。しかし翌2日朝8時半ごろ帰らぬ人となってしまいました。まさにあっという間の出来事、大臣の突然の死去でした。享年52歳。
シャナナ=グズマンら1970年代指導者たちから次の世代を担う指導者として、現在のルイ=デ=アラウジョ首相のようにシャナナ前首相から差し出された権力を拝受するのではなく、国会議長・大統領代理・副首相などを歴任し実績を積み重ね、政党を率いて選挙によって権力を奪取しうる若い実力者として期待される人物だっただけに、本人にとっては早すぎる死はさぞ無念であろう。
政府はラサマ大臣の死去をうけて2日から喪に服し、5日、メティナロにある英雄墓地にラサマ大臣を埋葬することに決定しました。
「さらば、親愛なるラサマ」。
首都、コルメラ地区にある民主党事務所前にて、2015年6月3日。ⒸAoyama Morito
東チモール人の急死におもう
ラサマ大臣の突然の死去をしり、わたしは政治的な事柄よりもむしろ健康について考えさせられました。
ラサマ大臣が倒れた原因は、出血性の脳卒中であると新聞で報道されています。ある程度の年齢になれば脳卒中や脳溢血で倒れる人が近い知り合いに出てくるもので、あすは我が身と思うものです。津軽では脳卒中や脳溢血にかかることを、「中る」(あたる、あだる)とよくいう。中る前の症状、中った場合の対処の仕方などが日本ではテレビ・ラジオ・新聞などのメディアをとおしてある程度の情報が流れていますが、東チモールではそうではありません。なんだかいつもと違うなぁと体調不良を感じた人が病院にいき、軽い脳卒中だといわれ入院し、ことなきをえたという人がわたしの知り合いにいます。もしこの人が東チモール人ならば、ラサマ大臣のような運命をたどったのかもしれません。コバリマ地方でラサマ大臣は倒れる前に体調不良を訴えながらも薬をのみながら教師たちと対話をしていたと『チモールポスト』(2015年6月3日)は報じています。この時点で大事をとったらあるいは……と思うと残念でなりません。
また、同新聞によればラサマ大臣は5月27日エルメラ地方で、28日にはトゥトゥアラ(本当だろうか、西部エルメラとは反対の東部のラウテン地方だ?!)で、教師たちとの対話に臨み、31日夜にコバリマ地方スアイのホテルに到着し、休みをとらずに職員たちとビールを飲んで楽しんでいたといいます。長時間の移動のあとに十分な休息をとらなかったことがあるいは倒れた遠因になったのかもしれません。
2月に発足した第6次立憲政府の閣僚数は前第五次と比べ17名の削減となり30人台となりましたが、大臣の兼任が目立ちます。むだな業務を削減した結果として人数が減ったのではなく、ただたんに一人の人間により大きな重荷を背負わせることで人数が減ったとすれば、人間は過労にさいなまれることになります。ラサマ教育大臣は社会問題調整担当大臣を兼任していました。ラサマ大臣のことを周囲の者たちが疲れを知らない人物として称賛するのは悪いことではありませんが、政府構成員が担う仕事の質とともに冷静に量についても検討の余地があります。
インドネシア軍事占領時代、粗食に耐えた東チモール人の食生活は、独立(独立回復)してからこの13年のあいだ、ずいぶんと豊かになりました。貧富の格差が拡大しているなか豊かな者たちにかぎる話ですが、概して肉そして最近は魚もよく食するようになりました。しかし野菜や果物の摂取は極端に少ないことは栄養学にまったくの素人であるわたしにもわかります。そしてとくに成人の運動のしなさ加減は目に余ります。一度たりとも腹筋運動をしたことがないのではないかというような指導者たちの飽食気味の腹の出っ張り具合をみると、政府は日常の健康管理に気を配るための全国キャンペーンを展開し、指導者たちは自らの健康を省みたほうがいいと思います。
わたしよりずっと若い東チモール人が突然病気で亡くなることはわたしの身近にもしょっちゅう起こります。そのたびに表面上の変化は多々あるが東チモールは所詮なにもかわっていないのではないかと気が滅入ります。日常生活におけるちょっとした健康への気の配り方で救える大勢の命が東チモールにはあるとわたしは察します。
葬儀会場を出るルイ=マリア=デ=アラウジョ首相(左)。
会場には入りきれない大勢の人たちが日陰に立って参列していた。
ファロル地区にて、2015年6月3日。ⒸAoyama Morito
次の選挙が楽しみだったはず
フェルナンド=“ラ サマ”=デ=アラウジョ氏は1963年2月26日、アイナロ地方生まれ。
1988年に結成された学生地下組織RENETIL(東チモール学生国民地下組織)の創設者の一人でその書記長を務め、1988~1991年バリ島デンパサールのウダヤナ大学で学びます(同時代に同大学で学んだリジア=シメネスさんによる学生地下組織にかんする話が拙著『抵抗の東チモールをゆく』に記述されているので参照されたい)。
1991~1998年、シャナナ=グズマンも収監されたジャカルタのチピナン刑務所で過ごし、スハルト大統領退陣にともなって釈放され、すぐ日本などアジアを訪問しました。このときに出遭ったフィリピン女性と結ばれ子どもをもうけ、最近、別れ、現在は東チモール人女性の妻とのあいだに女の子の赤ちゃんを授かっています。
国連暫定統治時代のなかで2001~2002年、暫定移行内閣で副外務大臣を務め、2001年、総選挙に備え民主党と創設し党首の座にすわりつづけました。2007~2012年、シャナナ第一期連立政権で第二代国会議長に就任し、2008年にはジョゼ=ラモス=オルタ大統領がアルフレド=レイナド率いる反乱兵士に撃たれオーストラリアの病院に入院中、大統領代理を務めました。2012年からの第二期シャナナ連立政権では副首相に就任、現在のルイ=デ=アラウジョ政権で教育大臣と社会問題調整担当大臣を兼任していました。
来る2017年の総選挙で実績を重ねる若い世代の代表格であるラサマ氏がどのような結果を出すことか、2007年と2012年の大統領選挙で決戦投票に駒を進めることはできなかたもののラモス=オルタ候補を十分に脅かすだけの票を獲得し存在感を示したことを思えば、次期政権を担いうる政治家でした。
ラサマ氏は「もし生きていたら……」と今後永く語り継がれる存在となることでしょう。それほどラサマ氏の突然の死は東チモール政界にとって大きな出来事なはずです。
一般人や学校の生徒たちを含め政府要人など大勢の人びとが弔問に訪れている。
ファロル地区のラサマ大臣の公邸前にて、2015年6月4日。ⒸAoyama Morito
~次号へ続く~
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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