青山森人の東チモールだより 第308号(2015年8月11日)

「マウベレ革命評議会」のマウク=モルク議長、死亡

マウク=モルク氏と合同部隊の銃撃戦

 1980年代の東チモール解放組織内部における覇権争いの敗北を引きずったマウク=モルク氏が、覇権争いに勝ったシャナナ=グズマン氏が解放運動の最高指導者となり、さらに政府を指導する首相となるのを苦々しくおもい、シャナナ連立政権に罵詈雑言を浴びせるとしても、それは人間の自然の感情として同情の余地はあります。しかし警官を襲いピストルを奪ったり(「東チモールだより 第289号」参照)、警察署を襲撃したりするとなると(「東チモールだより 第296号」参照)、いくら声高に腐敗した政府にたいする“革命”だと訴えても、その暴力行為にはもはや同情の余地はありません。

 軍と警察で構成される合同部隊は「捜索作戦」と名づけられた作戦のもと、マウク=モルク氏とその非合法組織「マウベレ革命評議会」の幹部らを捕まえる活動をバウカウ地方(*)で展開してきました。この間、合同部隊による住民への行き過ぎた取調べ行為は人権侵害であるとか性的虐待行為もあったと非難されてきました。さらに合同部隊による過失(といわれる)により住民から死者を出し、一方で合同部隊からも重傷者が出るなど、合同部隊の捜索活動をめぐってさまざまなかたちでの被害が発生してきました。そのわりには結果が出ない、なぜか、時間が経過するにしたがって疑問視されるようになってきました。
(*)最近、東チモールでは「地方」という行政単位(日本の県に相当)を、distritoを使わずに代わってmunicípio 「自治体」という表現を使っている。

 8月8日、結果が悪いかたち出てしまいました。午後4時ごろ、マウク=モルク氏らと合同部隊とのあいだで銃撃戦があり、マウク=モルク氏は死亡したのです。以下、現地の報道を整理して経過を要約してみます。

 まず8月6日午後1時ごろのこと。バウカウ地方のベニラレ準地方ファトゥリア村でマウク=モルク氏たち5名と合同部隊のあいだで銃撃戦がありました。この銃撃戦でモルク氏側1名が死亡、合同部隊側の2名(1名が警察、1名が軍兵士)が重傷、かれらはヘリコプターで首都の国立病院に搬送されました。

 一部報道によれば、同じ8月6日、バウカウ地方とビケケ地方の“県境”に近いオス(ビケケ地方)付近でモルク氏の仲間3名が逮捕されています。「マウベレ革命評議会」は三手に分散し移動していて、そのうちの一つがモルク氏自身を含んだ5名の集団でした。この集団と遭遇した地元住民はモルク氏の顔を認識していたので、モルク氏らが自分たちは軍の者だから心配ないといわれても信用せず警察に通報し、これをうけて合同部隊が出動、モルク氏らと対峙し、30分ほど言葉のやりとりをしたあと、モルク氏側の1名が投降すると地面に伏し、合同部隊はモルク氏にも投降するように呼びかけたが、モルク氏は手榴弾を投げ、合同部隊はそれを竹やぶへ投げ返し、モルク氏は発砲しはじめた…。ベニラレの行政官が語ったところによれば、銃撃戦は双方が5~10メートルしか離れていない接近戦で5分間ほど続き、モルク氏側の一人が腹部を撃たれ死亡、警官1名は胸を、軍兵士1名は手足をそれぞれ撃たれ重傷を負ったとのことです。モルク側の武器はピストル二挺だけ。モルク氏を含め他の4名はその場から逃げ、合同部隊はかれらを追跡しました。目撃者によればこの銃撃戦でモルク氏は負傷したらしく、合同部隊は血痕を追ってモルク氏たちの足取りを追いましたが、その血はモルク氏のものである可能性が高いといいます。

 そして2日後の8月8日午後4時ごろのこと(あるいは5時ごろ、報道によって異なる)。ベニラレのワイタリブ村で、マウク=モルク氏らと合同部隊が再び銃撃戦を交え、モルク氏とその仲間2名が死亡したのです。

 モルク氏を含めた「マウベレ革命評議会」側の遺体は、国立病院で司法解剖されるため、同日ヘリコプターで首都に搬送されました。政府はマウク=モルク氏の死亡を確認したことを発表しました。

 「マウベレ革命評議会」の残党がまだいるため、合同部隊の作戦は継続される模様ですが、マウク=モルク氏が死んでしまった以上、「マウベレ革命評議会」には余力はないと思われます。合同部隊はこれ以上の人命の損失を避けるため、かれらを捨て鉢な行為に追い詰めないように慎重な行動が求められます。

情報非公開の治安会議

 政府は8月9日、関係閣僚に加え、軍のレレ=アナン=チムール陸軍少将とファルル=ラテ=ラエク大佐も参加した治安会議を開きました。しかしここで何が話し合われたか、内容は一切公開されていません。合同部隊の作戦をいかに進展させるかについて話し合われた、詳しくはいえない、司法解剖の報告を待つと、アジオ=ペレイラ内閣府長官は記者らに述べるだけです。

 おそらくマウク=モルク氏の死の取り扱い方も話し合われたのではないかとわたしは勝手な憶測をしています。単刀直入にモルク氏の死を国家機関に銃口を向けた犯罪者の死と取り扱えば、モルク氏は元解放軍の司令官だった人物であることから波風がたつかもしれません。そうならないような取り扱い方をするように、そのへんの意思統一を図ったのではないでしょうか。つまらないことに思われるかもしれませんが、マウク=モルク、実名パウリノ=ガマ氏は、L-7と呼ばれる元国会議員で解放軍司令官だったコルネリオ=ガマ氏の実弟、その他の兄弟も解放闘争で活躍した人物であり、この家族はバウカウ地方ラガに影響力をもつことから、かれらをへたに刺激すれば新たな火種になりかねません。マウク=モルク氏の死について柔和な取り扱い方をした方が無難といえましょう。コルネリオ=ガマ氏は政府や大統領に、弟の問題を平和裏に解決してほしいと訴えてきましたがついにそれは叶いませんでした。弟の死について兄のL-7がどう受け止めるか、今後の焦点になることでしょう。

真相が語られない東チモール

 東チモールの地元新聞は、「マウク=モルク氏の問題」とよく表記します。しかしそれがどのような問題なのか?具体的な説明を試みている記事をわたしはまだ読んだことがありません。政府も大統領府も具体的な説明をせず、ただ「マウク=モルク氏の問題」というからです。

モルク氏が騒動を起こした狙いはそもそもどこにあるのか、背景は何か、支援者が後ろにいるのか、結局、本人の口から本質的なことが語られるまえに本人は死んでしまいました。これは2006~2008年に暴れたアルフレド少佐が真相を語ることなく死んでしまったことを想起させます。2008年2月11日に起こった大統領・首相同日襲撃事件に関わった者たちの裁判が開かれても、結局、事件の真相は明らかにされないままに裁判は終わってしまい現在に至っています。モルク氏の問題についてもこれが繰り返されるような気がします。

 武器を使用した事件の真相が伏されたままとなれば、腑に落ちない東チモールの一般庶民はモヤモヤとした政治空気を感じとり、政治不信が醸成されます。これは東チモールの発展にとって足かせとなります。政府は「国家の利益」と「国民の知る権利」を秤にかけ、前者に重きをおくことでしょう。しかし今回のモルク氏の問題にかんして一般住民と合同部隊員から死傷者が出てしまった重大さを政府は受け止めて、情報公開の仕組みを考えた方が「国家の利益」になる可能性があるという選択肢を考慮することをわたしは望みます。

 ともかく今は、モルク氏の仲間がまだ逃亡しているならば、かれらを平和的な手法で捕まえることが先決で、さらに合同部隊がしたと非難される人権侵害行為についても然るべき政府機関が調査するのもまた先決です。

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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