解放軍創設40周年記念に想う
マウク=モルク氏と分かち合えなかった解放軍創設40周年記念
8月20日は、1975年のこの日FALINTIL(ファリンテル、Forças Armadas para Libertação Nacional de Timor-Leste、東チモール民族解放軍)が創設された東チモールの記念すべき日です。FALINTILは武装戦線の軍事組織であると同時に、他の二戦線(地下戦線と外交戦線)を含めた解放組織全体の核となる存在でした。
続く8月30日(1999年)は東チモールの帰属問題に決着をつけるため国連支援による住民投票が実施された日としても記念日となっており、そして9月4日は住民投票の結果が発表され独立を望む票がインドネシア自治領となる票を圧倒し、東チモールの独立が決定された日として歴史的な日と位置づけられています。
9月になると道路わきにローソクの灯がともされます。これは住民投票の結果にたいする報復として暴力の限りを尽くした民兵(インドネシア準軍)の犠牲になった人びとの霊を慰めるためのものなのです。
住民投票が実施されてから16周年を祝うタウル=マタン=ルアク大統領の祝辞。
「24年間の疲れを知らない闘争の精神と、独立をもたらした団結力とともに、いま一度互いに手を携え、日常生活の大いなる不安である貧困と欠乏に立ち向かおう。われわれの犠牲はわれわれの自由に」。
『テンポセマナル』紙の電子版『テンポチモール』より。
FALINTILと民衆が一心同体となって侵略軍と戦った結果として、いま東チモール人が自由と独立を享受できていることを思えば、「5月20日」の「独立回復の日」と「11月28日」の「独立宣言の日」にならんで、いや、それ以上に「8月20日」は東チモールの庶民にとって大切な日といえるかもしれません。大勢の東チモール人がFALINTILを育て、FALINTILを助け、FALINTILとともに戦いそして死んでいきました。とくに1990年前後から1999年までの間、東チモールではFALINTILによる“究極的な民主主義”が実践されていたともいえます。なにせ人びとの支援と支持がなければFALINTILは戦えないばかりか食べていけなかったため、FALINTILは民衆に全面的に寄り添わなければならなかったからです。民衆にとってもFALINTILは分身のような存在であり、FALINTILのために犠牲を受け入れ、FALINTILは生きる希望そのものでした。
しかしながら、拙著『東チモール 未完の肖像』(社会評論社、2010年)でも書きましたが、国連暫定統治の1999年11月~2002年5月の2年半のあいだ、国際社会はFALINTILと民衆の切り離しに成功しました。FALINTILのシャナナ=グズマン総司令官ら東チモール人指導者にとって寄り添うべきは民衆から国際社会の援助へと移行し、その国際社会に強く物申すことはできなかったし、しようとはしなかったのです。
国連統治下でFALINTILは国軍FALINTIL-FDTL(FALINTIL-東チモール防衛軍、F-FDTLと俗に記されるが、東チモール防衛軍のFDTLに慌ててFALINTILのFを付け足した)に精神を引き継ぐというかたちで解体・編成されましたが、解放闘争の指導者たちは国際社会の顔色をうかがうもFALINTILとともに戦った人びとの意見を聴くことなくこの作業を進めたことから、民衆は涙して失望、独立日2002年5月20日までには東チモール人の独立にたいする高揚感は失われてしまったのでした。
国連統治下で巧妙につくられた民衆と指導者のあいだの不信感は、その後2006年の「東チモール危機」となって爆発し、さらに2008年2月11日、大統領と首相を同日に襲撃する武装反乱集団の存在を許しました。
この武装反乱集団を率いたアルフレド少佐は大統領邸宅で撃ち殺され、ボスを失った反乱集団の残党は山岳部へ逃亡しました。残党を討伐するために軍と警察で構成される合同部隊が結成され、その総指揮を執ったのがゲリラ参謀長だった当時のタウル=マタン=ルアク国防軍司令官(現在の大統領)で、ゲリラ戦の経験豊かなFALINTILの猛者たちが山を歩き、洗練された高度なゲリラ戦術を用い、住民と対話を重ね、逃亡者をかくまう事をやめさせ、平和裡に残党を投降させることに成功しました。このときはFALINTIL精神の面目躍如たるものを誰しもが感じたことでしょう。「テロとの戦い」という名目のもと大国の暴力が吹き荒れる世界情勢なかで、東チモールのこのFALINTIL精神が、暴力にたいし対話で立ち向かいうる理性がこの世にあることを示した意義は大きいと思います。
それにひきかえ今回の非合法団体「マウベレ革命評議会」のマウク=モルク氏らを捕まえるために結成された合同部隊はどうでしょう。合同部隊による住民への人権侵害を非難する報告が国内外から発せられ、合同部隊の協力者を誤って射殺し(過失なのかどうかは正式な調査結果を待たねばならない)、お尋ね者であるマウク=モルク氏をとうとう殺してしまうという、無残にも荒っぽい展開となってしまいました。これでは“普通の国”のやることです。かつてのFALINTILの同志だったマウク=モルク氏の死をFALINTIL創設40周年記念に添えてしまったことは、東チモール人指導者に引き継がれているはずのFALINTIL精神が低下していることを示して余りあります。
内部矛盾を荒っぽく取り扱う危うさ
FALINTILの信条とは「祖国か死か」であり、それを実践するうえでの精神の支柱は「忍耐」と「洗練さ」であるとわたしは思っています。ところが最近の東チモールにおいてその精神は荒っぽい政治手法に取り換えられてきたような気がします。その荒っぽさを牽引するのが、前首相で現在の計画戦略投資相を務めるかつての解放組織の最高指導者シャナナ=グズマンです。
われこそはフレテリンの運動体だと主張する厄介な団体CPD-RDTL(東チモール民主共和国-大衆防衛評議会)と、1981年に闘争の見直しを図りFALINTILの最高司令官に就任したシャナナ路線に反対し、のちに闘争から離脱することになったマウク=モルク氏が結成した「マウベレ革命評議会」を、2014年3月、国会は非合法団体とし活動停止させる決議を採択したことがそもそも疑問の残る粗雑な行為でした。
言論の自由は憲法で保障されているにもかかわらず、正式に登録をしない政治結社が旗を掲げたり迷彩服を着用したりする程度で、シャナナ連立政権の許容範囲を超えたとしたらFALINTIL精神からして情けない感じがします。だいいち、東チモールではボロの迷彩服を着て集会に参加したり、あるいは町を一人であるいは数人で闊歩したりするのはそう珍しくなく、こうした人たちは戦争に参加して犠牲になったのに無視されているという想いを表現しているだけです(もっともただの目立ちたがり屋さんもなかにはいるかもしれないが)。軍服を着て不満を表現する人たちには政府は寛容の態度で接するべきです。
解放闘争の路線で対立したシャナナ=グズマンとマウク=モルクの問題は棚にしまわれていたのが露出してしまった東チモールの内部矛盾ですが、その内部矛盾を今回のように銃弾で粉砕するのは賢明とはいえません。「忍耐」と「洗練さ」で解決すべき問題であるはずです。マウク=モルク氏が引き起こした騒動は内部矛盾の一例にすぎません。他に多々ある決着のついていない内部矛盾が今後とも何らかのきっかけで露呈するかもしれません。そのとき政府が対話でなく力でねじ伏せる解決方法を選べばさらなる流血の事態を招いてしまいます。解放闘争時代に生じた内部矛盾は東チモールの潜伏問題で、もし発生したときにはFALINTIL精神で慎重に取り扱ってほしいものです。
荒っぽさの先にあるもの
タウル=マタン=ルアク大統領は、流血の事態を避けるためにあらゆる努力したのにもかかわらず、マウク=モルク氏を合同部隊が射殺してしまったことと、こうした事態を招いたことにたいし、モルク氏の家族を含め国民に謝罪をしました。しかし本来ならばこの件の当事者ともいえるシャナナ=グズマン前首相が何らかの言葉を発してほしいものです。あるいはまた、ルイ=マリア=デ=アラウジョ首相が若い世代の指導者として闘争時代に生じた内部矛盾について未来に向けた意見を述べれば明るい材料となるかもしれませんが、他人事のようなありきたりな発言をするだけで若さと指導力を感じさせません。
非合法団体と決めつけられ追い詰められたとはいえ、マウク=モルク氏ら「マウベレ革命評議会」が警官を拘束し、ピストルを奪い、警察署を襲撃したりする行為にはもちろん同情の余地はありませんが、かれらは裁判にかけられて初めて罪を犯した者たちかどうかを断定できるはずなのに、政府はマウク=モルク氏らを早々に国家に反逆する者たちと決めつけるのはどうかと思います。かれらを裁くのはあくまでも司法であり政府ではないからです。加えて報道された事実は政府発表に依存しており、本当の事であるかはまだ検証されていないことは肝に銘じておくべきでしょう。
憲法違反の疑いのある荒っぽさといえば、なんといっても去年、当時のシャナナ首相が主にポルトガル人である外国人司法関係者を国外追放処分にしたことが挙げられます。理由は何であれ、「洗練さ」と「忍耐」の片鱗も感じさせないシャナナ首相の手法にはおおいに疑問が残ります。この荒っぽさの延長線上に今回の合同部隊によるマウク=モルク氏の殺害があるように思えてなりません。さらにこの荒っぽさの先にあるのは、シャナナ計画戦略投資相による「タシマネ計画」(南部沿岸地域開発計画)を中心とする「戦略的開発計画」に基づく中・大規模開発の強引な推進であり、住民との土地問題の力による解決、政府批判する報道機関や市民団体への「メディア法」を根拠とする言論の弾圧……などなどではないかという悪い予感を抱いてしまいます。
政府機関による批判勢力への問答無用の力の処置が、国の発展の近道であるとシャナナ計画戦略投資相が勘違いしていないことを祈るのみですが、シャナナ前首相は野党フレテリンから首相や閣僚数名を抜擢したことで実質的に野党不在となっている政局はいかにも不気味です。
シャナナvs司法
実質的に野党不在の政局となってしまった現在、シャナナと野党フレテリンとの対立構図は過去のものとなりました。いまや政府の歯止め勢力となっているのは司法であり、東チモールの“政局”とはシャナナvs司法という対立構図であるといってよいでしょう。
去年、外国人司法関係者を停職にした国会決議は憲法違反だとしてシャナナ首相に真っ向から反対した控訴裁判所所長と、シャナナ連立政権時代に起こった閣僚らの汚職問題を追及する検事総長の存在はシャナナ率いる政府への健全なブレーキ役を担っていくものと期待されます。
2012年10月に、5人の麻薬密売者(4人がインドネシア人、1人の南アフリカ人)を東チモール国内で逮捕したさいPNTL(東チモール国家警察)の犯罪捜査局のカリストロ=ゴンザガ局長がこの5人の身柄をインドネシアに引き渡したことについて、正規の手続きを経由していない違法行為としてゴンザガ氏が起訴され裁判が行われていますが、シャナナ計画戦略投資相は今年7月のこの裁判で、当時の首相と防衛治安大臣を兼任した自分にこそ全責任がある、ゴンザガ氏に指示を出したのは自分なのだから、自分が被告席に座り、ゴンザガ氏が証言席に座るべきである、わたしを調べよ、と証言しました。これにたいしジョゼ=シメネス検事総長はシャナナの証言を裏付ける物証が必要であるとシャナナの勇ましさをかわし、また裁判の行方を見極めてシャナナ計画戦略投資相の取調べもありうるという姿勢を示しています。シャナナ前首相が検察の取調べを受けるのかどうかが注目されます。
シャナナ連立政権下で発生した汚職疑惑で起訴されたエミリア=ピレス前財務大臣はCPLP(ポルトガル語諸国共同体)の会議に東チモール代表として出席するという要職に就きシャナナによって依然として擁護されつづけており、同じく起訴されたビセンテ=グテレス国会議長も国会が国会議長の免責特権を解除しようとしないままの状態が続き、この要人二名の裁判手続きがなかなか前へ進みません。一方、おそらく検察側も人材育成と人員整備に時間がほしいところであり、シャナナと検察側の睨み合いの膠着状態はしばらく続くことでしょう。
またことしの7月には、去年東チモールで開かれたCPLPサミットの開催にむけて行なわれた橋と道路の工事にかんして何らかの汚職がシャナナ連立政権内で発生した疑いがあるとして、シャナナ計画戦略投資相は分厚い資料を「反汚職委員会」の要請に応じて手渡しています。シャナナ連立政権下でおこなわれた公共工事の杜撰さには、常々タウル=マタン=ルアク大統領は怒りをあらわにし、業者にたいする調査を求めていますが、シャナナ前首相は昔の業者をいちいち調べるよりも、当時首相だった自分を調べたほうが早いと、これまた自分を調べよと司法に挑戦しています。コソコソと逃げないで堂々としているところがさすが大物シャナナらしいといえますが、その威厳に気おくれすることなく、関係部門は独立の英雄シャナナ=グズマンであろうが一般庶民であろうが法の前では万人は平等であることを粛々と示してくれることを期待したいと思います。
ところで公共事業(とくに送電関係)を巡る利権争いをする業者たちは元戦士たちの集団が関わっています。ここにもFALINTIL精神の低下がみられます。
1999年侵略軍が撤退し、ようやく正義が実践される社会が実現されるものと東チモール人は希望に胸を膨らませました。しかし正義は一切行なわれることなく今日に至っています。司法の確立は複雑な言語問題を抱える東チモールとって難事業になることでしょうが、法治国家の実現のためにも、そして東チモール人の心の癒しにとっても必要不可欠な事業です。東チモール人はFALINTIL精神をもう一度思い起こしてこの大きな難事業に挑戦してほしいとわたしは願います。
~次号へ続く~
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5635:150901〕