青山森人の東チモールだより 第310号(2015年9月15日)

東チモールと中国

国の喪明け儀式

8月31日、防衛治安評議会が大統領府で開かれ、合同部隊による「マウベレ評議会」のマウク=モルク氏にたいする捜索作戦の報告書を政府から提出されました。なお、合同部隊は9月9日で解散となり、依然逃亡中の「マウベレ評議会」の幹部については警察が捜索を継続することになりました。

 一方、人権市民団体はマウク=モルク氏の死について、降参したのに合同部隊に射殺されたのか銃撃戦で射殺されたのか不明確だとして、調査委員会を設置し詳細な調査結果を公表することを求めています。マウク=モルク氏による一連の騒動とは何なのか、政府の対応を含めて詳しい説明がなく、何がどうしてこうなったのかよくわかりません。市民団体からこのような要求が出てくるのは当然だといえます。

 さて1999年9月4日は住民投票の結果が発表された日で、自由を求める東チモール人が勝利した日です。この日からオーストラリア軍を中心とする「東チモール国際軍」が東チモールに上陸し活動が軌道に乗るまで、インドネシア軍とその準軍事組織である民兵が大規模な破壊活動をし、25~30万(人口約80万のうち)の人びとが難民というかたちがインドネシア領に連れて行かれ東チモールの苦難は続きます。しかしともかく9月4日は国際社会に四の五のいわせず東チモールの独立を認めさせた記念すべき日です。

 今年のこの9月4日から12月31日までの4ヶ月の間を政府は、インドネシア軍に侵略された1975年から2015年で40年間経過したのを一つの区切りとし、過去の紛争から生じた苦しみを解き放ち前へ進むための「喪明け儀式」の期間と決めました。宗教行事や文化行事がこの4ヶ月のあいだおこなわれるようです。しかし、行方不明になっている人たちは未だ帰らず、犠牲者遺族にたいする不公平な年金補償制度など、“戦後処理”は不完全な状態です。東チモール人の傷を癒すのはまずもって事実の解明であり正義の実行です。国による小手先の儀式で東チモールの人びとの苦しみが解き放たれるとはとても思えません。

タウル=マタン=ルアク大統領、中国の抗日戦争勝利70周年記念式典に出席

日本でも大々的に報じられましたが、9月3日、「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」記念式典が開かれ、天安門広場で大規模な軍事パレードがおこなわれました。これには20カ国余りの首脳と49カ国の11の国際機関の代表が参加しました。その首脳のなかに東チモールのタウル=マタン=ルアク大統領も含まれています。

軍事パレードを参観するタウル大統領ですが、日本のテレビニュースでは韓国の朴大統領の隣の隣に座っている人物の後ろに座っているタウル大統領の横顔がほんのチラリ映りました。また立ち姿での集合記念写真では、一列目に立つ国連事務総長の斜め後ろにタウル大統領とイザベル夫人が立っていました。国家の祭事において誰がどこに立つのかその位置に意味があるとすれば、二列目の比較的中央寄りに東チモールの大統領夫妻が立っていたということは、東チモールは中国にとってけっこう重要視されている部類の国であることがうかがえるのではないでしょうか。

タウル大統領はイザベル夫人を同伴し、そしてエルナニ=コエリョ外相とジョゼ=ラモス=オルタ前大統領とともに北京を訪れました(コエリョ外相はこの後、日本を訪問)。東チモールからの報道によるとタウル大統領と習近平国家主席は9月2日に会談し、タウル大統領は東チモールへの支援に感謝し、習近平国家主席は両国間のこれまでの13年間で確立された外交関係をより一層強化し、経済・通商・農業・観光・石油化学などの分野で人的交流を交えた協力関係を促進させ、国連の重要事項である気候変動についても協力して取り組みたいと語ったとのことです。

タウル大統領は2日~5日のあいだ、職業訓練学校を訪問するなどの日程をこなし、10日に帰国しました。東チモール大統領による4日間の中国公式訪問は東チモールと中国の良好な外交関係を示しています。中国は東チモールの大統領府と外務省の建物の建設、巡視艇2隻の供給と乗組員の訓練、全土にわたる送電網のための鉄塔建設を手がけるなど、東チモールにとって中国の支援・協力は広範囲にわたりもはやなくてならない存在となっています。中国は東チモールにとって隣国であるインドネシアとオーストラリアとともに最重要国と位置づけられているはずです。

中国はインドネシアと並び東チモールへの主な武器供給国ですが、おそらく中国に比重が傾いていることでしょう。また主な不法就労者も中国人とインドネシア人です。今月初めの移民局の発表によると、今年の不法滞在者は1022人で、内訳は中国人・インドネシア人・フィリピン人・ポルトガル人・その他で、中国人・インドネシア人が大半を占めているということです。

庶民の経済に影響力をより強く持っているのが中国人であることは、町の風景から容易に察することができます。首都デリ・べコラ地区の山に近い広場は最近、バウカウ地方やラウテン地方など東部へ走る長距離バスのターミナルに復活しましたが(しばらく海辺の広場が東部用のバスターミナルとなっていた)、どちらかというと開発からとり残され埃っぽいままにされてきたこの広場にコンビニ並みの洒落た店が中国人によって建てられています。インドネシア占領時代もこの広場は東部ゆきバスのターミナルでした。見晴らしの利くこの広場へ来ると日本人のわたしは目立ちすぎて侵略軍当局の突き刺さるような視線を感じたものです。この広場は最近まで昔の雰囲気を維持していたのでここに来ればその嫌な思い出が蘇ってきましたが、中国人の経済力で風景が変わってきています。

中国に越されたオーストラリア

 こうした東チモールと中国の関係はオーストラリアにとって頭痛の種です。本来ならば、独立後の東チモールに最も影響力のある国になるはずであったオーストラリアは対東チモール政策につまずきました。

オーストラリアは巡視艇二隻を東チモールに提供することができず中国に譲ってしまい(「東チモールだより第154号」参照、2010年)、チモール海のガス田開発にかんしてはCMATS(チモール海における海洋諸協定にかんする条約)の見直しを東チモールによって国際司法裁判所の仲裁裁判に訴えられ、チモール海の領域を国際法で定めるための交渉を求められるなど、オーストラリアが強い態度にでられるのは東チモールに中国という選択肢があるからであり、あるいはオーストラリアの対東チモール政策が東チモールをして中国への扉をノックせしめたともいえましょう。いずれにしてもオーストラリアの外交的失策によるものです。

オーストラリアの自由党と国民党の現連立政権は、CMATSの交渉中に東チモールの閣議室を盗聴したことを国際司法裁判所で証言するはずの内部告発者を拘束し、また東チモール側のオーストラリア人弁護士の家宅捜査をして裁判証拠を押収するなどし、東チモールを怒らせ、オーストラリアと東チモールの外交関係は冷え固まってしまいました(封印された証拠は東チモール側に返却されたが)。

与党自由党・党首のアボット首相は、独断的な政権運営手法に批判が集まり支持率が低下し、この14日におこなわれた党首選でマルコム=ターンブル氏に破れ、退陣が決まりました。アボット政権の東チモールにたいする強硬体質が国内政治にも現われ、それが批判を招いたのかと推測できます。

オーストラリアの野党である労働党は、7月、総選挙を来年に控え、政権をとったらチモール海の海域を両国の海岸線の間の線(中間線とはいっていないことに要注意)によって画定するための交渉をすることに合意するだろうと、現政権とは違う方向の政策を発表し、東チモール政府はこれを歓迎しました。東チモールとの膠着した外交関係が長引けば、東チモールにおける中国の影響力を増大させてしまうという懸念がオーストラリアにはあるはずです。

普遍的価値を貫いてほしい

中国にとって南シナ海から東チモールへいたるまでの海域に影響力を拡大していくことは地政学的に重要です。しかし東チモールにおける中国の影響力が過度に高まれば、オーストラリア北部に駐留するアメリカ海兵隊の視線はチモール島に向けられるかもしれません。

かつて東チモールがインドネシア軍に占領されていた時代、東チモール人にたいするインドネシア軍による残虐行為に本来ならば非難の声をあげるべき第三世界の国ぐにの大半は、インドネシアとその支援国である欧米諸国や日本などとの関係を考慮して口を噤み、東チモールは沈黙の壁に囲まれました。中国との関係にかぎったことではありませんが、例えばもし東チモールが中国共産党に抑圧される人びとを顧みることなく中国の経済力にやたらと依存してしまえば、かつて自分たちを苦しめた行為を今度は自分たちが弱者にすることになり、東チモールの尊厳が薄れていくような気がします。国際政治の偽善性を骨の髄まで知り尽くしているのが東チモール人ですから、外交バランスをどうとるのかという戦術も大切でしょうが、東チモールには普遍的な正義の価値を擁護するという世界的な地位を築いてしてほしいとわたしは願います。

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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