青山森人の東チモールだより 第342号(2017年2月16日)

母語導入への根強い反発

国会議員、授業での母語使用に反対

初等教育における試験的な母語導入の準備が2011年から始まり、2013年から3つの地方自治体(マナトト、ラウテン、飛び地のオイクシ)で実施に移され、去年(2016年)10月、専門家による評価報告が出されました。その報告によると、母語で教えられた生徒は、公用語(ポルトガル語とテトゥン語)で教えられた生徒と比較して学習能力・成績が向上し、また出席率もより良いという成果が現れたと評価しています(「東チモールだより335号」参照)。

専門家によるその報告書の要約版(*)がリリースされるという記事が東チモール政府のホームページに掲載されると(2017年1月12日)、それに呼応するかのように、1月18日、国会議員(一人か幾人かは?)がポルトガル語とテトゥン語が東チモール憲法で公用語と定められているので公用語を授業で使用した方がよい、授業で母語を使用することに賛同できないという意見を述べました。
(*)”The Mother Tongue-Based Multilingual Education (EMBLI) Pilot Program Endline Assessment, Executive Summary” (Stephen L. Walter, PhD – Assessment Consultant, October 2016).

この国会議員(たち)は上記の評価報告を読んだうえでなおも母語導入に反対するという意見を表明したのかどうかはわかりませんが、授業への母語導入にかんする評価報告書という一つの指標を東チモールは手にしたわけですから、その報告書の内容を精読した上で反論なり議論なりが展開されることを期待します。ただたんに、憲法で公用語と定められているから母語導入には反対だ、だけでは見もふたもありません。東チモールで実りある言語論争はいまだかつてされたことはないとわたしは観ています。たとえば「公用語」の定義さえ政治家たち・指導者たちは論じたことがないのです。さらに、これが一番の問題だと思うのですが、ポルトガル語をアイデンティティと捉える指導者たちと、ポルトガル語なんて自分とは関係ないと感じる人びと(とくにインドネシア占領時代に20代であった世代、現在40代、もうすぐ国の中枢を担う世代)との間で討論が交わされていないのです。ひょっとしたら指導層は公用語を定めている憲法を盾に言語論争を避けているのかもしれません。なにせ数からすればポルトガル語派は少数派ですから……。

大統領も、授業での母語使用に反対

2月7日、タウル=マタン=ルアク大統領がボボナロ地方での住民対話集会で授業での母語使用について住民から意見を求められたとき、授業で母語を使用することに反対であると述べました。

「わたしは子どもたちに母語で教えることに反対だ。なぜなら子どもたちは大切であり、ポルトガル語を話せるようになるべきである。なぜならポルトガル語は公用語だからだ。母語で子どもたちに教えることを考案することはない」(『ディアリオ』2017年2月8日、電子版)。

「わたしは自分の子どもたちにマカサエ語を押し付けたりはしない。わたしは自分の子どもたちを(東チモールの)ポルトガル学校に送り、教師にはポルトガル語で教えて欲しいと望む。この(母語導入の)計画は最初に指導者シャナナ氏の妻(当時、いまは離婚)がつくったもので、計画が進められるとシャナナ氏は自分の子どもたちをオーストラリアの学校へ送っている」(同上)。

授業への母語導入にたいする反対理由としてタウル=マタン=ルアク大統領は、ポルトガル語が憲法上公用語として定められているという理由にほか、政府指導者は自分の子どもたちを海外の学校に送っているのに一般庶民の子どもが母語で教えられるのは差別であるという理由を挙げています。

東チモールの地方の農村で劣悪な条件のもとでしか勉強できない子がほとんどである一方、海外の学校で勉強できる子がいます。庶民と比べ桁違いの報酬を得ている政治家や政府要職に就く親の子どもたちは海外で勉強できる機会を得られますが、貧困ラインぎりぎりの暮らしをしている子どもたちはそうはいきません。たしかにこれは差別です。しかしこれは経済差別/格差の問題であり、政府が母語導入の計画を立てる以前にも起こっていたことであり、今後どのような言語政策が採用されようとも経済格差がある限り起こることです。タウル大統領の「差別」を指摘する論理は、言語論としてはお粗末です。なぜなら、初等教育において公用語で授業を受ける子どもよりも母語で授業を受けた子どもの方が成績もあがるし公用語の取得に効果が上がる等などの、母語導入のそもそもの論拠を相手にしていないからです。

ただし、タウル大統領が「差別」を強調したい気持ちは理解できます。大統領のこの発言は、この対話集会のなかである住民が、庶民の子どもは母語で、指導者の子どもは海外で英語やポルトガル語で勉強していることを指摘されたことたいして述べた意見だからです。集会に流れていたのは特権的な指導者の態度を批判する空気であって、言語問題を論ずる空気でなかったとすれば、大統領の発言を言語論として批判することはもしかしたら筋違いなのかもしれません。

タウル=マタン=ルアク大統領は誠意を保持している指導者です。首相や閣僚などの要人が病気になるとすぐ海外の病院に飛んで治療するのにたいし、大統領は病気になっても頑として海外の治療を拒み周囲の者たちを冷や冷やさせます。そして大統領は子どもたちを東チモールにある学校に通わせています。子どもたちに公用語であるポルトガル語で教育を受けさせ、海外で英語による教育は受けさせていません。その誠意は理解できます。しかしながら、大統領の出身地であるバウカウ地方のバギアや夫人のイザベルさんの故郷であるマヌファヒ地方のサメの学校ではなく、首都にあるポルトガル学校に通わせること自体、庶民にしてみれば恵まれた身分であり経済格差から生じる「差別」といえます。

ところでこの対話集会のなかでタウル=マタン=ルアク大統領は、教育省に教師がポルトガル語で教えることを強化するように求めると述べていますが、教師によるポルトガル語の習得がなかなかうまくいかないこと、生徒のポルトガル語の学習もまったくうまくいかないことなど、独立(独立回復)以来、ポルトガル語が教育現場で「教育の障害」といわれるまでになった経緯が論じられていないし、(新聞記事を読む限りでは)先述の報告書のことも語られていません。せっかく言語問題が住民との対話集会で取りあげられたのに実りある言語論争がされなかったのは、やはり残念です。とくに残念なのは、この計画を進めているのはユネスコの協力を得ているとしてもあくまでも東チモール政府(教育省)であることは重々承知のはずなのに、外国人であるカースティさん(当時シャナナ氏の妻)の存在をとりあげ母語導入の立案責任者であるかのようにタウル=マタン=ルアク大統領が語っていることです。また、公用語としてポルトガル語のみを言及したとしたら、もう一つの公用語、テトゥン語はどこへ行ったのでしょうか。

母語導入反対の論理とその反論

タウル=マタン=ルアク大統領の発言を報じたポルトガルの通信社「ルザ」の記事(2017年2月8日、電子版)によれば、ラモス=オルタ前大統領とマリ=アルカテリ元首相も母語を初等教育に導入することには反対で、マリ=アルカテリ元首相は、母語導入は国の“バルカン半島化”(分断)に寄与すると述べたと伝えています。わたし自身、母語を学校教育へ導入すれば混乱あるいは差別を招くという東チモール人の意見をよく耳にします。

2001年以来東チモールの言語問題を研究し、母語の試験導入の中間調査(*1)をおこなったオーストラリア人専門チームの一員であったケリー=テイラー=リーチという専門家は、その論文(*2)のなかで、支配国だった言語が独立後も正式な学校教育で特権的な地位が維持されることが正当化されるのは、「想定される中立性」と「国際的な範囲」によってであると述べています。
(*1)その報告書は”The Timor-Leste Mother Tongue Based Multilingual Education Pilot Project, A Strategic Evaluation” (Jo Caffery, Gabriela Coronado, Bob Hodge, Kerry Taylor-Leech, 2014).
(*2) “Timor-Leste : Multilingual Education for All?”, Kerry Taylor-Leech, 2012.

わたしなりに解釈すると「想定される中立性」というのは、独立後、地方諸語の中から一語を学校教育で使用する特権的な言語に選択すれば喧嘩・紛争の種になりかねないので、旧宗主国の言語を選んだ方が中立性を保てるだろうという論理です。これはマリ=アルカテリ元首相のいう「分断」につながらないような言葉の選び方といえます。「国際的な範囲」とは国際社会で通用する言語としての守備範囲の広さを意味します。

さらにリーチ氏は、地方語の多様性は教育では不適切・不適格で知的に・社会的に・言語的に劣っていると見られているので支配国だった言語が教育で使われる言語として唯一の正当な言語であると常に見なされると指摘し、東チモールではこの誤った考えが広く反映される傾向にあるというのです。

タウル=マタン=ルアク大統領が指摘した「差別」にかんして、母語(例えばマカサエ語)がポルトガル語より劣っているという“言語差別”の意識が潜んでいやしまいかということが最も引っかかるところです。

母語を使用した教育にかんして上記の指摘の他に、①早期に公用語を学んだほうが生徒はよりよく公用語を学べるので母語導入は公用語習得の障害になるという考えと、②社会や国の分断を招くという懸念があります。

①にたいして、母語をよく習得した子どもたちのほうが、そうでない子どもたちに比べ、第二言語としての公用語の習得の成果をあげていることが(ユネスコによれば)実証されているとリーチ氏は指摘しています。先述の評価報告書でも、このことが東チモールで起こっていることが数値で示されています。

②にたいしては、母語教育を受けた人は民族的多様性を認識することになり、かえって社会と国の一員である自覚につながり、多言語性と識字能力は住民の教育水準の低さを打破し貧困からの脱却を促し、活発な市民活動につながりうるとリーチ氏は指摘しています。

実りある言語論争を強く望む

さて、タウル=マタン=ルアク大統領の発言を受けてのことでしょうか、国会内の作業部会の一つであるF委員会(教育、保健、スポーツ、性の平等などの問題を担当)は、初等教育での母語使用は生徒にとって勉強をよりよく理解させるものだと発言しています(『ディアリオ』、2017年2月10日)。論争になっている話題について、このようにただ自分の主張を表明するだけというのは東チモールでよくあることです。指導者や関係者によるこうした一方通行のような発言の仕方が続くのであれば、いつまでたっても問題解決は期待できません。

東チモールの言語問題全般を整理し、世代間の異なる言語観を表に出して、専門家による論文を踏まえ、他国事情も参考しながら、実りある言語論争が展開されることを強く望みます。

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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