――八ヶ岳山麓から(226)――
すでに2ケ月余り前になるが、文部科学省が小中学校の教員の勤務実態調査を公表した。10年前と比較して勤務時間が4時間から5時間余り長くなり、中学では週63時間18分だ。いわゆる「過労死ライン」に達する計算となる週60時間以上の勤務は、小学校で3人に1人、中学では6割近くにのぼる(毎日2017・04・29)。
この統計の中身には、部活動指導時間が無視できない位置を占めている。以下これについて述べる。
中学高校の教師になると、だれでも部活動「顧問」をやらされる。むりやり顧問にさせられた結果どうなるか。経験のないスポーツ部をあてがわれ、生徒にばかにされたことのある教師はごまんといるだろう。最近の悲劇的な例は、栃木県高校山岳部の合同冬山訓練で雪崩によって亡くなった若い教師である。彼は登山経験がなく、積雪斜面のもつ危険が全然わからないまま生徒を「引率」して、ともに死に至ったのである。私は「山屋」としてことばがない。
スポーツ科学を含めて、その指導法をまともに修得した教師がどのくらいいるだろうか。有名指導者(監督)でも、たいていは練習内容は自分の経験から一歩も出るものでなく、「千本ノック」などの反復練習と「根性教育」が主流にならざるをえない。過度の練習は、生理上も技能向上のうえでも不合理であることは定説になっている。高校大学時代練習に明け暮れた体育教師は、30過ぎるとたいてい自己の身体にそれを感じているはずである。
小中高の教育は「ゆとり」すなわち「ひま」が十分になければならぬ。「昨日の授業はまずかった」とか「今日あの子はふさいでいたがなぜか」と反省し、明日の準備を十分にやって、はじめて生徒に学ぶ楽しさを体験させることができるというものである。
ところが、教員勤務評定では部活動指導が「指導熱心」と評価される。教師の中には功名心をくすぐられて勝つことのみを生きがいにし、なかには1年365日全然休まなかったことを「誇り」にするノーテンキが出る。体は丈夫だが、脳みそはオカラ状態だ。授業はいいかげん、生活観察もおろそかになる。
ひと昔まえ「ゆとり教育」が試みられた。これは近頃テレビへの露出著しい京都造形芸術大学芸術学部マンガ学科教授の寺脇研氏が文部官僚時代に主唱したものである。だが「ゆとりの時間」はたちまち塾通いに変じ、現場からも不満たらたらで数年でとりやめになった。もし大学入試制度の改革と教師の「ゆとりの時間」がこれにともなっていたら、寺脇氏は改革者として称賛されたであろうに。
近年は学校外のスポーツクラブから有力選手が輩出するようになったが、いまでも、かなりの程度スポーツ選手の養成を学校が負担している。問題はその他大勢が参加するスポーツ系部活動のありかたである。
中学では、高校入試で部活動が重視されるからという理由で、70~80%くらいの生徒を加入させる。親も生徒も部活動を義務だと思い込んでいる。私の勤務した高校のひとつに全員参加という学校があった。理由は、放課後ワルどもが何をするかわからない。そこで教師の勤務時間が終わる5時までは学校に閉じ込めておくという趣旨であった。だが全員参加したらどの部もパンクする。高校を少年刑務所と錯覚した発想だった。
スポーツ系とは限らないが、たいてい練習は放課後4~5時間、さらに授業が始まる前の「朝練」がある。生徒は疲れて授業時間に居眠りする。予復習も宿題もできない。私は退職前の数年間進学高校にいたが、そこでも野球部など名の知れた運動部に参加している生徒は、授業中公然と寝ていた。私の授業では運動部の生徒はいなかったが、それに付随した応援団とかブラスバンドのメンバーがいた。彼らもまた苛酷な練習に疲れはてていた。
毎年春の全国高校野球大会のころから梅雨まで、授業期間の平日にスポーツ系の地区や県の大会があった。各種の大会が二、三重なると、教室に生徒がそろわないから授業を進めることができない。生徒からすれば、いったん勝ちすすめば負けるまでの期間、授業をほとんど受けられない。そのうえ県大会出場ともなると、関係のない生徒でも応援にかりだされる。県教委はこれに対して、授業時間を確保せよというが、そのために具体策を示したことはない。もちろん大会開催は土日だけという地方もあった。だが休日がなくなるからこれも好し悪しである。
さらに野球とかサッカーとか、人気があって注目度の高い部活動は特権が許される。運動部顧問(監督)の中には、高校をプロ選手の養成所と心得ている者がいて、私学はもとより公立高校でも中学まわりをして優秀な生徒を入学させようとする。
野球部の予算は学校やPTAの会計の中で最大である。それだけでは不足だから、後援会をつくって経費をまかなう。甲子園大会ともなれば、地区大会から特別仕立てのバスで選手を運ぶ。内外から不満の声が起きるが、校長もPTA会長もこれを無視して大勢に従う。異議申し立ては玄関払い。共謀罪が通過した国会のようなものである。
メディアはスポーツ系の部活動で好成績を上げると「文武両道」などと持ち上げる。ところが部活動には、しばしば生徒間の暴行・恐喝・喫煙・飲酒などの非行がつきまとう。だが、発覚してもたいていは隠蔽される。大会出場が危うくなるし、程度によっては部が閉鎖されるからである。
指導教師の暴力はかなり普遍的現象である。近頃は、被害生徒の自殺といった悲劇によって、ようやくその一部が明るみに出るようになった。だが私の知るかぎり、かなりの学校がいまだ公務員法に反して教師の非行も隠蔽している。
いうまでもなく、スポーツ関連の部活動問題を日本社会全体として考えるためには、マスメディアの役割は決定的に重要だ。だがメディアはヒーローを作り出すのには熱心だが、部活動の学校教育における問題に迫ろうという気はない。
たとえば「毎日」や「朝日」も、野球部活動の現場をリアルに記事にしたり、スキャンダルを明らかにすることはきわめて少ない。両新聞社はそれぞれ日本高校野球連盟とともに春と夏の全国高校野球大会の主催者だからであろう。
この稿が皆さんの目に触れるころは、どの県でも夏の甲子園の地区大会・県大会のトーナメントがすでに始まっているだろう。地元の情報サイトやテレビ局が県大会から実況放送をする。そこでは例年の如く、視聴率のためか、商業主義のためか、美談をつくり目立つプレーヤーを称賛しヒーロー扱いするだろう。
高校生の若さでちやほやされれば、たいていはスポイルされるが、それをメディアが問題視することはない。だが、たまには「甲子園」の問題点を分析、反省してみてはどうかね?あらためて「文武両道」などちゃんちゃらおかしいことが確かめられるだろう。
中学高校の部活動は、学習指導要領で「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と定められている。 つまり法制上は自主活動とされ、体育を含めた教科教育は必須だが、部活動はあってもよし、なくてもよしの存在である。
学校がわが国民の文化水準の維持向上に果たす役割は決定的である。学校教育は教科教育を主として成り立っている。現状は部活動と教科教育の優先順位が逆転しているために、選挙権をもった市民というにはいささか知識不足の青年をかなり大量に社会に送り出す結果となっている。これを学校教育制度の「溶解」といわずしてなんといおうか。(2017・07・06記)
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