1970年代に社会主義への道を批判した市井人(3)

――八ヶ岳山麓から(287)――

以下は前々回、前回に引き続き、畏友中村隆承(1934~83)の遺稿から、1970年代に既存の社会主義の再生と、資本主義国における革命の可能性を考察した部分を要約し編集したものである。(中村隆承をLと記す。( )内は注、——以下は阿部のメモ)

ソ連社会主義に「自己復元力」はあるか
1970年代にはソ連社会主義に存在したマイナス面、自由と人権のない専制政治だけでなく、経済の停滞、貧困なども広く知られるようになった。
当時、日本では社会党の一部や共産党のマルクス主義者は、マイナス面の多くは科学的社会主義あるいはマルクス・レーニン主義原則からのスターリンの逸脱がもたらしたものだと主張し、さらにソ連や中国の社会主義に「自己復元力」があるとして、やがては本来の理想とする社会主義へ前進するはずだとする考え方があった。

Lはこれに対して、科学的社会主義の原則が何であるか明確でなければ逸脱も、復元の意味も分からないと主張した。たとえば「ユーロ・コミュニズムの党は、ソ連のチェコ侵入や異端派に対する弾圧を批判し、『現存社会主義』を自らの社会主義のモデルとしては採用しないとしたが、現存社会主義の本質規定を回避しているから、そのモデルと自ら目指す社会主義との関係はあいまいなままである。したがって逸脱の内容があいまいなままでは『自己復元力』があると主張しても全く説得力がない」と述べている。

Lは、「社会主義原則」には多様な解釈の余地があるからこれを基準とせず、西欧・日本における普遍的な価値理念である「自由」と「正義」の観点からこの逸脱を測り、「自己復元力」の有無を判定するのが正しい方法であると考えた。
西欧的な基準からすれば、「復元力」にとって重要なのは民主主義、とりわけ「政治選択の自由」である。自由の抑圧は真実を国民の目から隠すこと、同時に一方的に支配者に都合のよい世論を醸成する手段である。
――フルシチョフの「雪解け期」以後、サハロフやロイ・メドヴェージェフ、ソルジェニーツィンなど反体制派知識人は、その生存が認められても、なお改革運動は許されなかった。彼らの主張は、出版禁止・精神病院収容・国外追放などの手段で国民の目から隠され、ソ連の大衆が自国の歴史を知ることはなかった。

Lからみたソ連の労働者大衆は、情報を閉ざされて現状に甘んじ、自ら変革の必要を強く感
じてはいなかった。経済は遅いテンポながら安定発展に向かっていると思われた。イデオロギー教育は、初級から大学に至るまで徹底していた。たとえばロイ・メドヴェージェフのような正義漢でも、資本主義に対する社会主義の優位を語っていた(『ソ連における少数意見』岩波新書、1978)。
Lはさらに、「国家教義」となっているマルクスやレーニンの理論体系を基礎から再検討し、誤った部分を明らかにし、正しい理論に置き換えることなしには、反体制派は現状にゆさぶりをかけることはできないと主張した。
そして、すべての傾向は、ソ連社会において共産党の一党支配は持続し、「今後の1~2世紀において、自由と正義におけるソ連社会主義の後進性が克服される可能性は極めて薄い」ことを示していると判断した。スターリンの激動・悲惨の時代を経過したのちも持続する「党の指導性」下で、労働者国家として安定してしまっていると考えたのである。
――Lのこの判断のほぼ10年後にソ連は解体された。それは民衆の下からの「復元力」が主導権を握ったからではない。まずペレストロイカを契機に上からの「党の指導性」の崩壊がはじまった。それゆえか、ソ連解体後の中央アジア諸国、ソ連圏から解放されたバルカン諸国、そして当のロシアには、民主主義政治ではなく新しい形の専制支配が成立した。

社会主義政党の議会を通じた革命の可能性について
いまからほぼ60年前、日本では空前の規模の日米安保条約反対運動が起きた。同じ年の1960年11月、ロシア革命43年周年に「81ヶ国共産党・労働者党代表者会議の声明」が出された。ここでは発達した資本主義国における社会主義への「平和的移行の可能性」がうたわれた。これは57年の社会主義国共産党「宣言」をひきついだもので、レーニンの時代から1950年代までの暴力革命路線が放棄された画期的な「声明」であった。
日本ではもともと社会党は平和革命路線であったが、共産党も反帝反独占の「多数者革命」に路線変更し、社会主義体制が実現しても政治的自由を保障し、複数政党を認めるという綱領を採用したのであった。Lの以下の議論は、以上の事情を踏まえている。

Lは、「第一次世界大戦の末期には社会主義革命の大きな潮流が巻き起こった。この潮流の変化は1950年代末からはじまり70年までに完了した。変化の主な原因は、ハンガリー・ポーランド事件、中ソ対立、ソ連国内の体制欠陥の表面化、社会主義の権威の失墜と米ソ核兵器対決時代への突入である。今日では社会主義への全面的移行の時代は終わったといわねばならない」と、高らかに社会主義の優位性をうたった「声明」を全く信じていなかった。
むしろ「社会主義勢力による国家権力の完全掌握は、確固たる軍事力の基盤がなくては、カラ文句に過ぎないことは、多くの実例がこれを示している」とし、「国民の大半を統一戦線に結集し、議会で絶対的多数を占め、それに依拠して革命を行うという路線は現実的ではない。それは幻想である」といった。
なぜなら国民が体制変更を強く望まない以上、社会主義を目指す統一戦線派が議会で多数を占めることは考えられない。かりにそれが実現したとしても、「この場合の安定多数派は単なる改革スローガンに対する多数派ではなく、社会主義を目標とした社会の抜本的変革――例えば所有権の大幅制限を求める憲法改正――に賛成する多数派でなければならない」なぜなら社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化だからである。
「このような時期においては当然一般の労働者のあいだでも、(生産手段の国有化や)新しい計画経済の構想と現行経済システムとの優劣の比較をめぐる論争が展開されることになるが、現状ではよほどの事態の変化がない限り、これは考えられないことである」
だから、かりに国会で統一戦線派が多数を占めたとしても、そこでやれることは資本主義社会の部分的改良であって、革命ではないと主張したのである。

Lは、「共産主義社会が歴史の発展の最高段階であって、そこから人類の真の歴史が始まり、それまでの歴史は前史であるといったマルクスの見解は、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想の流れをくむものであり、人類社会の矛盾の多い構造を見落とした非科学的な一種のイデオロギー(虚偽意識)である」と考えていた。
そして、今日では、「マルクスのいう共産主義社会の『生産力があふれるように流れ出す』という説明は、欧米日では何の魅力も持たなくなった」むしろ生産力至上主義への反省が求められている。経済成長を抑制し、生活の簡素化を図り、自由と競争の原理を抑制して平等の実現を図るといった新しい価値観を社会に定着させなければならない、と主張した。
Lの日本革命についての結論は、「日本においては政治・経済を全く異質のシステムに急転換させる『革命』思想は現実的有効性を失いつつある。これに代わるものは、社会主義思想に依存しない、勤労者の権利と利益を守る(構造)改革を実現することである」というものであった。

以上で、ひとまず中村隆承の社会主義についての考察の紹介を終わる。彼の価値論、ソ連についての考察はべつの機会に紹介したい。
私は、学問から孤立した市井の人のなかに、中村隆承のような、日本の将来を勤労者の立場から真剣に模索した人物がいたことを忘れることはできない。それで彼の遺稿を要約・編集して以上の3篇を書いたのだが、彼の思想をうまくとらえられたかは自信がない。(終)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion8805:190712〕