オビに「著者渾身の緊急書下ろし巨編」とある。大著(551頁)ではある。昨秋の民主党・鳩山政権発足から今年6月の鳩山首相退陣まで、日本の政治を揺さぶり続けた「普天間問題」の解説書として、いかにも専門業者らしくそもそもからこと細かく経緯を書き連ねている。
まず、この業者の基本的立場はどういうことか。「おわりに」にこうある。
「私自身について言えば、普天間基地問題は必然性がある問題だったのかという疑問がいまだに解けない。普天間基地をどこかに代替地を求めて返還するという命題は間違いではなかったのか」(546頁)
つまり普天間基地は普天間にあることがベストなのであって、移設だの返還だのという考え方は間違いだというのである。二世代にもわたって危険という恐怖と轟音という現実の被害に悩まされている人々のことは視野にない。だから日本国内の基地撤去論に傾ける耳を持たないだけでなく、米国内の論調にもこんな断を下す。
「キャンベル国務次官補が柔軟な対応を示すのは個人的野心以外の何物でもない」(527頁)
「ところが、米国の識者の中には、日米同盟関係が普天間基地問題でこじれていることに懸念を持ち、米国政府はもっと柔軟に日本に対して戦略的に対応すべきであるという意見を示すものがいる。ジョセフ・ナイ、ケント・カルダー、シーラ・スミスなどである。こうした識者の意見に対して共和党に近いリチャード・ローレス、マイケル・グリーン、アーミテ-ジ、マイケル・オースリンなどは、日本が日米間の約束を実行すべきという現在の国防省の立場に近い意見を持つ。どちらが正しいかは歴然としている」(528頁)
この人にとっては米国防省の立場のみが正しいのであって、ほかは全部間違いなのである。しかし、それはそれではっきりしていて、かえって話が分かりやすい。つまり、普天間基地もしくは沖縄に米海兵隊の基地を存続させることが、軍事的に本当に必要なことかどうか。必要であるということを、説得的に論証できるかどうかである。
――「抑止力」は本音ではない、ごまかしだ――
「日本にとっても、この海兵隊のプレゼンス(展開・配備し、存在すること)は抑止力の観点から極めて重要な役割と機能を果たしており、これを海外に持っていくなどは、安全保障の観点からすれば、論外である。これらの諸点は、普天間基地問題が起こる以前から日米当局者にとって共通の認識であった」(20頁)
おなじみの抑止論である。「論外」とか「共通認識」とか言う前にきちんと具体的な必要性を論証して欲しいのだが、はたしてどうか。
現在の普天間問題の主たる論点の一つは「米軍は日本から出て行け」といった世界観や哲学に基く感情的な主張ではなく、米軍が自分の必要から沖縄駐留海兵隊の司令部をグアムに移すことにしながら、なお戦闘部隊を沖縄に残すとしていることに対して、なぜ全部をグアムに移せないのか、ということである。
軍事行動を起そうとする国家なり勢力なりに、それをすれば確実に強力な反撃を受けて自らが決定的な損害を受けると信じさせることが抑止力であるとすれば、反撃して来る部隊がどこにいるかは、つまり反撃までの時間の差は抑止力とは関係ないはずである。
この点を本書はどう書いているか。
「日本から海兵隊を撤退させてはハワイかグアムに引くということになると、東アジア・南アジアに沖縄から海兵隊を出すときとはちがって相当、時間がかかることになるが、この時間差が重要で、その分だけ抑止機能が減ると考える必要がある」(87頁)
抑止力というのは自他の強さの比較であって、時間差によって機能が増えたり減ったりするというのは、まさに「暴論珍説」ではないか。時間差が重要と言っておきながら、その直後にはこんな記述もある。「現代戦は緒戦に海兵隊を投入するということには必ずしもならない。まず、航空戦闘を始めている間に海兵隊を投入し得る状態にする時間的余裕があるかもしれない」(88頁)
つまり海兵隊基地の場所はたいした問題ではないと自分でも認めているのである。ではなぜ米国は沖縄から海兵隊の司令部をグアムに移し、戦闘部隊を沖縄に残すことにしたのか。
「在沖海兵隊のグアム移転の図を描いたローレス国防次官補代理は、新たな米国のアジア戦略の中で、とくにグアム基地の増強を考えていたという。今後、アジアにおいて勢力拡大が見込まれる中国をにらんだ戦略態勢を考えたとき、沖縄の米軍基地では近すぎる。そこでグアム基地を増強することで、『沖縄―グアム―ハワイ』という重層的な防衛線を強化しようとした」(335頁)
「海兵隊が沖縄にいる必要性を繰り返すと、①アジア太平洋の地域的安定のための抑止機能、②前方作戦基地としての海兵隊の展開基地機能ということになる。グアムはあまりに遠すぎて、アジア太平洋の危機に対して迅速かつ柔軟な対応を行うことができない」(455頁)
一方では沖縄は近すぎると言い、一方ではグアムは遠すぎると言う。揚げ足を取ろうというのではない。ここで論じているのは、抑止ではなくて、実際に戦争が起きた場合の基地の地理的条件である。分かりやすく言えば、中国と戦争が起きたとき、司令部が沖縄にあっては近すぎる。グアムに引いていたほうがいい。しかし、戦闘部隊までグアムに引き下がっては戦闘には不便だということである。
抑止力というと、あたかも予防注射のようにちょっと我慢すれば、病気にならない、つまり戦争に巻き込まれないと思わせる効果がある。だから沖縄基地は抑止力だと米国も日本の安保業者もいいはる。しかし、この2箇所の引用で明らかなように、沖縄の海兵隊は中国との戦争を想定しているのである。抑止論はごまかしにすぎない。
――嘉手納統合を潰すための牽強付会――
もう一つの論点に嘉手納統合案がある。普天間と嘉手納と米軍は二つの航空基地を持っているのだから、それを統合すれば普天間は代替基地なしに返還できるではないかということである。岡田外相は一時、この案でまとめようと努力したが、結局、失敗に終った。
本書は嘉手納統合案の難点をこう解説する。
「第一は、嘉手納基地における固定翼機(・・F―22、F-15、KC-135など約100機が常駐。・・緊急事態には他基地から輸送機など各種の航空機が飛来する。・・)と回転翼機(ヘリ)を同じ飛行場で離発着すると、空域が複層して運用上の制約や飛行安全の面から大きな問題が生じるという点である。
第二は、・・・嘉手納基地に海兵隊の部隊を受け入れることに伴って海兵隊が起こす各種の事故・事件(基地外における犯罪を含め)の処理を、基地業務を担当する嘉手納空軍基地が抱えることになり、・・・という強い懸念である。・・・実際には、この理由が反対の最も大きな論拠であろうことは、大いに想像がつく。
第三は、先に記述したように、沖縄の戦略的重要性に鑑みれば、緊急事態に、空軍と海兵隊がそれぞれ最大で百機以上の航空機を、沖縄に展開させる必要があり、・・・そうするためには、沖縄には最低、二つの飛行場が必要になる。これが軍事的要請というものである。嘉手納統合案はこの軍事的要請に合致しないのである」(122~123頁)
嘉手納統合案が実現しない最大の理由は、著者もここで認めているように「第二」の空軍と海兵隊の相互反目であるとかねてから指摘されてきた。それを薄めるために考え出されたのが、第一と第三の「緊急事態における運用上の問題」なのであろうが、それにしても空軍と海兵隊が百機以上の航空機を集め、それにヘリが加わって離発着を繰り返すというような事態を本気で想定しているのであろうか。これは国家間の本格的な戦争である。
しかし、この問題でも別の場所ではこうも言っている。
「今日、主権国家同士が武力を使用して戦争するということは、考えにくい。しかし、これからの世界は、まだ領域が決まっていない分野に関して覇権争いが起こる可能性がある」
国家間で覇権争いがあるのは常のことである。これからの世界に限ったことではない。これまでもずっとあった。重要なのは前半の「主権国家同士が武力を使用して戦争する」ことはないであろうということだ。それには「とにかく戦争は悪」という意識がまがりなりにも広まってきたことがあるだろう。それに現実問題として、かつてのように資源や市場を武力で奪う必要はなくなった。ヒト、モノ、カネの動きが自由になって、武力を使わずとも現代ではカネ、つまり資本ですべてが手に入るようになった。またかつて東西対立をもたらした体制間戦争の危険はすでにない。つまり「国権の発動の一つ」として「戦争」が大手を振って選択肢であった時代は終わりつつあるのである、まだ完全とはいえないが。
ところが軍人は「将来、なにが起こるか分からない」ということを根拠に自分たちの存在とそのさらなる拡大を正当化しようとする。今まで二つあった飛行場を一つにされるなんてとんでもない、まして空軍と海兵が同じ滑走路を使うなんて、というところから、ありそうもない戦時を引き合いに出しているのである。こんな見え透いた軍人の口実を研究者と称しながら一般世人に宣伝するというのは恥知らずとしかいいようがない。
――正体は中国″脅威″宣伝係――
以上の二つの例で明らかなように、米国の軍部は自分たちの存在意義を中国との対峙においている。そしてわが「安保業者」もそれをせっせと売り歩いている。
「中国は明らかに今世紀の中頃までに、経済力、軍事力、人口、生産力、購買力の面で、世界第一の国になっていく。その時に中国の持っている国力のうち、我々が対応しなければならないのは、米国が今まで優位であったと考えていた分野で、しかも、その分野について領有権が確定されておらず、中国がその影響力を行使して進出し、米国の圧倒的な優位性に対する挑戦をしようとしている分野である。例えばそれは、海洋、宇宙、サイバースペース、グローバル・コモンズ(地球規模の公共財)、人権、環境、武器輸出、イランの核開発、台湾、チベットなどの分野である。これは『出た方が勝ち』という分野であり、これからの日米同盟の課題は、そのように中国がボーダーレスの分野に出てくることに対して、いかにして米国と日本が国益や価値観を共有し、挑戦してくる中国にヘッジングしながら対応できるかということに他ならない。中国をあえて『敵だ』『脅威だ』と言う必要はなく、相手の出方に対応しておけばよいのである」(91~92頁)
引用が長くなったが、米軍部と「安保業者」の中国に対する見方がよく出ている部分である。「敵だ」「脅威だ」と言う必要はないといいながら、文章全体は「敵だ」「脅威だ」にあふれている。
確かに中国は今後、多くの分野でその存在を大きくしてゆくであろう。だからといってなにも米国がそれを妨げる必要はないではないか。あれだけの大きな国でありながら、中国は30年ほど前まで国つくりに失敗し、世界の流れに大きく遅れていた。最近、ようやくそれを取り戻しつつあるといったところである。歴史において国々の浮き沈みは常のことである。米国にしたところで、存在を大きくしたのはたかだか第二次大戦以後のことではないか。
上の文章で「例えば」以降に並べられている分野について、著者は「日米は国益や価値観を共有」して、中国の挑戦に「ヘッジングしながら対応できるか」と言うのだが、ヘッジングとは「かわしながら」とか「防ぎながら」といった意味だとすれば、なんで日本がそれを米と一緒になってしなければならないのかの説明がない。
一緒にやってもいいものもあれば、台湾、チベットで米の圧倒的優位性に中国が挑戦するという図式はまるで意味不明である。もし台湾やチベットを中国の自由にさせないというのなら、そんなことにお付き合いをするのは真っ平ごめんである。台湾やチベットがうまく所を得て、人々が安定した生活を送れるようになることを我々は勿論希望するが、中国の国内に手を突っ込んで、思い通りにしようなどとは、してはならないことである。
このところ、中国の海への進出が目立つ。もともと中国は内向きの大国であったが、資源を大量消費しながらの経済建設を進める中で海洋権益に目を向けるようになり、シーレーン防衛とあわせて、海軍力の増強に力を入れている。そして今年4月、10隻の艦隊が沖縄本島と宮古島の間の公海を抜けて太平洋で遠洋訓練を実施した。
また最近では3月の韓国の哨戒艦沈没事件を北朝鮮の魚雷攻撃によるとする米韓両国が黄海で原子力空母ジョージ・ワシントンをも動員して北朝鮮威嚇のための合同演習をしようとしたのに対して、中国が強硬に反対して日本海に変更させたことも歴史に新例を開いたできごとであった。
これらは中国との対峙を掲げて、既得権益(沖縄の基地も重要な権益であろう)を守ろうとする米・国防省にとってはなんとも都合のいいことであろう。しかし、ある国が国力の発展につれて、これまで他国に大きな顔をされていた分野で自己主張を始めるのは、自然なことである。それを自己の優位に対する挑戦と見て、あってはならないことと受け止めるのは、あるいはそういうふりをするのは、思い上がりである。
米軍が神経を尖らせている中国のいわゆる「接近拒否戦略」にしたところで、これまで中国の防備の薄さをいいことに領海、領空すれすれまで近寄って、常時内部を覗き込み、中国沿岸の海底を自国の潜水艦のためにくまなく調査する米軍の行動に、中国がいつか「いい加減にしろ」と言い出すのは当然のことではないか。
アフガン、イラクへの介入で失敗を重ね、このままでは「世界の警官役はやめろ」という世論が起るのを真剣に心配しなければならなくなった米軍部に、増強してきた中国軍が結果として助け舟を出している構図は皮肉だが、そうした軍人同士の愚行はそれぞれの国の良識ある国民に止めてもらうしかない。
われわれはそうした事態を冷静に踏まえて、間違っても弾みで「有事」などにならないように声を上げ続けると同時に、日本国内で米軍の権益守護のために詭弁を弄する「安保業者」の正体を暴き、これ以上跋扈させないようにしなければならない。
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