2012年―「崩」の時代

著者: 田畑光永 たばたみつなが : ジャーナリスト、リベラル21・代表
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 われわれが「護憲・軍縮・共生」を掲げて、この「リベラル21」をスタートさせたのは2007年の春であった。以来、のべ120万人に近い読者を得て、5回目の新年を迎えることができたのはわれわれ同人の大きな喜びである。なにはともあれ、「リベラル21」を支えてくれた読者諸氏にお礼を申上げる。と同時に、本年も引き続きわれわれの主張に耳を傾けてくださるようお願いする。
 昨年、わが国は3月11日に東日本大震災に見舞われ、以後の約300日はそれへの対応に明け暮れることを余儀なくされた。昨年を漢字一文字で表すとすれば、という催しで「絆」が選ばれたのには、自然の力の前で人間の弱さ、小ささを否応なしに納得させられたことによるお互いの心許なさが現れている。
 われわれはその心許なさを抱きしめながら、新しい年に向かい合うわけだが、昨年から今年にかけての日本、世界の状況は、地震、津波による物理的破壊もさることながら、私にはそれ以上に人間の営為そのものが崩れてきたと感じられる。漢字で表せば、まさに「崩」である。
 福島第一原発の事故はまことに不幸な出来事であった。あれほど巨大な津波であったから、それに対する物理的備えが十分でなかったことについては、確かにそれを警告する声があったにもかかわらず、東電がそれを重視しなかったことは責められるべきであるにしても、ある程度は「やむをえなかった」と認める気持が私の中にはある。
 しかし、私が暗然とするのは、その後のことである。放射能の扱いにくさ、始末の悪さは最初から分かっていながら、あのような過酷事故が起きた際にはどういう手順で何をするか、何が必要か等々について、結局、本気ではなんの準備もなされていなかった。水をかけなければ、となると、何日もかけて別の場所から放水車を運ばなければならず、慌てて空中から水を投下しようとすると、水は空気中で霧となってしまう、といった光景を見せられて、原発技術者にしろ原子力研究者にしろ、原発を推進してきた「専門家」たちは初めに考えるべきことを考えていなかった事実をわれわれは知った。
 原発から出る放射性廃棄物の処分方法も処分場所もないのに原発を作るのは「トイレのないマンションだ」という反対論に対して、「専門家」たちは「最初から完璧な技術はない。実際に技術を使ってゆく過程で問題は解決される。それが技術の歴史なのだ。問題があるからといって新しい技術から逃げるのは火を恐れる野蛮人と同じだ」と、侮蔑をこめて反論した。50年ほど前のことである。
 ところが、原発はこれほどたくさん作られたのに、「使ってゆく過程で」はなにも解決されなかったばかりか、この間、「専門家」は考えることすら放棄してしまっていたようである。
 科学技術、と一般化しては、ほかの分野の人は心外かもしれないが、科学技術、科学技術者に対する信頼は崩れ去った、すくなくとも私の中では。

 「崩」は科学技術に対する信頼だけではない。昨今のユーロの動揺はこの半世紀ほど経済活動における「金科玉条」とされてきたものが崩れはじめたことを示しているのではないだろうか。金科玉条とは人、モノ、カネの自由な移動こそが経済を発展させる(つまり人を幸福にする)という考え方である。
 勿論、反対論もあった。WTOの世界的な会議が開かれるたびに激しいデモに見舞われたことは誰しも見聞しているはずだ。しかし、すくなくとも国家間の実際の政策レベルでは、この「金科玉条」そのものが否定されることはなかった。各国がそれぞれの事情で、その一部に対する留保や反対をすることはあっても。
 ユーロはその先進例であった。1999年から一部に導入され、2002年から法定通貨として全面的に流通することになったこの新しい通貨は丁度10年の歴史を刻んだところである。国によって通貨が異なる煩わしさを解消し、人、モノ、カネの動きをこれまで以上に自由にするユーロの登場はたんに経済を効率化するにとどまらず、「ヨーロッパを1つに結びつけ、もはやヨーロッパでは戦争は起きない」とまで言われたものであった。
 ところがわずか10年にして、ユーロの価値は反転したとさえ見える。ヨーロッパを1つに結びつけるはずが、かえって国情や国民性の違いを際立たせ、国家間では公式にはタブーであるはずの「他国の暮らしぶりやカネの使い方」批判までが議論の的になってきた。
 これは一体どうしたことか。世界は今、とまどっているというのが実情だろう。まだ金科玉条そのものが批判の対象となるところまではいっていない。一方ではTPPをはじめ、FTA交渉などがあちこちで行われていることがその証左である。とはいえ、個別のグループ作りのFTAが花ざかりであるのに対して、全世界を包含するWTOのドゥーハ・ラウンドが危殆に瀕していることは、金科玉条の行く末を暗示しているようにも見える。
 ここであえて筆を走らせれば、金科玉条の究極の姿とさえ見えたユーロが動揺し始めたことは、金科玉条そのものが歴史的役割を終えて、世界は新しい考え方を求めているのではないか。
 なぜ金科玉条はその役目を終えたのか。結局、人、モノ、カネの自由な移動は、(経済的に)強いものをより強くするだけ、という単純な理由ではあるまいか。人間の生活はモノとカネだけではないから、モノとカネの論理が国境を越えてどこまでも貫徹する社会は住みにくい。これまで非関税障壁だの既得権益だのと、事あるごとに邪魔者扱いされてきたさまざまなバリアーがじつは国の個性を守り、むだを含んだ人間の生活の快適さを守る役割を果たして来たのではないか。それにしてもこの金科玉条が崩れるとすれば、まさに世界史の転換点となるはずだ。
 「崩」はまだある、すくなくとも日本には。議会制民主主義である。「民主主義は最悪の制度である。これまで行われてきたすべての制度を除けば」と言ったのはチャーチルであったか。しかし、わが国においてはこの言葉は「民主主義は最悪の制度である。これまで行われてきたすべての制度と同じように」と修正したくなる。
 2年半前の政権交代は議会制民主主義が美しい花を咲かせたように見えた。あの傲岸無能、利権漁りが背広を着ているような自民党政治がこれで終わり、多少は国民の納得できる政治が行われるかと。ところが結果は無残だ。美しい花と見えたのは大きな造花であった。触ればぼろぼろと崩れた。
 これまでのことは今さら言わない。今はユーロの危機を目のあたりにして、すくなくとも国の財政をもうすこし安心できるものにすることが焦眉の急だ。その意味で野田首相の言っていることは正しいし、前任の菅首相の言ったことも正しいのだ。別に褒めているわけではない。誰だって責任ある立場に立てばそう考えるのだ。
 ところが政権交代の立役者であった民主党の新しく当選してきた議員たちが駄々っ子のように消費税引き上げ反対、断固反対と騒ぎまわって、やれ署名運動だ、やれ離党だ新党だ、である。消費税を上げなくてすむどういう方法があるのか、彼らはそんなことには目もくれない。消費税が上がったら自分が落選する、それだけだ。
 しかも腹立たしいのは、彼らが二言目に引き合いに出すのが「国民との約束」であることだ。約束は守るにこしたことはないが、事情が変われば説明すればいい。約束したから守る、の一点張りではかえって不安だ。
 しかも野党までが同じことを言う。マニフェストは民主党と国民との間のことで、自民党や公明党とは関係がない。マニフェスト違反ならどうするか、それは国民が考えることで、野党は余計は世話を焼かずに、それぞれ自分たちの財政政策を国民に示すのが仕事ではないか。
 議会制民主主義は専制君主制とは反対のものと思ってきたが、今の日本は専制君主制と変わらない。君主は勿論、国民という専制君主だ。この君主はころころ考えが変わる。気まぐれだ。今年は民主党という家来を褒めれば、翌年は別の家来を取り立てる。政治家という家来は自分の地位と生活のことしか考えず、君主の顔色ばかり見ている。だから君主が嫌いそうなことは言いたくない、したくない。
 だから、わが国では「民主主義は最悪の制度である。これまで行われてきたすべての制度と同じように」。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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