スポーツ大国ハンガリー
中欧に位置するハンガリーは北海道ほどの大きさの小国である。もっとも、ハンガリーは第一次世界大戦でオーストリー=ハンガリー二重帝国が崩壊するまでは、東はルーマニア、北はスロヴァキア、南はクロアチアやセルビアの一部を支配する大国だった。
現在の人口は1000万人弱。そのハンガリーがリオ五輪で8個の金メダルを獲得した。ロンドン五輪も同じく8個で、夏のオリンピックを通した平均の金メダル取得数は7個である。世界の大国と並んで、歴代で世界のトップテンに入っている。ハンガリーの周辺国を見渡しても、夏の五輪で複数個の金メダルを獲得している国は少ない。夏の五輪にかんする限り、ハンガリーは中・東欧におけるスポーツ大国である。
ロシアのように国策として国を挙げてスポーツを奨励しているわけではないが、伝統的にフェンシング、水泳・水球、カヤック・カヌー、レスリング、体操が盛んで、誰でも小さいときからスポーツクラブでこれらのスポーツに親しむことができる。その中で、才能をもつ子供たちが、エリート選手として選抜されていく。
ロンドン五輪競泳200m平泳ぎで、ジュルタ・ダーニエルが北島康介選手を押さえて金メダルをとったように、日本に関係する選手や競技がある。アテネ五輪の男子ハンマー投げで金メダルをとったアヌス・アドリアンは尿検査の検体を取り換えた疑いでメダルを剥奪され、室伏広治選手が繰り上げ金になったことを覚えている人もいるだろう。室伏選手のお母さんはハンガリー系のルーマニア人だから、室伏選手にはハンガリー人の血が50%入っている。
女子のパワーテニス時代の先駆者となったセルビア出身のテニス選手、セレシュ・モニカは、ハンガリー系少数民族が多数居住しているノビサド出身のハンガリー人である。最近、速いサーヴィスで頭角を現してきたイギリスの女子テニス選手コンタはハンガリー人の父母がオーストラリアへ移住した時に生まれ、その後イギリスに渡ったハンガリー人である。また、スイスのテニス選手、ティメア・バチンスキー選手も、ハンガリー東部の町、デブレツェンの出身である。
ハンガリーの経済規模は小さく、国が五輪にお金をつぎ込む余裕などないが、五輪参加の歴史を見れば、立派に立候補する資格がある。ほとんど毎年、各競技の世界選手権を主催しているから、それほどお金をかけずに各競技を組織するノウハウももっており、開催指名が獲得できればそれなりに五輪を準備するだろう。
低すぎる日本のメダル報奨金
日本オリンピック委員会(JOC)がリオ五輪のメダリストに支払う奨励金は総額で1億5000万円弱だという。桁が一つ間違っているのではないかと考えるのは私だけでないだろう。これに比べ、リオ五輪閉会式におけるわずか8分間の安倍マリオ演出にかかった費用が12億円だと報道されている。本当にそうだとすると、主役であるはずの選手に報いることより、政治家のプレゼンスのために、五輪予算を使っていると言われても仕方がない。選手はエコノミー、政治家や役員はビジネスというのが日本の標準だから、奨励金の何倍ものお金が選手の派遣にかかわる直接経費以外の使途に使われている。一事が万事、日本の予算の使い方が間違っていないか。
ちなみに、ハンガリーがメダリストに贈る報償金は、金メダル(個人種目)が1500万円、ペア種目1名当たり1500×0.9万円、3~8名の団体競技1名当たり1500×0.8万円、9名以上の団体競技1名当たり1500×0.75万円である。銀メダル(個人種目)が1000万円、銅メダル(個人種目)800万円、4位(個人種目)600万円、5位(個人種目)400万円、6位300万円、7位150万円、8位80万円で、銀メダル以下についても、個人種目の報奨金をベースに、ペア種目が90%、3~8名の団体競技が80%、9名以上が60-75%と報奨金が手厚く支給される。
プロ競技がないオリンピック種目の選手は、競技生活を維持することや、競技から引退した後の生活に不安を抱えている。将来の生活設計が描けないスポーツ競技に、優れた運動能力をもっている青年が集まるはずがない。だから、現役時代に世界で活躍する選手には、もっと手厚く奨励金や報奨金を与え、選手の肖像権などから得られる収益を還元するなどして、選手が引退した後の生活が計算できるようにしなければならない。そうでなければ、五輪で活躍できる選手を多く生み出すことなどできない。まして、政治家のプレゼンスが目立つ五輪など噴飯物だ。予算を無駄遣いし、選手の将来より、権力維持に利用する政治家の姿は醜い。
ハンガリーのアイアン・レイディ(鉄の女)
ハンガリーの女子競泳選手、ホッスー・カティンカは、200mと400mの個人メドレー、100m背泳ぎで金メダル、200m背泳ぎで銀メダルを獲得した。彼女がハンガリー政府から獲得する報奨金総額は、6000万円近い。短水路W杯の常連で、世界各地のW杯大会を連戦し、それぞれ2日間の日程で8種目程度の競技にエントリーする強者である。その彼女とハンガリー水連との関係は良くない。
今年初め、ホッスーは記者会見を開き、来年ブダペストで開催される世界選手権のプロモーションビデオへの出演料1000万Ft(およそ400万円)の契約書(水泳連盟が提示したもの)をTVカメラの前で破って見せた。選手への支援システムがなっていないというのがその理由だった。後から分かったことだが、プロモーションビデオへの出演1秒当たり、200Ft(80万円)を要求したようだ。要するに、端金の契約書にはサインしないと言うことなのだ。
この会見の後、水泳連盟のヘッドコーチが辞任し、それを首相が翻意するように説得するという一幕があった。そのこともあって、水連や政府はホッスーへの対応に手を焼いていて、何とも気まずい関係が続いている。日本ならとっくに五輪派遣資格を取り消すような騒動である。
ロンドン五輪の前、ホッスーは南カリフォルニア大学へ留学したが、十分な指導を得ることができず、ロンドン五輪は惨敗に終わった。その後、大学で知り合ったトゥスップ・シャインと結婚し、夫と二人で新たな道を開くことになった。シャインはもともと水泳コーチではなく、大学で保健学と経営学を専攻した水泳の素人である。しかし、シャインはブダペストに移り住み、二人三脚でハンガリーの水泳クラブでトレーニングを積むことになった。
彼らは1日9~10時間の猛烈なトレーニングを始めた。また、世界各地で開催されるW杯大会にはすべて参加し、都市から都市へと移動しながら、実戦でトレーニングを積むスタイルを確立してきた。移動したその日でも8時間のトレーニングを行い、2日間で多くの種目をこなし、次の都市へと移動する日々を続けてきた。短水路W杯で数多くの金メダルを獲得していることは、周知の事実である。
ハンガリー水連はW杯のすべての大会にホッスーを送り込む予算も意図もなく、夫でコーチのシャインが大会主催者と掛け合って宿舎や渡航費の援助を得てきた。だから、ホッスーとシャイン夫妻には、ハンガリー水連の力を借りずに、自分たちで道を開いてきたという自負がある。だから、400万円程度のお金で肖像権を売るようなことはしないということなのだ。
彼らはアイアン・レイディをブランドにしたシャツなどを販売し始めた。現役時代に稼がねば、そのチャンスは永遠に失われる。水泳選手の競技生活は長くはないし、大衆的プロスポーツのような大きな賞金を稼ぐチャンスはほとんどない。W杯の賞金は小遣い程度のものだ。だから、肖像権を最大限に活用し、競技生活を終えた後の生活や事業を始める資金を蓄える必要がある。肖像権を安く売ることができない理由である。だから、夫のシャインは、ホッスーが生み出す価値の事業化や将来計画を掌握している。
このホッスーに比べれば、五輪の賞金を老後の世界一周資金に貯めておくという萩野選手は可愛いものだ。しかし、萩野選手にしても、今のうちに蓄えられるものを積み上げないと、競技生活を終えた後の生活の土台を築くことはできない。
賞金を稼ぐことができるプロの大会がないスポーツ競技で、世界を極めるのに精神論だけではもう通用しない。世界の頂点に立てば新しい未来が開けるという展望が必要だ。そのためにも、世界の頂点に立った選手の努力と成果にそれなりの報償金で報い、将来の生活を支えてやることが不可欠である。ホッスーの事例は競技連盟にとっては不都合極まりない案件だが、プロのないスポーツ競技に参加する選手の将来生活をどう支えていくのかという根本的な問題を問いかけている。それぞれのスポーツ競技連盟がそこまで知恵が回らなければ、選手自身が主導的に問題を投げかける以外に方法がない。
工夫のない五輪のプロ競技
五輪に加えられた競技のなかで、日常的にプロの大会が行われている競技は今一つ活気に欠けた。錦織の銅メダルを騒いでいるのは日本だけだ。テニスにしてもゴルフにしても、リオ五輪の競技は通常のプロの大きな大会に比べ、かなり格下の大会レベルに相当するものだった。テニスで言えばATP500レベル程度の大会で、ゴルフなどは観客がほとんどいない練習ラウンドのような感じである。さすがにゴルフ選手からは大会のあり方を見直す意見が出されたが、テニス選手からそういう意見が出ないのは不思議だ。
そもそも、五輪でプロの大会と同じ形式の競技を漫然と行う競技主催組織の見識が疑われる。そこには何の知恵も工夫もない。しかも、トップ選手が数多く欠けて、白けた大会になってしまった。五輪で行うなら、もっと競技方法の工夫が必要だ。
ゴルフ選手からは団体戦を行うべきという意見が出たように、テニスを五輪種目に残すなら、通常のツアーでは行われない団体競技に、たとえば男女混合の団体競技にして、五輪の特徴をだすべきだろう。男女の単複、混同複の5種目で8ヵ国程度の参加で競えば、男女を含めた国のテニスレベルを推し量る興味深い競技になるだろう。デ杯ともフェデレーション杯とも違う団体競技になる。こういう工夫でもしない限り、テニスやゴルフを五輪競技に含める意味はない。各競技団体の見識が問われている。
同じことは野球についても言える。WBC大会ですら迫力に欠けるのに、同じような中途半端な大会を五輪で開くのは能がない。まして野球が全く普及していないヨーロッパの五輪で、まったくなじみのない不可思議な競技にスペースや時間を割く余裕などないだろう。観客を集めることなどできない。野球はサッカーと違って、世界的に普及しているスポーツではないから、サッカーのように23歳以下のチーム編成にしても、何のインパクトもない。そもそも五輪には相応しくないということだ。18歳以下のユース大会なら、少しは普及の意味が見いだせるかもしれないが。
各競技団体はもう少し頭を使って、知恵を絞らないと、五輪はプロの格下大会という位置づけは変わらないだろう。
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