――八ヶ岳山麓から(83)――
「中国夢」は信仰を魂とし自覚を根本とする。
複雑多岐の国際環境、甚大複雑な国内改革発展の任務、党の直面する峻厳なる試練と危険に対して、みな心をいつにして「中国夢」を築く自信を強めよ。
終始心をいつにして中国型社会主義への信仰を堅く守り、「われらの信仰する主義」すなわち「宇宙の真理」を熱く信じよ。
現代の共産党人はこうした熱い信仰の集中的表現である。
すなわち、科学的社会主義の真理を、社会主義は資本主義よりも優れていることを、社会主義が資本主義にとって代ったのは人類社会発展の客観的法則であることを確信する。
科学的社会主義は歴史と法則、科学と価値、理論と実践の有機的統一を実現し、人類の進歩と解放のために無限の前景を切りひらいたことを、またそれが永遠に論破されることのない真理という価値と普遍的意義をもつことを確信する。
中国型社会主義は社会主義であってそのほかのいかなる主義でもないことを、科学的社会主義の基本原則は捨てようとしても捨てることができないことを確信する。
かくして中華民族の偉大な復興の新たな長征にあって、泰山青松の如く「千磨万撃にも揺るがず、いかなる東西南北風にも屈せず」、八千里の暴風にも耐え、九千のいかずちにも毫も揺がず、「中国夢」のために奮闘する自信を堅持するのである。
これは文化大革命時代の宣伝文ではない。この5月中国「解放軍報」(2013・5・22)に掲載された孫臨平の「中国夢の自信はどこにあるか」の部分をとびとびに引いたものである。友人が伝えてきたものだが、中国ではかなり話題になったらしい。
http://www.chinamil.com.cn/jfjbmap/content/2013-05/22/content_36304.htm
筆者は現在中国報協副会長・解放軍報社副総編集長の要職にあり、軍隊の位は少将。
孫臨平将軍は「大いなる感情」「盛んなる志」「鬱勃たる生命力」「勇壮な気概」「信仰は炬火の如く虹の如し」「感天動地」「尽きることなき春光」など美辞麗句を連発して中国型社会主義をたたえる。
善意に理解すれば、この内容はレーニンの「マルクス主義は正しいがゆえに全能である」という、あの同義反復の文言のパロディともいえる。「中国型社会主義は正しいがゆえに宇宙の真理である」
昨年11月の習近平政権発足以来、習国家主席自ら唱えた「中国夢(中国の夢)」ということば今や政権の最大のキャッチフレーズとなっている。習主席がくりかえすほか、全国の宣伝機関を総動員して大キャンペーンを行い、国民への浸透を図っている。
「中国夢」とは何か。前後を判断するに、アメリカに比肩する軍事力と経済力の実現、またそれによって世界を牛耳る外交政治力、つまり覇権国家になること。歴史を振返れば大漢帝国・大清帝国最盛期、それが「中国夢」である。
中国には「夢は夢、そんなもん信じられるか」という人もいる。インターネット上には「無学文人孫臨平の、……『中国夢の自信はどこにあるか』はテーマから内容まで、全く論文の体をなしていない。論拠もなく、論証の過程もなく、思弁も論理もない。意味も通じない。前後矛盾する。これぞまさしく新文体の『政治抒情散文詩』である」といったたぐいの批判がある(「華声論壇」http://bbs.voc.com.cn/forum-76-1.html)。こうした孫将軍への嘲笑批難がいくつもあるが、現在までインターネット上から削除されていない。
これも友人から教えられたのだが、「人民日報」の国際版「環球時報」(2013・10・9)に「21世紀に人類政治の絶技を上演するのは中国だ」という文章がある。以下ばらばらに引く
(http://www.21cbh.com/2013/10-9/yOMDM2XzgyNTUyOA.html)。
中国改革の彼岸はどこか。ひとによっては伝統文化の継承を軽く見て、全面的欧米化を主張する。
中国も「全面的欧米化」すべきか――そうではない。
中国の今日の道は混合型の創造である。欧米的要素もソ連的要素も含んだ、自国の優秀な伝統の革新である。最も大切なのは、中国人自らの判断力を堅持すること、中国の利益を中心にして、欧米の指揮は受けないということだ。
さいわいなるかな、中国は欧米に学ぶことと、精神的独立を堅持することを一体化したごく少数の国家となった。
中国経済社会の進歩の歩みは、最近の30数年間世界最大である。だが、中国はソ連やユーゴスラビア、中東国家のいくつかのような深刻な社会的代価を支払わなかった。これによって中国の平穏な発展は幾多の途上国の羨望の的となっている。
二つの文章には、中国の現状をもちあげるのに夢中で、農民工・農民・都市最下層住民の生活について、5年後、10年後にはどうなるのかという関心がない。
他方、労農人民は中国の全体像がつかめないながらも、生活がいわれるほどには向上しないことを実感している。指導者が上は上なり下は下なりに特権を持ち、汚職が日常化していることに怒りがある。孫将軍らは、こうした彼らの「仇官(権力者を恨む)」「仇富(金持を憎む)」の感情も無視している。
経済成長の陰で深刻化する社会問題に対応するために、いいかえれば「統治の正統性」への危機に対処するために、胡錦濤政権は開発第一から「和諧社会(調和ある社会)」を唱えて社会政策の方向に歩み出そうとした(それはかなりの抵抗にあったように見えるが)。
従来は、中国共産党の「統治の正統性」は抗日戦と国共内戦勝利、建国の実績をいうだけで足りた。だが革命後、前半の30年は失政続きであったし、後半の30年ははじめ国有財産の私物化・横領があり、その後市場経済によって今日に至ったのである。胡温政権は事態の深刻さを感じたかもしれない。
一人一票の議会制民主主義であれば、ここで選挙をやって多数をかちとれば「統治の正統性」問題は解決する。しかし一党支配の権威主義体制ではそうはいかない。そこで「統治の正統性」を新たに弁明しなくてはならない。
中共最大の実績は経済発展を主導したことだから、まずはこれを持上げる。その路線は中国独自のものだと強調する。さらに21世紀に入ると、郷村レベルなどの選挙や政治協商会議による国民の政治参加を挙げて、欧米型ではない中国独自の「民主」なども主張されるようになった(内容は民主主義というには遠いが)。テンポは遅いが最貧層の救済と医療保険の普及も政策にのぼった。「共産党がなかったら今日の中国はない」という昔ながらのいい方も復活した。
さまざまな「統治の正統性」論の中で、もっとも耳に快いのは「チャイナ アズ ナンバーワン」という民族主義、愛国主義である。孫将軍のような程度の低いイデオローグは、支配層全体がもつ「統治の正統性」への危機感を十分に共有できていないから、狭隘な民族主義だけを歌うことになる。
ここで私が気になるのは、人口の15%をしめる(?)という新中間層のことだ。中国知識人の大半は政府機関(科学院や大学も含めて)と大中の国営・私営企業にいる。そのかなりの部分は大学出あるいは留学帰りの専門職・技術職・事務職・管理層などのエリートである。
ひところ中国にも新中間層が増えたら、台湾や韓国同様、体制批判が生れ、民主化要求が強まるだろうという観測をする人々があった。だが現実はまったく逆だ。新中間層は、権力者・経営者と並んで経済成長によって権力と収入を得た受益層で、各レベル支配層の目下の同盟者である。
エリートは労農人民とは違って、支配層とつながりがあるから、それによって特別な利益を得る方法を知っている。面従腹背であれなんであれ、あえて政治運動を起して社会の安定を崩してまで、民主主義や人権を求めようとはしない。ご存知のように反体制運動に向かう人もあるが、それは権力者が摘発し弾圧できるくらい少ない。
新中間層にしてみれば、孫将軍らのいささか滑稽なナショナリズムは、その品のなさを苦々しく思うことはあっても、全面的に否定するしろものではない。むしろ中国のエリートにとって、「信ずる者は救われる、そは中国型社会主義であればなり」という論理は身内のものである。労農人民にまわる、経済成長のおこぼれはわずかなものである。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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