佐村河内守氏をめぐる狂騒曲

佐村河内守氏の「作曲家詐称事件」ほど、日本社会やテレビ界の病弊を見せてくれる事件はない。JSTV(ヨーロッパ日本語衛星放送)でも放映されたNHKスペシャル「魂の旋律―音を失った作曲家」を見て、筆者も早速、Amazonで「交響曲第一番<Hiroshima>」を購入した。楽曲に関心があっただけでなく、CDを購入すれば、不遇な境遇で頑張っている音楽家へのわずかな貢献になるという思いからである。CDを買った多くの人々も、同じ思いを抱いていたことだろう。
ただ肝心の楽曲だが、車内のCDプレーヤーで数回聞いてみたが、後はグローヴボックスに入れたまま埃をかぶっている。全体に陰鬱で、繰り返し聞いてみようという気にならなかった。やはり歴史に残る「楽聖」の大曲とは比較にならないと思ったが、専門家でない筆者にはそれ以上の感想はない。そこに降って湧いたように飛び出したのが、今回の「作曲家詐称」暴露である。

安易な番組制作 
NHKスペシャルが放映された時に、気になった点がいくつかあった。一番不思議に思ったのは、映し出された自宅と思われる部屋に生活臭がまったくなかったことだ。家具が一つもなく、何もない部屋の壁に寄り掛かったり、布団を敷いて苦しんだりする様子は、テレビがよくやる再現フィルムのようだった。もしこれが自宅だとしたら、他の部屋でどのように生活しているのだろうかという疑念が残った。
また、病魔に悩まされ、経済的にも苦しいと思われるのに、麻原彰晃のように栄養満点の体躯で、黒髪の長髪がきれいに手入れされている。風貌からも生活臭がまったく感じられなかった。
この二点は、NHKスペシャルを観ながら、直感的に感じたところだが、詳しい事情が分からなければ、それ以上の判断は下しようがない。

さらに言えば、作曲に必要な用具や楽器がまったく映し出されなかったことだ。聴力を失ったとはいえ、ピアノかシンセサイザーのような楽器があり、それを片手に音を確認しながら、コンピュータで記譜しているのだろうと想像した。当然、ピアノやコンピュータがある仕事部屋があるのだろうと思っていたが、そのような作曲手段や仕事場はないようだ。
また、厳しく音楽を教えたという母親や一番身近にいる妻、あるいは音楽仲間や学生時代の友人の存在が消えていた。それほどの天才なら、その天才ぶりを語り継ぐ人々がいるはずだ。人は物心ついてから急に天才になることはない。とくに芸術家の世界は幼少時からその天才的な能力が垣間見られるはずで、大人になって急に天才になることはない。その天才を傍証する証言がまったくなかった。

このNHKスペシャルの企画は外部から持ち込まれたものだという。これを持ち込んだディレクターは、佐村河内氏の詐称に気づいていただろう。もしそうだとすれば、楽曲の音楽的価値とは無関係に、このディレクターは佐村河内作曲を詐称する作品販売の詐欺行為を行った実行者である。この番組が放映された結果、売れるはずもない「交響曲第一番<Hiroshima>」のCDが10万枚を超えるヒットを記録して、巨額の印税が支払われた。明らかに公共電波を使った誇大広告によって、不当な利得を得た詐欺行為であり、佐村河内氏本人のみならず、その売り出しに大きな役割を果たしたディレクターは、詐欺の共犯者である。ただし、作曲を担っていた新垣氏には、詐取の意図がないので、経済犯罪の罪が問われることはない。

もしNHKスペシャルを企画したディレクターが詐称に気づいていないとしたら、基本的な音楽知識や常識が疑われるだろう。これでは麻原彰晃のインチキを暴けなかったのと同じレベルだ。瞑想するだけで、オーケストラのスコアを書けるはずがないことなど、少し考えただけでも分かることだ。専門家に意見を求めれば、すぐ分かることだ。

「ロス銃撃事件」との類似性 
詐称・詐欺事件は芸術界で日常茶飯に起きている事象である。もちろん、芸術世界に限られるものではない。学術の世界や政治の世界でも、代筆、盗作、統計操作はそれほど珍しいことではない。その意味で、今回の佐村河内事件もとくに珍しい事件でもないが、テレビという大きな影響をもつ媒体を使った大掛かりな詐欺事件という点で、他の事件と区別される。
これとよく似た事件は、いわゆる「ロス銃撃事件」である。この時は、夫人の遺体を乗せた米軍ヘリが到着する様子をテレビが映し出し、三浦和義氏本人が発炎筒を掲げて、ヘリを誘導していたのを覚えている。だいたい、軍人でもない三浦氏が、いかに本人の強い要請によって米軍の輸送支援を受けたとはいえ、米軍ヘリを誘導するのはあまりに演技じみている。凝りに凝ったシナリオで自らをもっと大きく見せたいという尋常でない欲望を感じさせる。もっとも、この事件は殺人事件で、佐村河内事件は詐称による経済的詐欺事件だという基本的な相違はあるが、テレビを利用して、自らを誇大に見せて、経済的利得を得ようとした点は同じである。
それにしても、佐村河内氏は三浦氏にも劣らない演技派である。光が入ると病状が悪化するとサングラスをかけて眼の動きを見せないようにし、腱鞘炎だからピアノが弾けないと手首にサポータを付け、杖までついて歩き、麻原彰晃のような黒装束を身にまといカリスマを装い、寒い三陸の浜辺で何時間も瞑想し、発作で部屋を蠢く演技までするなど、手が込んでいる。そういうロールプレイをすることが、いつの間にか飯の種を生み出す仕事になっていったのだろう。多分、麻原彰晃の演技から多くを学んだに違いないが、眼が見えない想定よりは、耳が聞こえない想定にした方が、日常生活を送るのに便利だと考えたのだろう。
こういう人物を見ると、どういう家族・生活環境の中で育ってきたのだろうという興味がでてくる。これは社会心理学的なテーマになろう。

文化と知性の劣化
大晦日には久しぶりに、JSTVで「2013年紅白歌合戦」を通してみたが、少女のグループが次から次に、何を歌っているのか不明瞭な声を張り上げ、踊って見せるものが多かった。AKB48に代表されるようなグループを追いかけているのは中学生か高校生だと思っていたら、いい歳をした社会人男性だという。通勤電車でマンガ本を読んでニヤニヤしている若い男性の知性の水準はその程度のものなのだろう。このレベルの男性たちが、AKB48のようなギャルグループを追いかけているのだろうか。この種の歌手やグループの歌など、数年のうちに、簡単に忘れさられてしまうだろう。その程度の価値しかないものを、若い人々が追いかけている。

この種の安易な風俗文化が幅を利かせ、テレビではお笑いタレントが訳の分からないヴァラエティで騒いでいる。いつの時代にも、クラシック音楽のような頭を使う文化はなかなか一般庶民の文化にならないが、とくに日本のような浮わついたガキタレ文化が蔓延している国では、クラシックの意味も価値も分からなくなっている。

クラシック音楽は一つの学術的文化であって、ガキタレが参入できる分野ではない。オーケストラ曲の作曲には膨大な音楽知識が必要とされるだけでなく、音楽家としての感性や才能が要求される。和音(コード)でしか演奏していないロックのミュージシャンが真似のできる仕事でないことはもちろん、佐村河内のようにボーカルしかやったことのないミュージシャンには想像もできない世界なのだ。もしNHKスペシャルで佐村河内氏の本当の音楽歴が追跡されていれば、専門家はすぐに異を唱えることができただろう。しかし、彼の生活・音楽史を顧みることなく、この番組が構成された。視聴者は佐村河内氏にクラシック作曲の素養や知識があるという前提でしか番組を見ていないのだから、番組だけで嘘を見破れなかったと非難できない。

それにしても、佐村河内氏は作曲家が必要とする楽器や用具なしに、五線譜とペンだけで、瞑想からクラシック楽曲が作曲できると演じたことだ。ここにロールプレイの最大の欠陥があった。佐村河内氏は楽曲作曲の難しさを想像することすらできなかったのだろう。歌謡曲やガキタレ音楽と同様に、大衆小説の原稿を書く程度のことだと思っていた節がある。だから、安易に、白紙の五線譜と完成譜があれば、メディアを納得させることできたと考えた。しかも、佐村河内氏に群がったメディアはその単純な嘘すら見破れず、彼と同じレベルでしか考えることができなかった。AKB48レベルの大衆文化しか追っていないメディアには、最初からオーケストラ楽曲を作曲する難しさに考えが及ばず、演技の最大の欠陥を見抜けなかった。佐村河内氏とメディアは「同じ穴のムジナ」ということか。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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