コロナ禍を政治利用してはならない。一律に現金や商品券を給付する政策は、有権者の票買収以外の何物でもない。
今次のコロナ禍による経済低迷は経済社会的行動の制限によるものである。これまでの経済恐慌とは違い、潜在的な有効需要は存在しているが、営業制限によって有効需要の発現が抑制されていることから種々の経済問題が生じている。したがって、営業制限が続いている限り、現金給付してもそれが有効需要にならず、貯蓄に回される可能性がきわめて高い。
いま必要とされているのは、一律の現金給付ではなく、営業制限によって失業した人々や、顧客の激減によって倒産寸前になっている中小企業の救済である。国家資金はこれらの本当に救済を必要としている人に、重点的に行き渡るもものでなければ意味がない。
東日本大震災時と同様に、不可効力な災禍が生じた時は社会が連帯して痛みを分かち合わなければならない。一律に現金や商品券を配るという発想は、ポピュリズム以外の何物でもない。巨額の国家資金が必要な時に減税を唱えるのではなく、逆に国の債務を野放図に増やさないために、救済資金を確保する特別税を導入し、負担できる法人や個人から徴税する仕組みを考えるべきだ。国民も「減税ならなんでもOK。国がくれるものはなんでも頂く」という姿勢ではなく、国の財政の行く末を考え、その使途を監視しなければならない。
国が配る現金であれ商品券であれ、その原資は財政の前借(借金)である。国の借金は将来世代につけ回しされた負債である。アベノヨイショの「経済学者」が放言しているように、「国の借金などどうにでもなる」ことはない。「国の借金がいつの間にか消えてなくなる」ような手品はない。いつの日か、何らかの形で、必ず国民が負担することになる。それを忘れてはならない。
もし日本の公的債務が小さく、国家財政に余裕があれば、大規模な救済政策がとれるはずだが、すでにGDPの200%を超える累積債務を抱え、日銀が株を買い支え、潜在的な債務超過になっている異常な状況では、政策発動に大きな制約が存在する。コロナ禍に加え、大地震や原発事故が重なれば、経済社会は致命的な打撃を受ける。それほどまでに日本の国家財政基盤は脆弱である。経済社会崩壊を避けるために、政治家だけでなく、国民が危機感を持つことが必要だ。
10万円であれ20万円であれ、今の世代が取得する現金は、そのまま将来世代、つまり今の子供の世代に先送りされる付けである。このことを認識できなければ、春秋時代の警句になった「サル」と同じである。だから、支給された現金が貯蓄に回ることに、それなりの合理性がある。なぜなら、給付金を貯蓄に回すことによって、将来、子供や孫に伸しかかってくる負債と相殺できるからである。しかし、これでは緊急政策として意味も効果もなく、国の債務を増やすだけのことだ。
もっとも、政府の「施し政策」によって、自民党政府にたいする有権者の支持が増えるという政治的効果が期待できる。だから、一律に現金や商品券を給付するといういかがわしい政策を容認してはならない。
アメリカは貧富の格差が大きく、一般労働者は民間の医療保険に加入する経済的な余裕がない。アメリカのような市場原理主義的な社会保障後進国では、問題の根本解決にならないが、現金給付によって一時的に労働者層を救済できることはある。しかし、社会保険制度が異なる日本が、アメリカの政策の真似をする必要はない。
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