遠ざかった夢、左翼衰弱の理由

――八ヶ岳山麓から(316)――

 いま日本の学生の多くは、自分のことに精一杯のためか、韓国や台湾の学生に比べて社会の動きに関心がうすいように思う。だが、第二次大戦敗戦後からおよそ30年間は、学生たちは政治の反動と軍国主義化に反対して活発に発言し行動した。
平田勝著『未完の時代―1960年代の記録』(花伝社2020・04)は東京大学を中心とした、60年代学生運動を指導した者の記録である。私たちが死力を尽くした60年安保闘争後の学生運動はどうなったのか強い関心があったので、私はこの本を一気に読んだ。

著者平田氏は1941年岐阜県御嵩町に生まれた。父は小学校教師。1年東京で浪人生活を送り、61年4月東京大学教養学部に入学、9月に共産党に入党した。当時駒場細胞(支部)はわずか10人に過ぎなかった。
平田氏は学問への強い思いをもちながらも、共産党の指示に従い学生運動に挺身した。65年ようやく本郷文学部中国哲学科に進学したが、本郷でも自治会議長にえらばれ、さらに代々木系(共産党系)全学連委員長になった。
全学連委員長時代は、ベトナム反戦、日韓条約反対運動など非常な盛上りがあった。当時は、「三派全学連がマスコミでは大きく報道され、彼らが学生運動の中心であるかのように報道されていたが、実際には『代々木系』といわれていた我々が全国学生自治会の7割を占め、大学を基盤とする地道な活動を展開していた」と自負している。三派全学連とは反代々木系(反共産党系)の新左翼政治党派がつくった学生組織だ。

彼が支持基盤とした民青(日本民主青年同盟、共産党の青年組織)は、60年代初めは微々たるものだったが、67,8年には東大同盟員は駒場・本郷合わせて1000人超、他でも1000人規模の大学が6,7校に達し、全国では20万に拡大した。これは彼らの努力が実ったものだが、多くの大学で新左翼政治党派間の暴力と流血に反発が広がったからでもあろう。
67年7月、18回全学連大会を最後に委員長を辞任し、教室に戻るとともに新日本出版社に入り、半学半労の生活をはじめた。ところが1968年医学部ストライキが始まり、ゲバルトが学内を席巻して安田講堂占拠に至った。平田氏は共産党中央とともに水面下で東大闘争の指導に当った。とくに文学部ストライキ収拾のために奔走した経緯は敬服に値する。
入学から8年目の69年6月教授と後輩の援助によって単位を修得し、卒業証書を手にした。郷里の父上はこれを喜んで額に入れて飾ったという。85年出版社「花伝社」を設立したとき共産党から離党した。現在花伝社代表取締役。

本書を60年代学生運動論だという人がいるが、私には「論」が読み取れない。彼が代々木系全学連を背負った時期、国内外に重大事件が幾度もあった。そのつど議論が起こり平田氏も発言したはずだ。その記録が本書にはないからである。
ところが本書第5章に40数ページにわたる1972年の「新日和見主義事件」に関する記述がある。私は一読して、これこそ彼の日本共産党論であり、最も語りたかったことだと思った。

「新日和見主義事件」は1972年に起きた共産党内の粛清事件である。この呼びかたは共産党中央のもので、粛清されたものが自らこう名乗ったわけではない。
60年代後半から共産党は、議会を通して改革・革命を達成しようとする「人民的議会主義」を提唱するようになった。ところが中央・地方の党員の中に、これでは選挙と「赤旗」拡大などに追われ、大衆運動が軽視される恐れがあるという批判や疑問が生まれた。関係者何人かの回顧録によると、とりわけ民青幹部にはこの傾向が強かった模様である。
71年12月に共産党中央委員会は、同盟員の年齢制限を28歳から25歳に下げ、幹部の年齢を30歳までとする規約改定を決定した。民青幹部の人事を党中央寄りに刷新するためであったと思われる。ところがこれに対して民青内部に反発が広がり、72年5月7日の民青全国党員会議では、党中央の年齢制限の方針は通らなかった。
世間では異論や反対論があるのは普通のことだが、共産党中央は民青が党の方針を拒否したことで異常に緊張し、強力な分派が存在するものと判断した。共産党では分派は「大罪」である。査問がただちに開始された。機関紙「赤旗」は新日和見主義批判のキャンペーンを張った。

ところが平田氏は「党中央がなにをもって新日和見主義というかは極めてあいまいだった」そして「当初、共産党は事件を過大に描いていた。外国の勢力(北朝鮮)……と組んだ強大な反党分派が存在するという前提で査問を開始した」という。
査問の対象は、民青幹部、共産党系の出版社、通信社、知識人あわせて600人に及んだ。
この結果、民青中央委員の川上徹(故人)を中心とする、党中央に疑義や反対意見を持つものによる「こころ派」という分派があることがわかった。ただ査問をした人物の発言からすれば、「派」というには確たる政治綱領もまとまりもない「星雲状態」の集団であった。

最終的に党員約100人が党員権停止などの処分をうけ、この多くが民青・党の役職から放り出された。これに対して平田氏は「こころ派に加わっていた者を除き、地方の民青幹部や各種大衆組織、通信社や出版社の査問を受けた者は、ほぼ100%冤罪だと断定できる」と判断している。
査問なるものは尋常な取調べではなかった。平田氏によれば、病気療養中のものを含めて、これぞという者何人かをいきなり連行し、……容疑者に対しては頭から分派と決めつけ、1~2週間も拘束して連日長時間の取調べを行った。家族にも連絡させず、自殺予防のために付添をつけ、寝るときはもちろんトイレにも一人で行かせなかった。
平田氏はさいわい査問されなかったが、今日警察でもこんな人権無視のやり方はできない、「このような査問が、治安維持法の時代ではなく、日本国憲法下で行われたのだ」と憤慨している。
その2年と3年ののち共産党は、新日和見主義分子摘発に活躍した大阪と愛知の民青委員長が警察のスパイだったという事実を公表した。平田氏は「党中央はスパイと一緒になって、新日和見主義一派を民青からたたき出したという構図になった」という。

さて、平田氏は事件の左翼運動に対する影響についてこう評価している。
「1960年代に盛り上がった学生運動は、1972年に起こった新日和見主義事件で頓挫する。……(西欧左翼と比較したとき)その後の強力な民主主義運動を生み出すことにも直接つながらず、政党の刷新や新党の結成など新しい政治潮流を生み出すこともできなかった」
「この事件は、その後の民主運動はもちろん、党の勢いにも影響を及ぼすのではないかと当時から私は思っていた。民主運動、革命運動にとっての世代断絶を引き起こしたのだ。事態はその時憂慮していた通りに推移している」
優秀な青年が左翼陣営の一員として生きることを許されなかったのである。私もこれはイタリア共産党などとは大きな違いだったと思う。
共産党は70年代のいくつかの選挙で勝利した。だが長続きしなかった。民青は衰弱の一途をたどり、かつての20万人から2017年には9500人まで減少した。いま共産党のおもな活動家は70歳代だ。20、30歳代の党員はおそらく数%であろう。

平田氏は、「(公式の党史の)『日本共産党の八十年』から新日和見主義事件に関する記述はすべて消された。共産党はこの事件が『風化』することを待っているのだろうか」と強い不満を明らかにしている。私も共産党は、公党として党史から新日和見主義事件を削除した理由を明らかにすべきであると考える。それは左翼運動に対する義務である。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion9907:200706〕