――八ヶ岳山麓から(330)――
先にジャーナリストの池上彰氏とマルクス主義研究者の的場昭弘氏の対談集『今こそ「社会主義」』(朝日新書)の社会主義論を紹介した。お二人の話は多岐にわたり、面白いところもいっぱいあったが、批判もあった。わたしには中国しかわからないので、いくつか中国に限って発言したい。
中国という国家の性格について。
射場氏は「中国は形式的には資本主義なんですが、極めて国家主義的な資本主義でしょうね。かなりの企業を国家が自由に動かせる」と主張する。わたしも中国は国家独占資本主義に間違いないとおもう。だが、氏はこうもいう。
「中国共産党が存在することによって、中国は共産主義、社会主義の国と言われますが、実は西洋の体系に収まらない国がアジアを代表する存在となっていると見たほうがいいのではないか」
また「言い方を変えれば社会主義という言葉は非ヨーロッパ的な思想を含むんです。白人支配をくつがえす内容だ。民族の誇りを取り戻す一つの手段として、非ヨーロッパ的マルクス主義が広がった」氏はまた別なところで「中国では社会主義を実現すること自体がそのまま国を統一することになっていく」とも語っている。
そうすると、中国は国家主義的資本主義で、それが非ヨーロッパ的マルクス主義によって民族の誇りを取り戻した社会主義国家で、しかもアジアを代表する存在という話になる。これではまるで「ぬゑ」である。
また的場氏は、「政治の形式が独裁的でも、人々が自分の能力で何かをやれる制度を作っておけば、実質は独裁ではない」という。
これが中国に当てはまるとすれば、独裁下で「自分の能力でなにかをやれる制度」とは一体どんな制度だろうか。中国では、いまや社会科学の研究者は、権力の侍女としてしか生きられない状態にある。中国共産党の気に入らないことをいえば、軽くても職を失うか、場合によっては投獄される。自然科学や技術分野でも、一概に自由というわけにはいかない。国策から外れないことが第一である。
池上氏も「今の中国でいえば、中国共産党の悪口を言わなければ、基本的には何でも自由でしょう。何やってもいいわけですよ。商売でいえば、日本よりはるかに自由がある」という。氏はこのあと「ただ、中国共産党の悪口を言うと、だめだよというのが、いつまでもつのか」といっているから、言論統制が厳しいことはわかっているようだ。
しかし、なにかの発言を悪口か否か判断するのは中共当局である。何やってもいいわけはない。商売でいえば、野菜や果物の引き売りだって「城管」という「おかみ」のお眼鏡にかなわなければやることはできない。わたしはチベット民族とか漢民族と書いているが、中国ではチベット族、漢族でなければならない。民族は「中華民族」しか存在できない。
中国が目指す「中華民族の夢」の認識について。
池上氏は「いま習近平が、『中華民族の夢』をもう一度、といっていますけど、あれは明の時代をもう一度ということですね。清のときは漢民族ではありませんでした。大帝国だった明の時代を復活させたい、という思いがある」といっている。
氏は、中共が異民族支配の清帝国を目標にしないと思っているらしい。だが中共中央にとって、満州民族が建国した清は否定的存在ではない。すでに江沢民時代(1989~2002)に「大国崛起(大国の復興)」というスローガンがあったが、それと同時に中央テレビでは清帝国最盛期の康熙帝の伝記を放送していた。孫文が「韃虜(だつりょ=満州人)を駆除し、中華を恢復する」と叫んだ時代とは異なり、当時も中共中央は「大清帝国よ、もう一度」といっていたのである。いま習近平政権(2012年~)は江沢民時代の数倍の国力を背景に、大清帝国を超越した覇権国家を目指していると私は思う。
的場氏はいう。「中国は社会主義というより、18世紀に存在していたアジアを中心とした清の中華帝国の貿易体制の復活と捉える視点です。ここ2世紀近く支配していた西洋の体系に対して、資本主義体系ではない、別の体系をとった国、中国が復活したということです」
いくら何でも現状を清帝国の「朝貢貿易」の復活と見ることはできない。これでは日本やアメリカの対中貿易も朝貢ということになってしまう。習近平の「一帯一路」構想を、象徴的意味で氏と同じように書く人もいるが、21世紀の今日、中国が世界に覇権を唱えたとしても、対外関係は清帝国とは異なるものになるのはだれでもわかる。
中国が多民族国家であるということについて。
的場氏は、「中国は漢民族の国だというのは事実に反します。少数民族が辺境といわれる地域に暮らしています」という。中国が多民族国家であることに異論はない。だが少数民族には自治の実態はなく、少数民族語は衰弱の一途をたどっている。
中共は習近平政権以前からすべての少数民族地域の教育言語を漢語にし、宗教も政府が管理する政策を進めている。去年、内モンゴル自治区の民族学校で教師が授業でつかうことばをモンゴル語ではなく漢語(中国語)にする政策が実施されてモンゴル人の怒りを買ったが、これはチベット人地域や新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)では10年以上前から実施されているものである。この結果、漢語で教育された少数民族の子供同士の会話は、いま漢語に変りつつある。彼らのほとんどは、自民族の文字で書かれた文章を読めないだろう。
以前から中共は寺院やモスクを格付けし、転生ラマ(活仏)だのアホン(モスクの指導者)だのの人事を管理してきた。「宗教の中国化」すなわち統制は以前から行われてきたが、急速に厳格になったのは、2015年5月の中央統一戦線工作会議以来である。ここで習近平は民衆統治の手段として宗教が中国社会に適応するよう導くこと、宗教の中国化、宗教管理の法治化を強化することなどを指示した。冗談ではなく、そのうちチベット仏教やイスラム教の教義も「中国化」したものが発表されるかもしれない。
かさねて的場氏は、「国民国家のほうが大変ですね。そもそもが、一つの民族、一つの言語、一つの文化、一つの宗教を決めることで無理をして作った国家であるがゆえに、まとまりを維持しようとすると、言語や宗教の統一をやり始めるから、そこで対立が起きて崩壊していく」という。
中共は、いま少数民族を漢化して「中華民族」とし、「一つの民族、一つの言語、一つの文化、一つの宗教」の単一民族の国民国家を作ろうとしている。中国ではこのため対立は起きるが、国家が崩壊することはない。いつぞやNHKのルポ番組で、地方テレビ局のチベット人女性幹部が「チベット族の進歩とは、漢族になることです」と語っていたが、この勢いが衰えないとすれば、少数民族は漢民族の洪水に押し流される運命にある。少数民族問題は自らをこの溺死から逃れようとして起きるものである。
以上、差し当たってこれだけはと感じたところを述べた。ご批判をお待ちする。
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