「ばけもの」とされた人々の記録

――八ヶ岳山麓から(358)――

 わたしがいまも現役の高校教員であったら、教え子たちに楊曦光(楊小凱)著『中国牛鬼蛇神録――獄中の精霊たち』(集広舎 2021)をこんなふうに語りたい。

 本書は中国の「政治犯」楊曦光の獄中記である
 表題の「牛鬼蛇神」とは、妖怪変化、ばけもののことである。君たちの両親が生まれるか生まれないかの1966年から76年までの10余年、中国には文化大革命(文革)という混乱の時代があった。この時、地主・富農・反革命・悪質分子・右派・裏切者・スパイ・走資派・知識人とされた人々は、ひとくくりに「牛鬼蛇神」と呼ばれたのである。

 では、文革とはどういうものか
 中国は1949年の革命以来、中国共産党の一党独裁のもとにあり、指導者毛沢東はほとんど皇帝の地位にあった。ところが、かれは数千万の餓死者を出すなど、大きな失政を繰り返した。そのために劉少奇や鄧小平ら革命の同志で、新中国の行政に携わった人々も毛のいうことを聞かなくなった。これに毛は強い不満をいだき、かれらを資本主義の道を歩む実権派(「走資派」)とみなして打倒対象としたのである。
 1966年毛沢東は自分に対する民衆の崇拝の情を利用して、若者らに「走資派」の権力を奪えと呼びかけ(「奪権」)、「造反有理(上のものをやっつけるのはいいことだ)」といって励ました。この青少年を「紅衛兵」「造反派」という。
 紅衛兵はもとより一般の人々も、特権にあぐらをかく官僚の支配に不満があったから、毛沢東のお墨付きを得てめちゃめちゃに暴れまわった。1年足らずの間に、破壊、吊し上げ、拷問、暴行傷害、投獄、虐殺、さらには紅衛兵同士の殺しあいが横行した。しばらくたつと毛沢東も紅衛兵らの蛮行をもてあますようになり、1967年秋に「農村で農民に学べ」と称して、かれらを都市から追い出した(「下放」)。
 文化大革命とはこんな時代であった。文化とは何の関係もない。知識人を「牛鬼蛇神」に入れたことでそれはわかるだろう。

 ではなぜ著者楊曦光は「政治犯」だったのか
 楊曦光は、1948年吉林省に生れた。革命後父楊第甫は湖南省の高級官僚となったが、59年毛沢東を批判した彭徳懐将軍が失脚すると、これに連座して左遷された。息子の楊曦光は、文革が始まったとき湖南省長沙市第一中学の生徒であったが、父親の関係で紅衛兵にはなれなかった。
 だが彼は造反派組織「軍奪権」に参加した。きょうだいとともに北京をはじめ各地の「経験交流」に参加し、農村では「下放」された紅衛兵らの苦しい生活を見た。

 文革によって既存の特権官僚による支配は打倒されたはずであった。ところが現実には、新たに登場した権力機関「革命委員会」も、従来型の特権的専制支配を行っていた。
 この期待外れの実態に対して、1968年1月楊曦光は「省無連・一中紅色造反委員会鋼319兵団・『軍奪権』一兵」の名前で「中国はどこへ行くのか」という論文を発表した。
 「中国において新たな特権階級がすでに形成されている。彼らこそ人民を抑圧している(正にマルクスの批判したことだ)。中国の政治体制とマルクスが構想したパリ・コミューンとに共通点はまったくない。故に、中国では新たな暴力革命により特権階級を打倒し、民選の代表から成る民主的な政体の基礎を再建しなければならない」
 つまり、もう一度現体制をひっくり返す革命をやってパリ・コミューン型の国家を作ろうというのである。新官僚体制にたいする批判は中国各地で生まれていたから、この論文は大きな反響を呼んだ。

 ところが、毛沢東らは共産党の一党支配を覆すような思想が若者の中から生まれるのを警戒していた。楊曦光の主張が現れるや、首相周恩来は「省無連」を名指しで「反革命」と批判し、全国の新聞は「中国はどこへ行くのか」を掲載して反面教材とした。たちまち彼は著名な反革命分子となり、まもなく逮捕され、69年に「反革命罪」で10年の刑に処せられた。
 「中国はどこへ行くのか」は香港を経由して西側世界に流れた。わたしは当時内容を断片的に知っただけで、全文を読んだのは文革の末期になった。
 楊曦光は、未決囚の拘置所で2年近く拘置され、判決後は労働改造所「健新農場」に収容された。1970年長沙の監獄に移されて8ヶ月を過ごし、さらに再び「建新農場」に戻された。この間父親は「下放」させられ、母親は絶望のうちに自殺していた。

 76年に毛沢東が死に、取巻きの毛沢東夫人ら「四人組」が失脚してようやく文革が終わった。かれは78年に出獄した。
 ここでは急いでその後のことを言おう。
 楊曦光は広く知られた「悪名」のために就職できず、やむをえず幼名の「楊小凱」に改名し、印刷工場の校正係になった。また湖南大学数学学部で聴講生として学び、80年中国社会科学院計量経済研究所の修士課程に入学した。82年に卒業すると、武漢大学の数理経済学の教師になり、『数理経済学の基礎』『経済サイバネティクスの理論』などの著作や経済関係の論文を発表した。
 かれはここでアメリカ・プリンストン大学の鄒̪至庄教授に才能を見出され、同大学に留学。88年博士号を取得し、イェール大学の研究員を経て、オーストラリア・メルボルンのモナシュ大学教授となった。共著『専門化と経済組織(Specialization and Economic Organization)』は著名な経済学専門書を出版するノースホランド社から出版された
 かれは「分業」を軸とする「新古典経済学」のパラダイムを提示し、国際的に高い評価を得るとともに、中国の体制改革に関しては、後発国は先進国の技術を模倣する傾向があるが、それよりも制度改革を先行させるべきだと発言した(関志雄『中国を動かす経済学者たち』東洋経済新報社 2007)。
 晩年肺癌を病み、キリスト教徒となって2004年56歳という若さで亡くなった。

 さて本書の主人公は、獄中の囚人たちである
 にもかかわらず、ここに長々と楊曦光の経歴を述べたのは、彼自身が主人公だというほか、10余年の監獄生活が彼の大学だったからだ。本書には彼の特異な観察眼によって描かれた流れ者、農民、ごろつき、同性愛者、狂人、スリ・かっぱらい、大工、医者、自営業者、技術者、文学通、数学者などが登場する。冤罪によって長期刑に服する者も、反革命の死刑囚もいる。本書のなかで彼らはひとりひとり輝いている。
 楊曦光は、これら獄中の「精霊」たちから人生を学び、知識人から数学・英語・力学などの知識をえるとともに、『資本論』を繰り返し読むなど独学に励んだ。その中で彼の思想は毛沢東思想やマルクス・レーニン主義からはなれ、議会制民主主義に変わった。
 わたしは獄中10年の彼の人間性を支えたのは強烈な向学心だったと思う。かれが獄中で記録したノートは数十冊に及んでいる。

 中国には21世紀の今日でも、政権に異議を申し立てたり、人権を主張したりする人を裁判にかけずに長期に拘留したり、あるいは文革時代の「反革命」と同じ意味の「国家分裂罪」とか「スパイ」などの汚名を着せて投獄することがしばしばある。
 ここでは、今日にも通じる文革当時の実話を紹介してはなしを終わろう。

 当時は、毛沢東の「最高指示」が出るたび、労働者はお祝いのデモをやることになっていた。デモの帰り、「ひげづら」というあだ名の男と「言いなり亭主」という恐妻家が互いに「ひげ面を打倒せよ!」とか、「言いなり亭主を一掃せよ!」とかとふざけあっていた。 
 これを聞きつけた「人民防衛隊長」が「二人とも現行反革命だ」と、この二人に手錠をかけた。二人は冗談を言い合っただけだと弁解したが、隊長さんは聞き入れない。
 「マルクスもエンゲルスも『ひげ面』だ。こいつはマルクスとエンゲルス打倒を叫んだのだ。またお前は毛主席が江青夫人を尊重しているのをあてこすって、『言いなり亭主』すなわち毛主席を一掃せよといったのだ」
 二人は「極悪攻撃罪」に問われて懲役5年の刑となり、隊長は出世した(余川江著『文革笑料集』 邦訳『これが文革の日常だった』徳間書店1989)。

 本書巻末に中国文学の専門家劉燕子氏の非常に要を得た人物論「楊小凱(曦光)の人と学問」と、神奈川大学名誉教授小林一美氏の「重要事項・諸問題解説『毛沢東時代と中国を世界史の中で理解するために』」がある。本書を読む前にまずこの二つの文章を一読するようすすめる。楊曦光を理解するうえできわめて有益である。(2022・01・18)

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