――八ヶ岳山麓から(400)――
次に掲げるのは、中共20回大会における習近平報告日本語訳からの抜粋である。長くて申し訳ないが、ぜひお読みください。
「10年前、改革開放と社会主義現代化建設が大きな成功を収め、……(その)一方で、長期にわたって蓄積され、あるいは新たに表面化した際立つ矛盾や問題を早急に解決しなければならなかった」
「党内には党の指導の堅持に対する認識が甘く、……党の指導の徹底において弱体化・空洞化・希薄化するという問題が多く存在しており、……一部の地方と部門で形式主義・官僚主義・享楽主義・贅沢浪費の風潮は止まず、特権意識を持ち特権を乱用する現象は深刻化し、一部の汚職・腐敗の問題は驚くべきものであった」
「経済の構造的・体制的矛盾が目立ち、発展は不均衡・不調和・持続不可能となり、従来の発展パターンを継続することは難しく、いくつかの体制・仕組上の根深い問題と既得権益の垣根が日に日に表面化した」
「一部の人は……法律があってもそれに則らず、厳しく執行しないなどの問題が多くみられた。拝金主義・享楽主義・極端な利己主義・歴史ニヒリズムなどの誤った思潮が時折現れ、ネット世論は混乱をきわめ、人々の思想や世論の動向に大きな影響を及ぼした」
「民生の保証には多くの脆弱部分が見られ、資源・環境の制約がますます逼迫し、環境汚染などの問題が際立った」
「国家安全保障制度は完全ではなく、さまざまな重大リスクへの対応能力が弱く、国防・軍隊現代化には多くの不足部分や脆弱部分が見られた。『香港・マカオ』は『一国二制度』を実施するための体制・仕組が不十分であった」
上記の文章は、中国共産党一党支配の歪み、弛緩、腐敗など負の部分を率直に語り、問題点を指摘している。
ところがこれは、習近平氏10年統治の反省ではなく、胡錦涛政権(2002~2012)末期、習氏が政権を発足させる直前の中国がおかれた問題状況を語ったものである。ここで習氏は、胡錦涛政治を激しく批判しているが、とんでもない言いぐさである。
というのは、習氏は、2008年3月から党総書記に就くまでの5年間、胡錦涛政権の党書記処副主席・国家副主席であった。だから習報告のこの部分は自分も分担したはずの悪政を語ったことになるのだが、平然と言ってのけたところを見ると、まるで責任を感じていないようだ。
わたしは、習氏が断罪する江沢民・胡錦涛時代に中国にいて、中共統治の負の部分を見てきた。たとえば「……一部の地方と部門で形式主義・官僚主義・享楽主義・贅沢浪費の風潮は止まず、特権意識を持ち特権を乱用する現象は深刻化し、一部の汚職・腐敗の問題は驚くべきものであった」というところ。
わたしが知る限り、田舎の県や州政府など幹部の住宅は豪勢で、学校はぼろぼろ、役人が昼間から官官接待の酒を飲むのは普通だった。
大学は増加した予算を研究に回さず、幹部職員のマンションを建てた。副学長が収賄で逮捕されたし、省幹部が権力ずくでとんでもないのを教師にしようとした。卒業資格も招宴の席をもうければなんとかなった。自動車の運転免許はもちろん、官僚の職位すら売買されていた。
「経済の構造的・体制的矛盾が目立ち、発展は不均衡・不調和・持続不可能となり、従来の発展パターンを継続することは難しく……」というのもその通り。
当時政府は経済成長と治安維持に主力を置き、外資をてこに鉄鋼・自動車、資源・エネルギー、交通運輸分野の発展に力を入れたが、国有企業の改革は徹底しなかった。半面金持ちは大金持ちになり、庶民はつつましい生活をしていた。
北京には巨大なビルの谷間に出稼ぎ農民が住むバラック街があった。彼らは差別されながら低賃金で経済発展を下支えしていた。ちょっとした町にはどこでも物乞い集団がいたし、中西部には昔ながらの貧困と不衛生があった。肺結核は農村にも蔓延していたが、しかるべき対策がなかった。農民がちゃんとした病院・医者にかかるには、びっくりするほど大きな負担をしいられた。
6本脚の豚の仔、3本足のひよこが生まれても、全国あちこちに肝炎や癌が集団発生しても、当局は「環境汚染は経済発展にはつきものだ」としてしらんぷりだった。
そして中国共産党びいきのイギリス人研究者マーティン・ジャック氏すら「中国のジニ係数はアメリカとほとんど同じである。これは社会主義国家というにはいささかふさわしくない代物だ」という状態が生まれたのである(環球時報2022・10・25)。
くりかえすが、この状態に対して元副首席習近平には責任がある。胡錦涛時代をけなしてけろりとしているのは解せない。もう一つ習近平報告にはない問題がある。少数民族問題であるが、これはまた別に議論をしたい。
ところで、胡錦涛の時代には今より多少ともましの部分があった。
習報告には、「……歴史ニヒリズムなどの誤った思潮が時折現れ、ネット世論は混乱をきわめ・・・・・・」というが、逆に言えば、かつては言論の許容範囲が少しばかり存在したのである。
当時はかなり「危ない」主張をすることもできた。民主派も毛沢東派も時にはブログなどで政府批判をやった。実証研究をかかげた雑誌「炎黄春秋」も、事実を報道しようとした新聞「南方周末」もあった。教授が「中国にもマルクスのいう搾取は存在する」と発言しても、いまのように密告即首とはならなかった。
当時も中共の公式革命史を疑う言説は、「歴史ニヒリズム」として否定されていたが、「抗日戦争の主力は中共紅軍ではなく国民党軍だった」という実証的研究が公表されたこともあった。また体制内でも、国営企業の民営化を求める新自由主義派と守旧派のはげしい論争があった。
こうした状況を「好ましい」とみるか「混乱をきわめた」とみるかは立場の違いによる。習近平時代になると「討論」「異論」はきれいさっぱりなくなった。
もともと習近平氏は、江沢民派、胡錦涛派、それに革命第二世代の太子党3者による派閥闘争の妥協によって浮かび上がった人で、それまでめざましい業績があったわけでもなく、支持基盤も弱かったから、中共総書記になったときは、「史上最弱の皇帝」という人もいたくらいだ。
だからだろうか、習氏は最高指導者になる前から、自分の権力基盤を固めるのにいそがしいという印象を受けた。かれは「腕まくりをして物事に取り組み、風雨にも負けずに前へと進み、……偉大な闘争を敢然と進めて」事実上の皇位に登った。
名声人望は毛沢東・鄧小平にはるかに及ばないのに、彼らと同じ皇帝とはどうみても高すぎるのではないか。梯子を外され転落したときの衝撃は、高ければ高いほどみじめになるものである。 (2022・11・01)
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