1965(昭和40)年、熊本県水俣湾で発生した水俣病と同様の症状を訴える患者が、新潟県阿賀野川沿岸地域で多発した。いわゆる新潟水俣病(第二水俣病)である。
熊本水俣病では、前代未聞の病気だったとはいえ、行政の初動が遅く、原因企業が判明してからはそれをかばう側に立ち、患者を苦しめた。一方新潟の行政は、少なくとも原因解明までは患者を慮り、患者側と協働して事件を解明しようとした。むしろ、この事件解明の主役は行政、とくに新潟県であったと言ってよい。
本章では、まず行政側の動きから新潟水俣病事件を振り返り、その後の展開について見ていく。
新潟水俣病の発生と行政の初期対応
特異な症状を持った患者が、原因不明の神経疾患として1964(昭和39)年頃から新潟大学附属病院の脳神経科に入院していた。
東京大学助教授であった椿忠雄が、1965(昭和40)年4月に新潟大学に神経内科教室を開設する準備として、1月に新潟大学神経外科に入院中であったその患者の診察をした際、有機水銀中毒と診断した。その後も次々と同様の患者が診断された。
1965(昭和40)年5月29日、日本神経学会において4例の有機水銀中毒例が報告された。新潟大学椿忠雄・植木幸明教授は31日、新潟県衛生部に「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流沿岸部落に散発」と報告した。
6月2日には、衛生部は阿賀野川流域の水銀農薬の使用状況を調べ、翌日には流域の工場(日本瓦斯化学工業、日本曹達、昭和電工鹿瀬工場)の廃水や廃水場所等の泥を採取し、新潟大学に送付した。
6月12日、両教授と新潟県北野衛生部長が、原因は阿賀野川の魚と推定されると記者会見した。そのときは7名発症、うち2名死亡であった。なお、当時の阿賀野川流域は住民の4割近くが阿賀野川で捕れた魚を日常的に食していた。
16日、県と新潟大学と合同で新潟県(有機)水銀中毒研究本部を設置した。
新潟は、熊本水俣病の知見があったので初動が早かった。公式確認後10ヶ月近くも伝染性の「奇病」として差別されるような悲劇も回避できた。
また、県の産業を支える工場が少なく、稼ぎ頭であった水俣工場に依存していた熊本県とちがって、産業が既に発達していた新潟県では、原因究明を進める主体への産業界からの圧力・妨害が(あったが)水俣と比べた場合、格段に小さかった。
一方、水俣では新日窒工場がすぐに有力汚染源と推定できたが、新潟阿賀野川流域では少なくとも13もの工場から阿賀野川に廃液が流入する可能性があった。そのなかで水銀を使う工場は、日本瓦斯化学工業松浜工場、昭和電工鹿瀬工場、北興化学新潟工場の3つであった。しかしすぐに北興化学の可能性は消え、前者2工場に絞り込まれた。
行政の対応
この公害事件の対応指揮は新潟県衛生課の北野博一部長が取った。北野は、北大医学部を卒業後、戦前に鹿児島のハンセン病療養所「星塚敬愛園」に勤務していた。戦後、厚生省に入省し熊本や鹿児島を含む各県の衛生部長を歴任していた。彼は、研究本部に属しながら指揮官として国立公衆衛生院、新大医学部、その他研究者、被害者団体などと折衝した。
また新潟水俣病では被害者の多くが県都である新潟市の住民だった。新潟市の衛生部部長だった高橋英雄は、すぐに水俣まで出向き、現地の状況や被害を調査し、県の衛生部と共同して対策に取り組んだ。水俣のように県と市とのちぐはぐした状況は生じなかった。
健康調査
水俣では汚染が想定されている範囲での一斉健康調査は現在までも行われていない。
新潟では公式発表後、6月26日までの10日間で、横雲橋(河口から約14km)より下流域の4151世帯、2万1743人を対象に健康調査が実施された。そのうち128名に対し精密検査を実施した。後には、横雲橋より上流域に拡大し、160世帯4万7693人に実施した。(初期に明確な根拠なく、横雲橋下流を被害地域と見立てたことは批判されている。)
検査は、自覚症状の検診、川魚をどのくらい食べているか、家畜状況調査(病死や病気の家畜がいるか)、河川・水路の調査が行われ、それに加え、熊本水俣病で胎児性患者が発見されていることから、妊婦や乳児の毛髪検査も行われた。
また、流域にある病院の入院・外来患者の検診記録も調査し、水俣病に類似した症例の発掘も行った。これらの調査によって、メチル水銀中毒の症状が見られたのは1213名、世帯数で961であった。
汚染魚の流通・消費の防止
当時の阿賀野川には下流から上流にかけて6つの漁協があった。新潟県対策部は6月24日の段階で、8月31日まで、阿賀野川の横雲橋から河口付近までの魚類(海から遡上する魚種も含む)を採捕禁止とした。
ただし熊本県と同様に、食品衛生法は適用しなかった。なのでこの行政指導は強制力を持たなかったが、「販売した場合には食品衛生法第四条違反となる恐れがある」と警告した。
食品衛生法不適用について、後年北野博一は「熊本県のように厚生省に文書で照会したことはない。阿賀野川流域の漁民はほとんど自家用に漁業を営み、販売のためではないので、適用は不可能だと考えた」と証言している。また「汚染源として日本瓦斯化学も考えられたが、立証し得るに至らなかったので実施できなかった」とも述べているが、これは食品衛生法の適用要件を誤っている。(深井純一『水俣病の政治経済学』)
9月1日には一旦「採捕禁止指導を継続しない」通達を出したが、もともと川に生息するニゴイ、ウグイについてまだ水銀の含有が認められたので、食用としないように、とする行政指導に切り替えた。
しかし、翌年4月になって横雲橋より上流の魚からも水銀が検出され、行政指導の対象を阿賀野川一帯とした。
初期段階に、横雲橋より下流を患者が多発したという理由のみで漁獲・摂食制限の対象地域としたことは後に批判されている。
補償・見舞い金
1965(昭和40)年8月7日、新潟県は阿賀野川有機水銀中毒患者と水銀保有者について医療費の公費負担を決めた。
9月には、死亡者に見舞金として10万円を給付。12月には新潟県と市町が被害にあった22世帯に5万円の生業資金を返済不要の貸付を行った。
補償金として成立する額ではないが、公式確認から3ヶ月、原因が特定されていない時点での行政の対応としては熊本県とは雲泥の差があるといえる。
漁業者に対しては行政指導への協力見舞金として5漁協(1918名)に総額50万円が贈与された。また、9月から漁期に入る遡上魚であるサケ・マスへの風評被害の防止のために広告活動を行った。遡上魚は汚染されていないという断定は、汚染発生源が確定されていない段階としては早まった判断と言えるかも知れない。
受胎調節
熊本水俣病では、患者多発地域では当初から脳性小児麻痺様患者も多発していたが、1962(昭和37)年になってようやくそれが胎児性水俣病患者として16人が公式に診定された。母体と胎児とを接続する胎盤は、あらゆる毒物を遮断すると言われていた。ところがメチル水銀の毒性は胎盤が防ぎきれないことがわかった。しかも、母体には重篤な症状をみせずに、胎児にのみ大きな影響を与えることがあることもわかった。これはそれまでの医学の常識を覆す発見でもあったので、センセーショナルに報道された。
のちにこれは、メチル水銀がアミノ酸のひとつであるシステインと結びついた物質が、必須アミノ酸のメチオニンと類似していることから、アミノ酸を運ぶ輸送体として胎盤を通過してしまうことがわかった。
新潟で同様の有機水銀中毒が発生したのはその3年後のことで、記憶に新しかった。公式発表からわずか数日で健康調査が開始された。患者発生地区で妊娠可能な婦人78人の頭髪水銀値を調べた結果、200ppm 以上が11人、100-199ppm が11人、50-99ppm が18人、50ppm 以下が38人であった。この結果をもとに県は7月23日「胎児性水俣病に対する対策」を公表し「避妊指導」を行った。
7月28日に県本部は、胎児性水俣病の予防と早期発見を目的とし、16〜49歳の女性で川魚の摂食者や妊娠可能な婦人、乳児、妊産婦(約6,500人)を対象に本格的な毛髪水銀調査を実施した。
そこで、毛髪水銀保有量が200ppm以上を「水銀保有者」とし(そのしきい値に明確な科学的根拠はなかった)、無症状の者は入院治療させ、それ以下の妊娠可能な婦人は希望により治療するとした。治療とはキレート剤(鉛・水銀・銅などの重金属と化合物を作って排出を促す)を服用させることであった。また乳児には母乳から人工栄養に切り替える対応がとられた。
この緊急かつ大規模な処置に対して、マスコミも「胎児に障害の恐れ」、「妊娠しないように指導」と報じ、住民の不安をあおった。それらは妊娠可能な婦人・妊産婦・乳児を抱える母親、それらを抱える家庭に、ある種のパニックを招いた。特に「水銀保有者」とされた婦人らは、お腹の赤ん坊、生まれた赤ん坊は大丈夫か、これから妊娠すると子どもに障がいが起こるのではないか、と恐怖と不安に苛まれた。
そして、これらの措置は「妊娠規制」あるいは「堕胎奨励」として、あるいは「堕胎強制」として受け取られた。さらには不安から出産後に不妊手術(卵管結紮)を受けた女性もいた。本人がそう思わなくても、夫や姑など家族の意向も働いた。姑に妊娠(性行為)を禁じられた嫁もいた。地方農村部で嫁いだ「家」で、障害児を生むかもしれないという不安は、当人たちを苦しめた。
結果として、新潟水俣病においては正式に胎児性水俣病として認定されているのは1名である。これは「1名しか出さなかった」として、行政の初期対応の成果として肯定的に評価されていた。しかし後に始まる訴訟において妊娠規制を受けた女性たちは損害賠償請求を行い、6名に妊娠規制にたいする慰謝料が支払われた。表に出たその6人の背後には他にも多くの女性たちの心身に大きな傷を残したことが想像される。1948(昭和23)年に制定された優生保護法がまだ効力を持っている時代であり、世の中がその法律に大きな疑いを向け、改正されるのは1996(平成8)年を待たなくてはならない。
汚染源の究明と妨害
行政や医療関係者のとった、被害の拡大防止や被害者への初期対策は(いくつかの禍根を残したものの)水俣とは比べものにならないほど迅速で、落ち度が少なかった。
阿賀野川沿岸にあって水銀を使用している工場は、河口右岸にある日本瓦斯化学工業と上流にある昭和電工鹿瀬工場だったが、日本瓦斯化学工業は海に排水をしていたため、ほどなく後者に絞られた。しかし、その先が大変だった。なぜなら昭和電工はアセトアルデヒド製造設備を1965(昭和40)年1月、極秘に操業停止し、完全解体し廃棄。さらに設計図、操業マニュアル、関連するフローシート、操業日誌などありとあらゆる関連文書を、文字通り跡形なく廃棄していたからである。
そして、熊本水俣病と同様に学者が横槍を入れてきた。横浜国立大学教授で同大学に安全工学科を創設し、安全工学協会(現・安全工学会)を設立した北川徹三が「農薬犯人説」を流してきたのである。
1964(昭和39)年6月、新潟でM7.5の大地震があった。そのとき新潟港埠頭倉庫が破損し、農薬保管庫が浸水したことがあった。北川は、満潮時に河水の底部を上流に遡る現象(塩水くさび)によって下流部一帯が汚染されたことが原因だという説を発表した。
また、偶然水銀農薬を生産している企業「北興化学」の空き瓶が阿賀野川河口河岸に大量に投棄されているのが発見された。ほどなくこれは付近の農家が投棄したことが判明するが、農薬説に世間は振り回された。
しかし県衛生部は、阿賀野川中流で水銀に汚染されたウナギが発見されてから、汚染源を上流部と推定していた。昭和電工鹿瀬工場と、阿賀野川の上流の支流には水銀鉱山の廃鉱があった。しかし鹿瀬町周辺の昭和電工の社宅に居住している家族に健康診断の受診を依頼したところ昭和電工が拒否したことで、昭和電工鹿瀬工場に狙いを定めたという。
そして鹿瀬工場の阿賀野川への排水管に潜り込み、その管壁に生えていた水苔や流出口付近の阿賀野川の岸辺や川底からも水生植物を集めて、新大医学部の滝沢行雄の研究室に届けたところ、メチル水銀化合物の検出に成功した。そうしてようやく阿賀野川と鹿瀬工場とをつなぐパズルの最後のピースが見つかったのだった。
そのような地道な現地調査(捜査)を続け、「容疑者」をあぶり出すことに成功したのは新潟県職員だった。ごく初期に注意喚起した水産課係長の三好礼治以外、新日窒や熊本の産業界を庇うことに奔走していた熊本県とは対極をなしていた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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