――八ヶ岳山麓から(523)――
常識の無視
5月12日、アメリカのトランプ大統領は「米中の双方が関税を115%引き下げることで合意した」と発表した。「今週末に習近平主席と会談するつもりだ」という。あの145%,125%という相互に掛け合った高関税はいったい何だったのか。高関税が資源配分に歪みをもたらし、景気後退を招く恐れがあることは経済学の常識である。まもなくアメリカの国民は物価の高騰に悩まされるだろう。
経済産業研究所の森川正之氏は、アメリカはノーベル経済学賞受賞者を多数輩出している経済学の中心であり、貿易政策や不確実性の理論・実証研究の多くは米国の経済学者によるものだ。それなのに、なぜ経済学の知見が現実の政策に反映されないのかと問い、米国の経済学者が国内から強く声を上げ、トランプ貿易政策の再考を強く促すことを期待するという(森川RIETI2025/4/3 )。だが、期待は一顧だにされないだろう。学者の正当な見解を受入れるような政権ならば、こんなでたらめな関税政策を打ち出すはずがないからだ。
第二次大戦後、時の経過とともに、アメリカの製造業はリカードの比較生産費説通りに海外に移転した。いまや、アメリカの製造業はGDPの1割に過ぎないといわれる。だがアメリカはITや金融業が高い競争力を持ち、知的財産権収支尻ひとつを見ても870億米ドル(2023年)の黒字というとびぬけた高額を誇っている。にもかかわらず、トランプ大統領は高関税を世界に押し付け、2国間交渉に持ち込んで弱者を脅迫して屈服させようとしているのである。
19世紀的な対外膨張
トランプは大統領に就任する前の昨年末、デンマーク自治領のグリーンランドと、パナマのパナマ運河の管理権をアメリカが獲得するよう望んでいる、と表明、「それらが経済的安全保障のために必要だから」と述べた。
デンマークのフレデリクセン首相は「グリーンランドは売り物ではない」とするグリーンランド自治政府の主張に同意し、「グリーンランドはグリーンランドの人々のもの」であり、彼らの将来を決められるのは地元住民だけだと述べた。グリーンランドにはレアアース(希土類)がある。そのうえ、大規模なアメリカの宇宙軍基地があり、アメリカから欧州各国への最短ルートで、アメリカにとっては戦略的に重要な場所である。
トランプ大統領は、パナマ運河については、「我が国にとって不可欠」なパナマ運河が「中国に運営されている」と主張した。「(カーター大統領のとき)パナマ運河をパナマに与えたことは、非常に大きな間違いだった」とも言った。いま、パナマ運河は香港を拠点とする会社が運河の出入り口二つの港を管理している。
トランプ大統領はカナダは(アメリカの)1州であるべきだ」とも語った。アメリカはカナダを保護するために何十億ドルも費やしているとし、カナダからの自動車や木材、乳製品の輸入について批判した。当時のカナダのトルドー首相は「カナダとアメリカが合併する可能性はないに等しい」と怒った。さらに、メキシコ湾を「アメリカ湾」に名称変更することを提案し、メキシコの大統領にたしなめられ、これに同意しない通信社のホワイトハウス内での取材を制限した。
アメリカ大統領制の危機
トランプ大統領は2期目に就任するや、4年前連邦議会襲撃を煽ったことに対する自分への起訴を取り下げさせ、その事件の受刑者と被告に対する恩赦を強行した。さらに彼の乱暴な政策を差し止める州裁判所の命令を無視し、それを判決した判事を弾劾している。大統領一期目には連邦裁判所の判事任命に当って、好みの判事を任命して裁判官の多数を保守派で固め、2期目に入ると大統領在任中の公的行為は刑事訴追されないという特権を認めさせた。
アメリカの大統領制は、行政権をもつ大統領と立法権を持つ議会の代表を国民が直接選び、相互に抑制し均衡しあう仕組みであり、議院内閣制に比べて徹底した権力分立制が採用され、権力の集中が抑制された仕組みであった。
ところが上下両院の多数を占める共和党は、トランプ大統領の下僕と化して党内にも彼にたてつく者はおらず、内閣はトランプ追随者だけで固めた。かくしてトランプ大統領は法を無視しても誰からも咎められない存在となった。
トランプ大統領は、バイデン政権の進めた多様性・公平性・包括性(DEI)を敵視し、性的マイノリティを敵視し、人権を無視してアメリカの底辺労働を担う移住者を強制送還し、軍では女性差別・人種差別的人事を行い、イスラエルによるガザの蛮行を非難するものを反ユダヤ主義と断定し外国人留学生を強制的に送還し、ハーバード大学などトランプ大統領の気に入らない大学を敵視して国家補助金を削減するとした。
こうしてみると、すでにアメリカは専制主義体制にあり、三権分立制は有名無実に等しい。彼トランプ大統領は事実上の君主ではないか。
日本の現状
トランプ大統領は「日米安保条約ではアメリカは日本を守るが、日本はアメリカを守る義務がないのはけしからん」といい、そのうえ「在日米軍の駐留経費を日本はもっと負担せよ」という。トランプ大統領は認めようとはしないが、日本は日米地位協定によって、米軍が必要とする場所に必要な規模の国土を提供し、思いやり予算と称する米軍駐留経費も負担している。日本人の多くは、第二次大戦に敗北してからアメリカの下で経済を復興させ、民主主義政治がおこなわれたと思っているが、日本は米軍になかば占領された屈辱的状態を続けてきたのである。
日本は、1980年代からの自動車輸出の自主規制、日米半導体協定、「失われた10年から失われた30年」へと続く経済低迷の起点となったプラザ合意の円高誘導など、貿易交渉のたびアメリカに譲歩してきた。日本は対米貿易では黒字だが、貿易全体ではガスと石油、食料品の輸入を中心に長年赤字である。加えてアベノミクスの結果、産業の衰退がすすみ、実質賃金は一貫して下落し正規雇用者以上に非正規雇用者が増加し、円安インフレを招き、自動車製造のほかめぼしい産業がなくなった。
アメリカからの自立を
トランプ政権はNATOの財政負担を減らし欧州各国に対して「負担増」を要求し、さらに貿易不均衡への不満をあらわにしている。これに対してEUはトランプ大統領のウクライナ戦争への対応を警戒し、プーチン大統領のロシアに対抗するために自主的防衛力強化に踏み切り、ドイツは徴兵制の復活を議論し始めたという。欧州はみずからの針路を模索しているのである。
日本も、当面の関税交渉では、アメリカのご機嫌をうかがわないわけにはいかないとしても、次の世代の将来を考えるべき時が来た。日本人の多くは日米安全保障条約を疑わないし、歴代政権はアメリカとの同盟関係の強化を外交の第一課題としてきた。だが、トランプ政権はアメリカが日本の安全保障にとってあてにならない存在であることを示している。たとえば、かれらが尖閣諸島に日米安保条約第5条を適用して日本のためにアメリカ青年の血を流すと考えることができるだろうか。
日米安保条約と地位協定の不確実性は高まっている。数年の時間はかかるとしても、自前の安全保障の確立と軍事的中立をめざす国民的討論を起こすときだ。同時に教育の無償化や基礎研究援助の重視、科学技術政策の適正化によって産業の復興をめざさなくてはならない。そういう時代がやってきたとわたしは思う。(2025・05・11)
初出:「リベラル21」2025.5.16より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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