
ハーバード大学行政大学院ケネディ・スクールの学長を長く務め、日米関係では「ナイ=アーミテージ・レポート」で知られました。ケネディ・スクールには、世界中から多くの政治家や外交官志望の若者たちが集い、クリントン政権時には国防次官補をつとめ、ナイの存在そのものが、彼の理論とともに、ヘゲモニーを可能にするソフトパワーでした。21世紀の開始にあたって、私が19世紀機動戦・20世紀陣地戦に続く21世紀情報戦論を唱えたのも、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論とナイ教授のソフトパワー論を、接合したものでした。
● トランプ2.0内閣の登場と、ナイ教授の喪失に合わせたかのように、アメリカにおける「知の大脱走=エクソダス」が始まりました。ソ連・東欧現存社会主義に対抗し崩壊させた、20世紀アメリカの「多様性 (Diversity)、公平性 (Equity)、包括性 (Inclusion)」のソフトパワー は、いったいどこに向かうのでしょうか? トランプによるDEI攻撃の象徴として、ハーバード大学が政府予算と助成金・契約をばっさり削られたほか、アメリカ全土で留学生や研究者のビザがストップされそうです。大学に留学生名簿の提出を求め、そのSNSでの発言をチェックし、イスラエル・パレスチナ戦争での「反ユダヤ主義」及びトランプ政権への態度を調べると公言しています。中国からの留学生については、中国共産党との関係や専攻領域・研究テーマもチェックするといいます。ちょうどアメリカの大学の卒業期で、9月からの新学期に向けて、新規の留学希望者の手続きがストップしてSNSの検閲が語られ、75%ともいうアメリカからの脱走を希望する外国人研究者・留学生を、カナダやヨーロッパ、オーストラリア・ニュージーランドや香港・シンガポール・日本などの大学・研究機関が、受入の意向を表明しています。研究資金の潤沢なもう一つの大国・中国もありますが、言論・思想の自由は大いに疑問です。世界の知的星座の布置状況(コンステレーション)は、様変わりするのでしょうか。
● トランプの強権的横暴は、大学だけではありません。就任時の停戦公約からどんどん離れる、ウクライナと中東の戦争の放置、世界貿易を揺るがす保護貿易・関税の終わりのない混乱を作り出しています。米国議会は、上下院とも共和党が多数のトランプ与党ですが、それでも国内経済の悪化や官公庁の乱暴な縮小・定員削減には、共和党員でも賛同しない議員が出てきます。

なによりも、大統領・議会とならぶ各級裁判所が、トランプの思惑通りの政策遂行に、ブレーキをかけています。ただし、連邦最高裁は、第一期トランプ政権時に保守派を多数にしてきましたから、アメリカ政治の魂というべき立法・行政・司法の権力分立も、トランプ独裁への防壁になり得るかどうか、予断を許しません。日米交渉の主導権もトランプで、どうやら、対中強硬政策・国家安全保障の名目での軍事費増大と結びつきそうです。
● 世論調査では、石破内閣支持率は20パーセントの危険水域に。そこに、米価の政治ゲームで小泉進次郎農相が参入し、与野党の境界を、かき回しています。主食の前年比二倍の物価高で、国民生活の根幹が揺らいでいます。コメを買えない88%の一人親家庭や老人孤独死も増えています。与党の政治資金改革棚上げや、立憲民主党との大連立風年金改革、野党の参院選向けパフォーマンスで足並みが乱れ決められない選択的夫婦別姓、トランプ関税の行方や国防費増要求でがらりと環境条件の変わる世界史的激動のまっただ中で、片隅の国の貧しい政治は、まもなく東京都議選・参院選です。トランプは、プーチンや習近平に似た政敵粛清を進めようとしています。しかしアメリカ国民の中には、まだナイのソフトパワーを信じるに足る抵抗があります。それに比すれば、日本は、残念ながら無力・無抵抗です。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
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