ーー八ヶ岳山麓から(530)ーー
7月3日、「ダラムサラ・共同」が伝えるところによると、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(89)は2日、自身の死後生まれ変わりをさがす「輪廻転生制度」を継続するとの声明を発表した。
声明は中国を念頭に、次のダライ・ラマを認定する権限はガンデン・ポタン(ダライ・ラマ亡命政府)信託財団のみで、「他の誰もこの問題に干渉する権限はない」「同財団がこれまでの伝統に従い、生まれ変わった者の捜索・認定を実行する必要がある」と主張し、「伝統に従って(生まれ変わりの)捜索と承認の手続きをするべきだ」としている。
中国外交部(外務省)はこれに直ちに反発し、毛寧報道官は2日の記者会見で、「ダライ・ラマなどの転生については、中央政府の承認を得る必要がある」と述べ、「国家の法令に従って行わなければならない」と強調した。 その上で、毛寧報道官は「どの宗教も存続・発展するためには、国家の社会環境や文化伝統に適応する必要がある」として、決定権は中国政府にあるとの考えを示した。
ご存じの通り、ダライ・ラマ14世はチベット仏教の最高指導者というだけでなく、1959年まではラサを首都とするチベットの国王でもあった。1950年代後半は中国政府に対する民衆反乱がチベット人地域のいたるところに起き、中国軍はこれを徹底的に鎮圧した。ダライ・ラマ政府はやむなくヒマラヤを越えてインドに亡命したが、当時ダライ・ラマに従ってヒマラヤを越えたチベット人は10数万といわれた。現在インド北部ヒマチャル・プラデシ州ダラムサラとラダク、またデカン高原にもチベット人の居住地がある。
ダライ・ラマ声明より先、6月27日朝日新聞の「天声人語」は、ゲンドゥン・チューキ・ニマの悲劇をとりあげた。ゲンドゥン・チューキ・ニマは1989年生れ、6歳のとき歴代パンチェン・ラマが寺主であったタシルンプ寺総長からチベット仏教第二の地位にあるパンチェン・ラマ10世の生まれ変わり、すなわち11世と認定された。ところがその3日後両親とともに行方不明になり、今に至るも所在は明らかではない。
彼は当時の中国政府も認めた手続きで選出されたものだったが、ダラムサラのダライ・ラマ亡命政府の発表が中国政府の公式発表よりも早かったため、タシルンポ寺総長が秘密裏にダライ・ラマ亡命政府と密接な連絡を取りあって選出手続きをしたことが明らかとなった。これに江沢民主席が激怒して、ただちにタシルンポ寺関係者を逮捕投獄し、別の少年を選ばせ、これをパンチェン・ラマ11世と認定した。
ところが、チベット人は表向きはともかく、中国政府認定のパンチェン・ラマを真の11世とは認めず、礼拝はもちろん敬意も払わない。中国政府のパンチェン・ラマ11世が10世生誕の地青海省循化のウィムト・ゴンパ(温都寺)を訪れた時は、地元政府は体裁を整えるために地元民を動員し、日当を出して参拝者を集めるという手段を取らなければならなかった。
「天声人語」は、2人の少年の運命を「人間の自由がいとも軽く扱われ、人生が翻弄される。なんと不条理なことか」と嘆いたのち、「来月には、ダライ・ラマ14世の90歳の誕生日が来る。……今度は『2人のダライ・ラマ』といった問題が生じるのだろうか」と嘆いている。
活仏の「輪廻転生制度」はチベット仏教特有の制度である。現在もチベット人地域の大小の寺院の住職はたいてい活仏を称している。このためか、チベット仏教はインド仏教がチベットの土俗宗教とまじりあったものだという人がいるが、これはとんでもない間違いで、日本と同じ北伝(いわゆる大乗)仏教である。
もちろん、彼らも北伝仏教の経典を読む。たとえば般若心経では最後のサンスクリット文の賛は、わたしたちは「ぎゃてー、ぎゃてー、はーらーぎゃてー、はらそうぎゃてー、ぼーじーそわかー」と唱えるが、チベット人地域でのわたしの聞取りでは、「ガッテ、ガッテ、ワーラーガテー、ワラサンガテー、ボーディヤソワー」のようであった。
しかし、同じ仏教とはいえ、どこのどんな宗派でもチベットのほかに生身の人間を現実の世界で高僧の生まれ代わりとして特定することはない。これは14世紀ごろチベット仏教のカギュ・カルマ派によってはじめられたという。おそらくは民衆の崇拝対象をつくりあげ、宗派勢力を拡大しようとしたのであろう。
ダライ・ラマはチベット仏教の最大宗派であるゲールク派の長とされてきたが、その宗祖である仏教改革者ツォンカパ(1357~1419)が没したときはまだ転生者探しはなかった。ツォンカパの系統からすると弟子3代目のソナム・ギャンツォがはじめてダライ・ラマとして登場したのである。この人はチベット人地域の宗派争いをおさめた高僧で、モンゴルに布教に赴く途中、青海チャブチャの地でモンゴルの覇者トゥメト・モンゴルのアルタン・ハン(1507~81)と会ってこれを教化し、アルタン・ハンから「ダライ・ラマ」の尊称を贈られた。これがダライ・ラマの始まりである。
ダライはモンゴル語で「大いなる」、ラマはチベット語で「尊師」の意味である。ツォンカパの直弟子ゲンドゥン・トゥプパはダライ・ラマ1世、孫弟子のゲンドゥン・ギャンツォは2世とされ、ソナム・ギャンツォは3世とされたが、これはあとから認定したものである(ちなみに青海方面ではダライ・ラマを「ジャワ・リンポチェ」という)。
ダライ・ラマがゲールク派の総帥というだけでなく、全チベットの国王としての地位に登ったのは1642年5世のときで、ゲールク派と同盟したホシュト・モンゴルのグシ・ハンがチベット高原を制圧し、その軍事力によって5世は政治権力をかち得たのである。
その後、ダライ・ラマの転生者を選ぶにあたって、チベットの寺院や貴族間に権力争いが起こり、数代にわたって若いダライ・ラマが不自然な死に方をしたり賄賂が横行したりした。清帝国は康熙帝のころから秩序の乱れを理由に駐蔵大臣を置くなどしてチベットの内政に露骨に干渉するようになった。
中国外交部の毛寧報道官は、ダライ・ラマ14世の生まれ変わりは中国の法律や規制、「宗教儀式や歴史的慣習」に従わなくてはならず、中国政府の承認が必要だと述べたが、これはまんざら根拠のないことではない。歴代のダライ・ラマ選出に清朝の定めた方法によった例があったからである。
ダライ・ラマは、後継者選出については「輪廻転生制度をやめる」「ダライ・ラマは自分で終りにしたい」と発言したこともあったが、亡命政府やインド在住のチベット人など周辺に押されてこの制度を存続することにしたのだろう。だが21世紀の今日、信仰上のこととはいえ、「転生者」を存在させることが仏教とチベット人社会にとってプラスに働くだろうか。まして伝統的方法による選出となれば、「うらない」や「祈祷」「くじ引き」によるが、それが妥当な方法だろうか。時代にふさわしい方法を求めるべきではないか。
同じことは中国にも言える。かつて唯物論を標榜する中国共産党が「輪廻転生」の論理を認めて自前のパンチェン・ラマ11世を選んだのはいかにも滑稽であった。ダライ・ラマ15世選出に当たってもそうするつもりなら、いよいよおかしなことをくりかえすことになるが、それでよいのだろうか。(2025・07・04)
初出:「リベラル21」2025.7.09より許可を得て転載
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