9月半ばになってやっとこの本の残りの巻を借りることができた。それも文庫本ではなく、平凡社版の「中国古典文学大系」の中の『金瓶梅』下巻であるが、幸いにして翻訳者は岩波文庫と同じ方々であるので、この大作の半分までを文庫で読んだ私にとって、全く抵抗なしに読めるのがよい。
ただ、先にも書いたが、いかんせんこの書は大変な分量の代物である。おいそれと手軽に読破できるものではない。
いずれにせよ、今回でこの感想文を締め括りたいので、大急ぎで読み上げ、括りとして趣向を変えて、この書物の中のこれはという部分を紹介させていただき、せっかくこの拙い感想文に目をとめてくださった方々へのせめてものサービスと、併せてこの大著への誘いをさせていただこうと思う。
西門慶がバイアグラ(房術の薬)を手に入れること
西門はあるとき、廟(=寺)で大勢の僧侶が読経している場面に遭遇する。その中にどうしても気になる一人の異様な形相をした、みすぼらしい身なりの修行僧を認める。そして彼を自分の私邸に招き、酒肴を出して待遇する。この坊主は酒も生臭もなんでもOKのとんでもない破壊僧である。この破壊僧が西門に授けたのが、かの「房術の秘薬」である。―岩波文庫第5巻第49回からその一部を引用する。
「…梵僧はそういうと搭運(ふくろ)の中から瓢箪を取り出し、百何十粒ばかりを傾けて、『これは一回に一粒だけ、多くはいけません。焼酎と一緒に呑み込んでくだされ』と申し渡しました。そして別の瓢箪からは、重さ二銭のとき色の膏薬をひとかたまり取り出して、『一回に二厘だけ用いて、それ以上用いてはなりません。もしひどくふくれあがった節は、手で両方の股を押さえて、百何十ぺんほどひっぱたいてくだされ。そうすれば、よくなるから。まあ、なるべく節約して、軽々しく人に洩らしてはなりませんぞ』西門慶は両手でそれを受け取って、『では、ちょっとおたずねいたしますが、この薬にはどんな効能があるんで』すると梵僧、『…この薬を掌中に托すれば、飄然として身は洞房に入る。洞中に春は老いず、物外の景は長え(とこしえ)に芳しく、玉山に頽敗なく、丹田に夜光あり、一戦して精神は爽やか、再戦して気血は剛し、嬌艶の寵、十二美紅の妝(そう)に拘わらず、交接わが好むところに従い、夜を徹して硬きこと槍の如し。服すること久しければ脾胃を寛にし、腎を滋し(うるおし)又陽を扶く(たすく)。百日にして鬚髪は黒く、千朝にして体自ら強。歯を固くし、能く目を明らかにして、陽生ずれば姤(まじわり)はじめて蔵す。君もし信ぜざれば、飯に混ぜて猫に食わせよ。三日にして淫に度なく、四日にして熱は当たり難く、白猫を変じて黒となり、尿糞はともに停亡し、夏月は風に当たって臥し、冬天は水裡に蔵れん。もしなお解泄せざらんか、毛は脱け尽くしてつるつるとならん。一厘半を服する毎に、陽は興りて愈々強健、一夜に十女と歇(やす)むも、其精永えに傷(そこな)われず、老婦は眉をしかめ、淫娼は当たるべからず。時ありて心に倦怠をおぼえなば、兵を収めて戦場を罷り、冷水を飲むこと一口にして、陽は回り精は傷われず、快美にして終宵楽しく、青色は蘭房に満つ。知音の客に贈与す。永えに保身の方となしたまえ』…『余計に用いてはいけませんぞ。くれぐれもつつしむように』…。」
もちろん、こういう閨房の秘薬を手に入れた西門は、早速その威力を試してみたくなる。そして旧に倍して好色の途に励むのである。その結果は、「好事魔多し」の譬えのごとく、ついには彼の命取りになる。西門慶にとって、その絶頂が、すなわちその命運の終焉に他ならない。
しかしこの話は今しばらく留保させていただき、その前にいくつかの興味深い話をご紹介しておきたい。
昔話「桃太郎」―マリアの「処女懐胎」とこの書の関連如何?
次のような話が第39回に出てくる。仏教説話という形での尼僧の講話である。
それは、潘金蓮の誕生祝を兼ねて妻妾たちと娘(西門慶の先妻の娘)とで、寺院から師父や王尼を呼んで説教(講話)を聞く場面でのことである。
この講話の中に、マリアの「処女懐胎」と「桃太郎」を彷彿させる話が出てくる。
一人の女(千金小姐)が洗濯をしていると一人の僧が来て部屋を借りたいという。彼女は返事をすることを禁じられていたのにうっかり返事をしてしまう。そのせいかどうか、その老人は川に飛び込む。すると大きな桃が流れてきた。女は思わずそれを食べてしまう。その結果彼女は妊娠し、男の子を出産する。その「桃」を父として生まれた男の子は、桃太郎ならぬ、実はかつて遊び人だった呉員外という男(その後出家して、修行を重ね解脱した=五祖)の生まれ変わりであり、やがて彼(その生まれた「桃太郎」)も修行して解脱するという話である。なんだか『新約聖書』のイエス伝と「桃太郎」のミックスされた話(パロディ)のように思える。そして実際に、イエス伝との類似から言えは、以下に見るように五祖は古仏の化身なのだ。
「五祖が胎児となって母親の腹の中にはいったのは、衆生を済度しようためでありまして、娑婆の男女が魂を入れ替えないと、古仏が下界して凡俗の姿になり替わり、胎を借りて殻を出、やがて久しいのちに母親を天宮へと連れてゆくのでございます。」
今日のわれわれの目からは、滑稽本『新約聖書』のように思えるのではないだろうか。実際に、『新約聖書』の物語は、少なくともキリスト教会が出来上がった3世紀ごろまでには完成していたと推察される。それが中国に伝播したということは大いにありうるだろう。また、民話の「桃太郎」は室町時代からの伝承といわれるから、そこに日本の南北朝時代から室町時代初期に対応する時代の創作といわれるこの『金瓶梅』の影響を考えることはそれほど無理とは思えない。何はともあれ、非常に興味深い。
ベルトルト・ブレヒトなみの諧謔―宗教・社会批判
しかし、私自身の興味は、むしろ次のような強烈な風刺にある。
「さて皆さん、お聞きください。そもそもこんな坊主・尼・周旋婆といった輩をご大家に推薦してはなりません。この連中ときたら、奥深い屋敷に入り込んで、御婦人方を相手に地獄・極楽の話をするとか、お経の講釈をするなどと称して、陰でこっそり人を釣り、どんなことだってやりかねない。十中八九までがこの連中のためにとんだ災難にあっているのです。その証拠に、―
とかく坊主は言語道断
奥の座敷で女をだます
こいつが仏道成就すりゃ
西方浄土は真暗闇 」 (4巻p.315)
また、次のようにも皮肉る。
「皆さん、お聞きください。この尼や坊主などという輩をゆめゆめ相手にするものではありません。顔は尼僧の顔でも、心はあばずれと同じで、六根は未だ浄からず、本性は明を欠き、戒行は全く無く、廉恥すでに喪われ、うわべは慈悲を第一としているけれども、ひたすら利欲を貪り、悪因縁も輪廻も一切おかまいなく、ひたすら目先の快楽を追い、貧家の物思う娘をだまし、冨家の多情な妻を口説き、前門に施主檀那を迎えて、後門に赤ん坊を捨て、あいびきをする。」(下巻第68回p.5)
更に、…
「皆さん、お聞きください。およそ人たるもの、かわいい息子や娘を寺や廟にやって出家させ、僧侶や道士にしようなどと、ゆめ思ってはなりません。女の子が尼などになると、みんな男は泥棒、女は娼妓とののしられるようになってしまいます。十中八九がすべてこの轍を踏むのです。
お宮お寺はなにするものか
天や仏を説くべきものを
花を作って清さをてらい
お客もてなしうわべを飾る
きれいな服着て名だけは弟子も
酒よお茶よで女をたらす
かわいい子供に出家をさせりゃ
いずれ師匠の女房でおわる 」 (下巻第84回p.283)
このイロニーは単に宗教にのみ向けられているわけではない。現世の栄耀栄華に対しても次のように痛烈な風刺・批判をやってのける。
「古今思えば感無量
貴賎ともども死ねば土
漢武の玉堂(いえ)にも人はなく
石家の金谷(いえ)にも水ばかり
朝が始まりゃ夜が来る
草木も春から秋になる
けれど遊びはまだ続く
しばらくお入り陶酔郷に」 (5巻p.58)
この強烈な滑稽化・風刺はブレヒトかシェイクスピアにつながる。宗教的な慰めやこの世での権勢、富貴、快楽などを全く冷やかに眺めている。中国的と思えるのは、背景に老荘思想―道教とは区別ーの虚無(例えば「胡蝶の夢」のようなこの世の存在は所詮は一時的な仮象=虚飾にすぎないものだ)があるのを感じるからだ。そしてこの書物全体がそういう思想で貫かれているように思う。
社会批判は、この書物全般にわたり様々な領域にわたって行われる。西門慶の強引な色情の発露は、時代の道徳性の欠如を示す。賄賂や縁故でどうにでもなる裁判、地位も名誉も金次第の乱脈政治がやり玉に挙げられる。愛情も信義もすべて廃れていて、金力と権力の喪失は、たちまちそれらが虚栄だったことを昭示する。こういう社会では、愛情や友情、義理、人情を持ち続けることの方が稀有なのだ。ここに『水滸伝』と通底する社会的信義に則った反乱=革命への憧憬が感じ取られるのである。
西門慶の死と西門一家の内部崩壊の顛末
いよいよこの感想文の終結段階に来たようだ。あえて筋立ての詳細な紹介を省いたのは、皆様方が直接この大作に当たる楽しみを奪ってはならないと思うからだ。この書を色事ばかり描いた好色ものだとみなす人にとっては、そういう読み方もありうるから存分に楽しんでもらえればよい。事実、この本の中では、あらゆる身分、あらゆる職業についている人間が、隙あらば他人の妻や娘などを誘惑して秘かな情事を楽しもうと虎視眈々と狙っている心理状況が克明に抉られている。西門慶はその象徴であるに過ぎない。実際には、この社会全般がかかる淫靡な性格によって形成されている腐敗社会である(その背景には抑圧された「身分社会」がある)という事実の暴露こそが、この作者の主眼であると私には思える。その点で、この作品はまぎれもなく今日の社会批判になりうる名作の一つと言いうる。
さてそこで、西門慶の末期である。おおよその方にはすでにある程度の予測がついていることと思うが、もちろんバイアグラ(房術の秘薬)の多量の服用がその直接の引き金である。彼が日ごろの不摂生な生活により、すでに深刻な生活習慣病を患っていたことも伏線として触れられてはいる。しかしながら、どこまでも好き者の西門は、それにもかかわらず次々に新たな獲物(女性)を狙って精を出すのである。その詳述は省く。ここでは西門の哀れな(いや幸せだったかもしれない?)死に際の最後の活躍部分を軽く素描してすませたい。
第79回にその場面が出てくる。その日、彼は王六児(韓道国の妻)との浮気を散々楽しんでから帰宅し、潘金蓮の部屋に行く。深酒をしてすっかり酩酊して眠りこけるが、金蓮の欲望はおさまらない。彼女は例の秘薬を探し当て、丸薬が4個残っていたうちの一粒を自分が飲み、残りの三粒を西門に飲ませる。そして一晩中大活躍を演じるのであるが、その結果…
「はじめはまだ純液であったものが、後にはすっかり血水となって流れ出し、とめどもありません。…すでに精は尽き果ててあとは血となり、血も尽きてただの冷気となり、それもしばらくすると止まってしまいました。…皆さん、お聞きください、一己の精神に限りあり、天下の色欲に限りなし、とか申しております。また、嗜欲深き者はその生機浅し、とも申します。西門慶はただ淫を貪り色を楽しむことを知るのみで、油枯れなば燈尽き、髄竭きなば人滅ぶの裡をつゆ知りません。いったい、この女色のとりこになった場合は、かならず失敗を招くもので、…。」(下巻p.227)
眩暈でほとんど人事不省になった西門、もちろん潘金蓮はそんないきさつなどはおくびにも出さない。また多量に服用させたということを当人にすら教えない。あわれ西門は、そのまま床に伏しあの世へと旅立って行く。
彼の死後は、一家はバラバラ、潘金蓮はさっそく娘婿と浮気をするし、元廓の芸妓だった第二夫人の李嬌児は、廓の芸妓たちと図って、金目のものを盗んだ挙句、元の廓に帰っていく。店の番頭は、大金をかすめ取って遁ずらする。小者たちさえも、てんでに出て行ったり、あるいは他所へ売られていったりする有様である。一番の友人を気取っていた応伯爵はたちまち化けの皮を剥いで、一家を食い物にする。
そしていよいよ潘金蓮の番である。彼女が西門と示し合わせて毒殺した先夫・武大の弟の豪勇武松が恩赦を得て帰ってくる。武松は何としても兄の敵討ちがしたい。そして、ついには金蓮と彼女を手引きして兄殺しをさせた隣家の王婆をめった切りにして殺してしまい、そのまま梁山泊へと逃亡するという結末である。これは最初から十分予測された筋書きだ。
作者は、一応この武松の残酷さを非難し、それに対して憤ってみせる。
人はひょっとしてここで『新約聖書』の中の「ローマ人への手紙」にある『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』を思い出し、この作者とともに武松のあまりの乱暴狼藉を攻めるかもしれない。つまり、神の復讐に任せよ、という訳である。しかし、その点で私には異論がある。イエス・キリストは神によって遣わされたいわば「代理人」である。天上の神は自ら手を下せないがゆえにキリストを遣わしたのである。この意味では武松は天に代わって裁きを付けたといいうるのではないだろうか。運命と自由意志の問題へと考えが巡るのだが、そのことはここでは語らないでおく。
さてこの小説の筋立ては、勧善懲悪の物語といいたいところだが、なかなかそうはいかない。悪は相変わらず調子よくはびこるのである。そこにこの小説のリアルさがある。というところで、とりあえず私の拙い感想文をここで終わりにしたい。
参考文献:『金瓶梅』笑笑生作 小野忍・千田九一訳(平凡社「中国古典文学体系」) 2025.9.25 記
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