島国日本が陥る幻想

懲りないアベノヨイショたち

アベノミクス時代から続く低金利政策と日銀による国債購入(公的債務の累積) は、知らず知らずのうちに日本の社会経済を浸食している。アベノミクス時代から、馬鹿の一つ覚えのように、ゼロ金利政策と財政ファイナンス(国債発行)による景気拡大を唱えるアベノヨイショたちは、15年にわたる経済政策の失敗を反省するどころか、未だに大手を振って公的生活に登場している。

2013年に日銀副総裁に就任した岩田規久男は、「2年以内に政策実現効果がでなければ辞任する」覚悟を語ったが、目標未達成のまま5年の任期満了まで副総裁ポストにしがみついた。しかし、他の三流エコノミストと違い、自らの理論的主張が実現しなかったことから公的生活での発言を控えている(と思われる)。当然のことである。10年あるいは15年の長期にわたる金融緩和政策の効果がでなければ、前提となる議論が間違っていたことになる。自らの間違いを正し、自制の姿勢を見せるのが学者として真っ当な姿勢である。学者を自認する以上、効果が出ない政策が前提する仮説や命題への厳しい反省なしに、経済理論政策家を名乗ることは許されない。結果が出なければ、依って立つ議論の前提や命題を再検討するのが、学者としての当然の営為であるからだ。

しかし、アベノヨイショの三流エコノミストたちにはそのような矜持はない。自らがヨイショしてきた政策の効果が得られなくても、自らが依って立つ単純な命題を反省し修正することはない。逆に、アベノミクスを受け継ぐ高市総裁が実現したことで、アベノヨイショたちは息を吹き返し、旧来の主張を叫び始めている。三流エコノミストも自民党保守勢力も、アベノミクスの失敗が明々白々であるにもかかわらず、アベノミクスの呪縛から逃れることができない。「高度成長が実現できれば、財政赤字問題は解消される」、「ハイパーインフレになっていないのだから、もっと国債を発行しても問題ない」という幻想から逃れることができない。近い将来、日本が直面する社会経済問題の深刻さに目を向けることができない亡国の政治である。

物価目標はたんなる口実

安倍晋三は「デフレだからインフレを惹き起こせば景気が良くなる」という単純な仮説に飛び付いて、経済政策の中心に「2%の物価目標」を据え、その目標が達成されるまで金融緩和政策を続けるとした。「高度成長時代は消費が増え、物価が高騰しても、物価上昇が景気を引き上げ、高度成長が実現できた。だから、デフレを解消する政策を打ち出し、物価が継続的上がるようにすれば経済成長が実現できる」と考えた。高度成長の現象だけに目を奪われ、その背後にある日本の経済社会の変化を分析しないナイーヴな俗論である。

「物価を上げる政策によって、景気が拡大する」と考えるアベノミクスはその出発点から間違っている。物価の上下が問題の本質ではない。日本経済の基盤に進行している構造変化こそが問題の核心である。ところが、現代経済学は経済社会の構造的変化を分析することができない。しかし、高度成長時代を終えた日本の経済社会は、高度成長時代とは似ても似つかぬ大きな社会経済構造の変化を被っている。その変化を分析しない限り、理論的な分析にはなり得ない。

高度成長時代には、毎年、100万人を越える新規の労働力が市場経済に参入した。新規労働力の市場参入は消費市場を拡大し、それが高い経済成長率となって実現した。しかし、すでに日本経済は労働人口が絶対的に減少する歴史過程に入った。新規の労働力が市場に参入しなければ、GDPの増大は見込めない。高々、年金生活者と主婦の労働参加によって、GDPを維持しているだけだ。アベノミクスが成果として強調する労働人口の増加は、年金生活者と主婦の労働力である。労働力人口減少は不可逆的な歴史的過程である。そのことが意味するところは、「小手先の政策でこの歴史的変動過程を逆転させることができない」ことだ。にもかかわらず、安倍政権は「高度成長が実現できれば、財政収入が増え、財政赤字問題は解決される」という幻想に支配されて続けてきた。カンフル剤を打ち続ければ、体力が回復すると考えるのに似ている。「高度成長をもう一度」はたんなる願望である。労働人口減少が急速に進む日本は、少なくとも今後70-80年間、高度成長時代を迎えることはない。労働人口が減少し続け、GDPが縮小する時代を迎えている。

政府と日銀は「物価目標」という欧米で一時流行った経済政策を、起死回生の政策目標に掲げた。「インフレを惹き起こすことが最大の目標」とばかりに、「2%の物価目標」を経済政策の中心に据えた。2%という数字に何の根拠もなければ、そもそも「物価目標を設定することで経済成長が図られる」という議論に何の理論的根拠もない。事実、大規模金融緩和を10年以上継続しても、「物価目標」は実現できなかった。

ところが、アベノミクスの結果として生じた大幅な円安が、今度は、消費者物価を直撃するようになった。しかし、政府と日銀は「物価上昇が2%を超えても、上昇傾向が定着するまで、金融緩和政策を続ける」というスタンスをとっている。要するに、「物価が2%以上であれ以下であれ、景気が良くなるまでは金融緩和政策を続ける」ということに過ぎない。「物価目標」は金融緩和のための口実すぎないのだ。

事ここに至って、物価目標がいかにまやかしの目標だったかが分かる。あたかも2%上昇に理論的根拠があるがごとくに振舞っていたが、「2%を超える物価上昇が実現しても、景気がまだまだ本格化していないから、緩和政策を続ける」というのだ。だから、アベノミクスの失敗が明々白々になった時点でも、金融緩和政策をだらだらと続けている。
金利を上げて金融引き締めを図れば証券市場や不動産市場の暴落を惹起するから、金融緩和政策からの脱却へ舵を切ることができない。だから、植田日銀総裁は与党の顔色を窺い、自ら主導的に政策転換を推進することがない。「アベノミクスの尻拭いの責任を取る義理がないから政策を変更しない」という事なかれ主義に嵌ってしまっている。これはとても学者の姿勢ではない。黒田前総裁と同様の官僚的姿勢である。

それにしても、いったい日本の経済学はどうなっているのか。マルクス経済学が衰退して、社会経済的分析を行う理論家がいなくなった。社会経済の総体を捉える視角を備える理論が消滅した。他方で、非マルクス経済学の理論的重鎮たちは、アベノミクスにたいして明確な意見を表明していない。もっとも、最近では、理論経済学会会長を務めた吉川洋氏は「アベノミクスは最初から最後まで間違っていた」と発言しているが、高度な数学的手法を使う非マルクス経済の多くの学者は、現実の経済政策の展開に全く無関心だ。これでは経済学の存在理由がない。大学や学界の地位を得るために経済学を職業にしているだけではないか。マルクス経済学が訓詁学に堕したように、非マルクス経済学もまた、経済学界の論壇の中の世界だけに生きている。マルクス経済学と同様に、現代経済学も現実から遊離した「頭の体操」の世界に堕しているのである。

もっとも、多くの人は経済学が科学だとは思っていない。だから、経済学を勉強したこともない政治家や識者と称される人々が、アベノミクスを礼賛する素人論議を披露している。その素人論議に便乗して、三流エコノミストがアベノヨイショの音頭を取っているのが今の日本だ。情けない限りだ。

円安が生み出す労働ダンピング

アベノヨイショや政治家の多くは、大幅な金融緩和や国債の日銀引受けがハイパーインフレを惹き起こしていないから、もっと国債を発行しても何の問題もないと考えている。与党の政治家のみならず、「れいわ新選組」の山本代表はアベノミクスに賛同している政治家の一人である。与党も野党もアベノミクスの呪縛から逃れることができない。

歴史が教えているように、戦時の赤字国債発行がハイパーインフレを惹き起こすのは戦争が終わってからである。社会主義体制はその崩壊に至るまで、インフレのない安定した社会だと思われていた。しかし、体制が崩壊した途端に、ほとんどの国はハイパーインフレに見舞われた。ロシアの戦時経済もまた、その結末がロシア社会を直撃するのは戦争が終わってからだろう。公的累積債務で日本経済が社会の存立を揺るがすような危機に陥るのは、大自然災害が発生し、公費で復興ができなくなる時だ。

要するに、「今現在、問題が起きていないから、将来も問題を惹き起こさない」と考えるのは、近代の人類が経験した歴史の教訓を無視した願望にすぎない。財政赤字は将来、何らかの方法で大きな問題を惹き起こすことなく解決されると考えるのは、根拠のない願望である。ハイパーインフレはその一つの経済法則的解決であるが、一挙に「ご破算で願いましては」と解決する前に、多臓器不全で死に体にもなる。だから、何度もハイパーインフレを経験した欧州は公的債務の累積に厳しく対処している。日本も例外ではない。財政ファイナンスの結末をいずれ処理しなければならない。日本だけが経済法則の貫徹を免れると考えるのは、近現代史の教訓を忘れた島国の議論である。

ハイパーインフレが起きていないから、金融緩和政策の弊害が起きていないと考えるのは、島国日本の中だけで考えているからだ。他国との対外関係に目を向ければ、まったく別の世界が見えてくる。

低金利政策と財政ファインスのために、歴史的な円安が進行している。日本円は対アメリカドルにたいして50%超も過小評価されるまでになった。対ユーロ過小評価率はさらに大きい。発展途上国並みの過小評価率である。破滅的な円安は日本人海外渡航者や海外駐在員を直撃している。50%の過小評価とは、国外での商品サーヴィス購入が日本のそれに比べて2倍の価格(料金)になることを意味している。

私が使っている10年物の Honda CRV は日本で(10年前のハンガリーでも)300万円もしない車だが、今の為替レートで新車を購入しようとすれば、600-700万円もする。
だから、馬鹿らしくて買い替えることができない。これを破滅的な円安と言わずに何と言おうか。もっとも、ドル建てやユーロ建てで投資収益が入る会社は為替差益で潤っているが、それらの会社が儲かる分だけ、庶民が苦しんでいる。

日本人の海外旅行者にとって、アベノミクスの初期の時代に比べて、航空運賃も 海外のホテル代も日本円で計算すると倍になっている。だから、JALやANAを利用するのは社用族か金持ちだけで、以前と同じような料金で旅行しようとすれば、中国の航空会社を使うしか方法がない。宿泊は 1ランクあるいは2ランク下げたホテルになる。海外のレストランで食事すれば、ほとんど日本のレストランで払う倍以上の料金が請求される。
他方、ユーロ圏やドル圏の旅行者にとって、日本はあらゆるものが格安の世界である。ほとんどの商品サーヴィス価格が自国の半額以下なのだ。だから、オーヴァートゥーリズムが起こる。このため、日本のホテルは外人旅行者の需要に合わせた

料金を設定し始めた。料金を倍にしても外人旅行者が悲鳴を上げることはない。だから、大都市のシティホテルの料金は軒並み高騰している。ところが、国内を旅行する日本人は外人旅行者用に引き上げられた料金を払わなくてはならない。日本人が国内のホテルに気軽に宿泊できなくなった。

要するに、アベノミクスは破滅的な円安を招いている。癌になってもすぐに死ぬわけではない。だから問題がないのではない。癌が原因で死ぬ前に多臓器不全になれば、健全な生活を送られなくなる。ハイパーインフレが生じていなくても、日本の経済社会は種々の歪みに苦しんでいる。とても健全な経済社会だとは思われない。

現在の破滅的な円安が意味するところは、「日本の労働力が買い叩かれている」ことだ。50%の労働力ダンピングである。ところが、島国から抜け出したことのない政府や日銀の政策責任者はこれを実感することができない。なぜなら、海外出張しても、自らのポケットマネーで旅行する経験がないからである。顎脚(あごあし)付きの出張で、円安を実感することはできない。

日本国内だけで言論を張っているアベノヨイショたちの多くも、これほど深刻な円安の弊害が出ていることを実感することができない。だから、「円安は輸出拡大のチャンス、インバウンド需要はGDPを上げる」など、発展途上国並みの能天気な議論を繰り返している。さすがに、経団連は円安是正を政府に求めているが、官僚生活に慣れ親しんだ政策責任者は事態を深刻に捉えることができない。「円安のマイナス面が目立ってきた」と口先だけの理解を示すのではなく、是正のための具体的政策を打ち出すことが必要なのだ。しかし、今の日銀総裁にそれを求めることはできないし、アベノミクスの虜になっている自民党保守派に政策転換を期待することもできない。より大きな破滅に直面するまで、日本人はアベノミクスの幻想に支配され続けるだろう。
【ブタペスト通信2025年 No. 41(11 月 19 日)から】

「リベラル21」2025.11.26より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6918.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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