学問領域でも攻勢をかける中国
福建師範大学に「琉球学」学科創設
11月19日の「新華社通信」は、11月15日に福建省福州市で、福建師範大学中琉関係研究所の創立30周年と、「琉球学」学科設置を記念する学術シンポジウムが開かれ、そのシンポジウムには厦門(アモイ)大学、南京大学、浙江大学、琉球大学、早稲田大学、沖縄国際大学、沖縄県立芸術大学、武蔵野美術大学など、中日両国の20余りの大学と研究機関から専門家や研究者が参加したことを報じた。
そして同日、中国共産党機関紙人民日報の国際紙「環球時報」は11月19日、その社説で「“琉球学”」学科プロジェクトが国家の承認を得て正式に始動したと伝えた。また、同日付の「環球時報」はなぜ今「琉球学」なのかについて、「琉球諸島の地政学的状況、戦略的選択、そしてその将来の方向性は、自らの運命に関わるだけでなく、周辺国や地域の安全保障上の関心事にも影響を及ぼす。ここ数年、国内外の学界における琉球(沖縄)問題への関心は高まり続け、研究成果が次々と発表される中、学問体系構築の段階へと発展しており、『琉球学』の設立は必然の流れであった」と解説している。
この解説によれば、「琉球学」は政治的な課題を背景にしながら、“国家お墨付き” のもとで、学問体系の構築を目指すということらしい。「琉球学」研究の根拠地が福建省の大学に設置された理由は、福州が琉球王国との交易指定港であったということに関係しているものと思われる。福州には「琉球館」が設置され、500年近くに及ぶ明・清と琉球の冊封体制を維持する重要な窓口であった。
中国との冊封体制そして日本
そこでまず、その歴史の流れを私なりになぞってみたい。
○1368(室町、応安元)年に中国で成立した明王朝の初代皇帝(洪武帝)は周辺諸国に朝貢を促したが、1372(室町・応安5)年には明の使節が来琉し、中山王・承察度<ショウ・サット>と朝貢の関係を結んだ。当時、琉球はまだ統一されておらず、中山・山南・山北の三山時代であったが、中山に続いて山南が1380(室町、天授6・康歴2)年、山北が1383(室町、永徳3)年に明に入貢した。
○1429(室町、永享元)年に尚巴志<ショウ・ハシ>によって三山が統一され、琉球国はいくつかの東アジア諸国同様、冊封体制に組み込まれる。朝貢は3年に1度が普通であったが(「3年1貢」)、明は琉球に対してはその制約を取り払って「朝貢不時」とした(日本は10年に1度)。また、明朝は朝貢時に使用する船舶を琉球に下賜し、朝貢活動を支える乗船員や通訳も派遣した。朝貢貿易では入貢した国が君主からの文書と貢物を中国皇帝に献上し、その見返りとして皇帝がいろいろな物産を下賜するという慣わしであった。
琉球からは馬や硫黄などのほかに日本刀、美術工芸品、銅、東南アジア産の香料や胡椒などが献上され、中国側からは生糸、絹織物、陶磁器などが下賜された。琉球はそれらの品々を日本、朝鮮、スマトラ、ジャワ島、インドシナ半島など、東南アジア諸国に売りさばき、琉球では産出されない品々を購入し、福州で売りさばいた。いわゆる中継貿易である。この貿易は琉球王朝の財政を潤した。
冊封体制の常として、宗主国である明・清は琉球王が替わるたびに爵位を与えるため冊封使を渡琉させ、首里城において新しい王に爵位を授ける儀式を執り行った。この関係はおよそ500年間続き、その間、明代に17回、清代に8回、合計25回の冊封使が来琉した。
○1609(江戸・慶長14)年、日本の薩摩藩が80余艘、軍3000人で侵攻し、さっそく翌年琉球本島や島々をくまなく検地し、石高を定めた。琉球は中国と冊封関係を保ちながら、実質的には薩摩藩の支配下に置かれることになった。琉球は2人の主人に仕えながら一国として生きて行かざるをえなくなった。
○翌1610年、薩摩藩主島津忠恒は琉球王尚寧<ショウ・ネイ>を引き連れて江戸へ向かった。途中、駿府で家康に謁見し、江戸城では秀忠に謁見した。忠恒は家康から琉球の支配権を承認され、奄美群島を割譲させ、直轄地とした。また、「掟十五条」によって琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。尚寧王と三司官は「琉球は島津氏の附庸国である」と書かれた起請文に署名させられたが、それを拒否した三司官の一人謝名利山<ジャナ・リザン>は斬首された。その後琉球王朝は江戸幕府の代替わりの度に慶賀使を「江戸上り」させ、忠誠の意を表した。
琉球王国を温存させ、明との冊封・朝貢貿易による利益をかすめ取り、石高に応じた納税を課すやり方は、「侵略」と言わざるを得まい。
○1872(明5)年、明治政府は「琉球藩」を設置し、1875(明8)年に清への朝貢を禁止した。
1879(明12)年には台湾へ漂着した琉球の漁師たちが先住民によって殺害されるという事件が起きた。明治政府はさっそく軍隊を派遣。この事件は日清両国互換条款の調印により、清国が日本の出兵を認めて殺害被害者に見舞金を支払うことを条件に日本が撤兵に同意することで解決した。この派兵は明治政府として最初の海外派兵となった。
○明治政府は中央集権国家として「明治維新」を断行していく。廃藩置県はその基本政策であった。しかし琉球国としては明・清が500年近くに及ぶ宗主国であることから、明治政府の要求をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。何度か清へ使節を送って助けを求め、清も明治政府に対して抗議したが、清はすでに衰退しつつあり、琉球国を助ける力はなかった。
業を煮やした明治政府は、1879(明12)年3月27日、内務大丞松田道之を琉球処分官とする警官160名、熊本鎮台分遣隊400人の武装兵力を引き連れて首里城正殿に乗り込み 琉球国王尚泰に対して、琉球藩王尚泰が日本政府のたびたびの命令に従わないので琉球藩を廃止し、沖縄県を設置するという命令書を読み上げ、「廃藩置県」を通達した。さらに尚泰の東京移住、琉球の土地人民と書類の引き渡し、首里城明け渡しなどを命じた(日本政府の公文書では「琉球処分」と呼称)。これにより琉球王国は日本に正式併合された。
1880(明13)年にユリシーズ・グラント元米大統領が仲介に入り、清と交渉を行った。その過程で分島問題などの案が浮上したが実現せず、琉球王国は消滅した。
○1945(昭20)年、日本は第二次世界大戦に敗れた。以後米軍は27年間、琉球をその軍政下に置く。その間沖縄は米軍基地反対、本土返還の闘争などに激しく揺れた。(私は1959(昭34)年に大学入学のために上京したが、当然のことながらパスポートの取得が必須条件であった。つまり私は「本土留学」をしたのである)。
○1972(昭47)年、沖縄の施政権は日本に返還され、2年後に当時の総理大臣佐藤栄作が「日本人初のノーベル平和賞」を受賞したのは周知のとおりである。受賞理由は「沖縄返還の実現と核兵器を「持たず」「作らず」「持ち込ませず」とする「非核三原則を国是として明確に打ち出したこと」であった。
ただ、私はここで、沖縄返還交渉を担当した密使若泉敬氏のことに触れなければならない。氏は『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス―核密約の真実』(1994平成6)年、文藝春秋社から刊行)の手記の中で、返還交渉の舞台裏を克明に記している。私はこの600ページに及ぶ手記に氏の言い知れぬ苦悩を見た。
表向きの「核抜き本土並み」の公約が実は「沖縄周辺有事の核再持ち込み、核貯蔵、米軍基地の自由使用」という密約の上に成り立っていたからである(その事実はぎりぎりの交渉の結果であり、リチャード・ニクソン大統領、佐藤栄作首相、国家安全保障担当補佐官キッシンジャー、若泉密使の4人だけが知る文字通りの「密約」であった)。若泉氏は沖縄返還の後には米軍基地が縮小され、沖縄住民の負担も減り、沖縄戦で犠牲になった人々への鎮魂にもなることを念じていた。しかし、現実はそうはならなかった。 氏は国立沖縄戦没者墓苑で命を絶つ覚悟であったが、結局『他策ナカリシヲ…』の英語版の序文を書き上げたのち、1996年7月27日、「武士道の精神で自裁します」という遺書を残し自宅で毒杯を仰いで自裁した。「密約」を公表した責任と、沖縄戦で犠牲になった人々への罪責にさいなまれての結果であった。(つづく)
(2025.12.13)
「リベラル21」2025.12.22より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14578:251222〕














