二人の元外交官の回顧録

八ヶ岳山麓から(548)

『タブーを破った外交官――田中均回顧録』(岩波書店 2025・10)、『日中外交秘録――垂秀夫駐中国大使の闘い』(文藝春秋 2025・06)という2冊を読んだ。いずれも回顧録で専門家による聞き取りと編集によるものである。

二人の元外交官は、2015年に成立した新安保法を肯定する立場であるが、日中関係を緊張におとしめた高市首相の「台湾問題に関する国会答弁」について、全く逆の発言をしている。田中均氏は安保法制の精神から高市答弁の撤回を求めているのに対し、垂秀夫氏は高市答弁の撤回に断固反対である。

田中氏は1947年生れ、69年京都大学法学部卒、同年外務省入省、2005年外務審議官で退官である。垂氏は61年生れ、京都大学法学部卒、85年外務省入省、2023年中国大使で退官である。2人の経歴からすると、田中氏は冷戦期からポスト冷戦期にまたがって仕事をした人である。垂氏はその後の世代で89年の天安門事件以後の対中国外交に尽力した人である。

田中氏は冷戦期外交をふりかえって、第一には、日本が侵略国であり敗戦国であったこと、第二に吉田茂による軽武装と経済復興優先という路線の遵守、米国の庇護のもとでの外交を挙げている。第三は、日本にある程度、独立した外交をする余地があったのがアジアとの関係だった。だが、それは日本が過去(侵略国)の贖罪として、できるだけ相手をたてて外交していくというのが基調だったという。

それが変わったのが、安倍晋三政権だった。田中氏はすでに退官していたが、安倍首相の「美しい国」「戦後レジームからの脱却」は、「(侵略の)過去を振り向くことで外交を規定するのではなく、自国の国益に沿って、自己主張に基づいた外交」だった。それは、欧米諸国やオーストラリアなどとの関係は強化されたが、過去からの脱却といった途端に、日本の近隣諸国との関係はやはり思ったような推移をたどらなかったと回顧している。そして氏は(中国や北朝鮮など)近隣諸国との関係をどういう思想に基づき、どのようにしていくかが今の日本にとって大きな課題だという。

田中氏は日米安保と憲法九条、専守防衛の関係にについて、「日米安保の役割と任務もおおよそ変えないで、専守防衛という枠内で、日本の安全保障上の機能をどれだけ拡大解釈できるか」「これはいまの(安全保障政策の策定過程の)形に似ていますが、周辺事態という概念を作って……日本が米国への支援業務という形で役割を果たすというものです」 という。この流れが憲法解釈をまげて限定的な集団自衛権をとりいれた「新安保法制」につながることがわかる。

第二章以下には、日米同盟と安全保障、朝鮮半島問題、日米経済摩擦、東アジア共同体構想、国連や中東問題への対応、さらに政治家と官僚の関係、安倍晋三氏との不和などが論じられている。わたしは全く無知の外交分野で、大いに学んだ気になった。それは聞き取りをした井上正也、神足恭子、佐橋亮3人の専門家が適切な質問をしたからだろう。

垂秀夫氏の回顧録には、本の帯に「中国が最も恐れる男――衝撃の回顧録」とある。編集者が垂氏の対中国強硬姿勢をこう表現したのだろう。そうだとしても、わたしには中国が日本の外交官を恐れることなど考えられない。

垂氏が田中氏と異なるのは、日本の侵略戦争など歴史の過去にさほどこだわらないことである。序章に「習近平体制の中国は『国家の安全』を国家の最優先目標に掲げ、強権支配をあらわにしている」 「……外交姿勢もまた強権的なものに変化した」といい、中国の威圧的な「戦狼外交」に負けず劣らぬ態度で挑んでいる。氏の回顧録は、はじめから終わりまで中国に対する「気合」に満ちたものである。

また、氏は日本の政治家や外務省幹部のやり方に強い不満を示し、「中国やアメリカの機嫌を損ねないよう過剰なほど神経をとがらせたり、前例主義、事なかれ主義に陥ったりしているのを、私は目の当たりにしてきた」という。たとえば2010年の中国漁船衝突事件では、垂氏は菅直人内閣に対中弱腰外交によるものと指摘したという。

垂氏は中国で多くの人脈を作り「情報」をつかんだと誇っている。

1996年3月台湾総統選挙をめぐって米中の対立から台湾海峡に緊張が走ったとき、橋本龍太郎総理が情報を要求した。垂氏はこのときから「情報電を頻繁に送っていた私の存在は目立つようになった(p121)」という。本書には、垂氏が多くの情報をどこからつかんだかが延々と語られる。2,3の例を引こう。

「(1998年11月訪日前)江沢民の秘書からは、こんな話を聞いたことがある……江沢民が外交のプロではなく、(素人の)側近を信頼しており、側近以外の高官に対して神経質になっていたかが窺えた(p126)」

「このように、公式のルートよりも早く中国政府の内部情報を入手できることはたびたびあった。……たとえば1998年3月の全人代で決定されることになっていた胡錦涛国家副主席の就任をはじめ、国務院の重要幹部人事案は、数週間前にはすべて把握していた(P127)」

さらに、1998年の江沢民の訪日に関して、江沢民や曽慶紅が、(日中)歴史問題をどう考えているのかという情報を、垂氏は事前に把握していたという。「なぜなら私が発掘して開拓した中国人脈の中に、曽慶紅に非常に近い人物がいたからである。……彼は江沢民の訪日中ずっと付き添い、江沢民周辺がどう考えているか、事後情報を私たちに入れてくれていた。これこそ裏人脈の神髄である(P145)」 

私が驚いたのは、垂氏が多くの情報源を(匿名ではあるが)明らかにしていることである。このなかには、上記の例のように、諜報機関でなくても中国上層の人事に多少とも知識のある人ならば「裏人脈」を特定できるものがある。わたしの10数年の中国生活からすれば、中国の社会管理は日本で想像する以上に厳密である。垂氏の情報源となった人々のその後を考えると背筋の寒くなる思いがする。

2008年人民日報の国際版「環球時報」は垂秀夫氏をスパイと名指した。にもかかわらず中国は、「ペルソナ・ノン・グラータ」とでもいうべき氏を日本大使として承諾した。もしや、中国諜報機関は日本大使館と垂氏による情報活動を詳細に掌握していたからではなかろうか。

本書の聞き取りと構成をしたのは、元時事通信社の記者であり現北海道大学教授城山秀巳氏である。城山氏はジャーナリストとして、ニュースソースの漏洩を警戒することはなかったのか。それとも敢えて垂氏の意向に逆らわず本書を編集したのだろうか。ジャーナリストに求められる最低限の倫理からすればそんなはずはない。どうしてこんなことになったのだろう。

日本の外交は吉田茂以来、日米安保条約に規定された対米従属状態が基調で、それを屈辱的とも考えず、冷戦後も日本民族の真の独立を目指しては来なかった。この二人のエリート外交官は、高市首相の国会答弁に対しては真逆の対応を求めたが、対米従属を前提とする点では同じであった。かれらの後輩外交官も日本民族の独立問題など視野には入らないだろう。

1951年のサンフランシスコ講和条約以来76年、政治家も官僚も、そして国民も祖国がアメリカの目下の同盟者であることに慣れてしまった。だが1868年の明治維新を敢行した人びとは、アヘン戦争に敗れた清帝国の惨状を繰り返すまいとしたものではなかったか。その精神からすれば、アメリカから自立し中国とも敵対しない非同盟・中立自衛の日本こそがあるべき姿であると私は考える。わが日本はアメリカに従属する限り、アジア諸国から尊敬されることはないだろう。
(2025・12・14)

「リベラル21」2025.12.24より許可を得て転載
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〔opinion14581:251224〕