バルビュスの『地獄』からの省察―東洋的虚無思想とニヒリズム(その2 )

「ニヒリズム」とは何か―時代背景(Ⅲ)

現在のドイツ国内で、AfDという民族派政党が台頭していることはよく知られている。そしてその背景に、旧東ドイツに属していた地域の過疎化、貧困があると言われる。確かに旧東ドイツを旅行してみればわかるのだが、有名な港町のロシュトック(旧東ドイツの町)は、大きく二区分されている。大金持ちの別荘が立ち並ぶ区域と、貧困層の区域とである。そして、ネオ・ナチなどが外国人を襲う事件が頻発するのは、もちろんこの後者の区域である。若者たちがたむろし、外国人旅行者が通るのをいぶかしげに眺める。

日本でも、最近多発する「無差別殺傷(襲撃)」事件の要因として、若者の「自暴自棄」ということがよく話題に上がるようになった。

以前に『金瓶梅』(あるいは『紅楼夢』)についての「感想文」でも書いたことがあるが、やはりある流行(ないしは情動傾向)が出現するには、それ特有の時代状況が大いに関係しているように思う。ヘーゲル流に言えば、「どんな人間もその時代の子である」(「われわれはその時代を飛び越えることはできない」)からだ。

ここでは、先に触れた幾つかの作品が書かれた当該の時代状況を概観し、ニヒリズム的発想の成立根拠について考えてみたい。

まず『地獄』が書かれた1908年はどういう時代だったのだろうか。19世紀末から20世紀初めにかけては、一般的には「帝国主義の時代」として知られている。(以下、『帝国主義論』上 武田隆夫編 東大出版会 を参照にして)

1873年の世界恐慌から引き続く世紀末の大不況は1895年まで長期にわたり続いたが、この大不況こそが資本主義の新たな展開への転換期(帝国主義の幕開け)となった。

それまで世界の工場として独占的地位を築いていたイギリスは、軽工業を中心とする繊維工業、特に紡績業を中心にした構造を持っていたため産業構造の切り替えがなかなか進まなかったのに対して、後発的に産業革命を経験したドイツ、アメリカ(フランスは、イギリスと同じ旧い産業構造を残していた故に若干立ち遅れた)は、この長期の不況を逆に利用して、軽工業を軸にした19世紀型の産業構造から重化学工業(鉄鋼、化学、軽金属、石油、電機など)を軸にした20世紀型の産業構造を急速に作り上げることに成功した。

重化学工業化に要する巨大な投下資本は株式会社の発達において賄われるが、その結果、資本集中を生み出すことになる。また大量の労働力を必要とすることから、農村人口の減少、都市化が進み、農村社会の危機が生じる。もちろん、急激な産業構造の変化に伴い、国内では都市と農村間の対立だけでなく、労働現場での矛盾軋轢も激しさを増してくる。

また、国際的には植民地の再分割競争も激しさを増し、それに伴い国内外で民族問題も持ち上がってくる。

つまり、なお古い社会の母斑を残しながら、社会の変革が急激に行われることによるひずみが社会のあちらこちらで噴き出してきているということができる。

当時のフランスでは、「サンディカリズムの形而上学者」と呼ばれたソレルの『暴力論』が1906年に出版されているように、激しい労働運動が多発している。そして、この時代の労働運動の一つの特徴として社会秩序の破壊をめざすアナーキスティックな傾向があったようだ(但し、それがサンディカリズムの主流であったというのではない)。そしてその根底には、エミール・ゾラが『居酒屋』の中で描き出したような、底辺で暮らす民衆のその日暮らしのなんともやりきれない絶望的な生活体験があったと考えられる。未来への希望を絶たれた状態に追い込まれた人間(爆撃で重い障害を負わされたガザの若者たちと同じく)が抱く周辺社会への「怨念」は、形を変えて、それに相応しい思想、文化的トレンドへと結びついていくのである。いかなる考え方(思想)も、唐突に浮かんでくるものではない。それは絶えずその時代と結びついているがゆえに一つの「時代の精神」(共同主観性)なのだ。

私には、上述したような状況が生み出す外部状況に対する「投げやりな」心理状況(あきらめ)、つまり孤立して自己内にこもる思考が、ニヒリズム(ある種の実存主義)、東洋的な虚無感、アナーキズム、宗教…などの拠って立つ基になっているように思える。

少し目線を変えて、(その1)でほんの少し触れたアルベール・カミュの場合を例として考えてみる。

カミュが『異邦人』を書いたのは第二次大戦下の1942年である。「人間は無意味な存在に過ぎない」というニヒリズムが不条理劇として描かれている。主人公のムルソーは、太陽がまぶしすぎるという理由から殺人を犯す。人生に何ら価値を見出せないという絶望的な状況がその根底にある。1942年といえば、ナチに率いられたドイツ軍がフランスに侵攻した年であり、まだ30歳前後のカミュが抵抗運動に参加していた頃である。もちろん、カミュの思想形成に、生まれや育ち(アルジェリアで生まれ、第一次大戦で父親を亡くし、スペイン人の母親に育てられる)や若いころの貧窮生活などが大きく影響していることは事実であろうが、併せて、この時代経験も決定的に大きかったのではないかと思う。

ツルゲーネフのニヒリズムが、デカブリストのテロルに絡んでくる経緯とその背景(ツアーリズム国家体制下での農民の悲惨)、ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)の時代(急激な産業革命の進行に脅かされる民衆の不満)、またナチスが政権を握った時代のバックボーン(大量の失業者とインフレ)にもかかるニヒリズムを醸成する社会状況が確かにあったと考えるが(もちろん、これらの時代状況が同じものというのではない)、ここではその詳細な考証は省かせていただき別の機会に譲りたい。

特異な時代状況の生み出す、特異な思想・文化的な潮流。この(世紀末の)時代に限れば、「社会生活のあらゆる問題が深刻化し、世界が陰惨な現実に直面するようになると、ヨーロッパの思想の上には様々な形で動揺が現れ、近代世界に対する反省や懐疑までも生まれ始めた」(岩波講座「世界歴史23」p. 414)という指摘はうなづける。

世紀末の文化潮流

続いて、この「世紀末」(19世紀末から20世紀始めへの移行期)の文化的な流れを鳥瞰してみる。

資本主義社会の飛躍的な拡大に伴い、思想、芸術、科学など、あらゆる分野で従来と大きく異なる変化が現れる。ざっと視るだけでも、科学の分野におけるキュリー夫妻、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ボーア、…の活躍。文学では先に挙げた、ゾラやアナトール・フランス、ロマン=ローラン、ボードレール、トルストイ、それらに加えて、象徴主義やダダイズム、耽美主義などの新たな傾向が出現する。彫刻や絵画では、従来の写実派とは別に、印象派、表現派、構成主義、超現実派(ダダイズム、シュールレアリズム)、フォービズム、キュービズムなどの主観的、内面的な方向が強調されてくる。

ここではこの小論のテーマに合わせ、思想、文学、芸術の分野に焦点を当てながらニヒリズムとの関係を考える.

上に大まかに略述したことからもその一斑をうかがえると思うが、表側で産業社会の巨大な進展にともなう科学技術の驚異的な発展があるとすれば、社会の陰の部分(「近代世界に対する反省や懐疑」)が思想、文学、芸術の領域で同歩調で膨らんできていることが解る。

例えば、ダダイズムであるが、dadaという無意味な語(詩人ツァラがフランス語の辞典から偶然発見したとされた運動上の記号)が示すように、既成の権威、道徳、習俗、芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重する芸術運動で、当初はナンセンスな演劇的パフォーマンスとして展開されたようだ。しかしそれは「単なる否定と破壊の運動ではなく、…あらゆる価値の相対化と近代理性の関係性そのものの無効化を通じて、表象行為に原初の直接性と自発性を回復させようとしたと考えられる」(『岩波哲学・思想事典』。つまり、人間の直感の再評価、「何でも芸術になりうる」という思想が根底にある。 

ここに、ニヒリズム(虚無主義)すなわち、「すべての事象の根底に虚無を見出し、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場」(小学館『大辞泉』)と共通するものをみることができると思う。

これらは巨大な帝国主義国家=「他律的な社会」の確立へのアンチ・テーゼとしての自己回帰(感性的世界の強調)とみなすことができる。

「考えるな、見よ」という有名な言葉を残した哲学者ヴィトゲンシュタインも同時代人である。

私=論者にとって非常に興味深いのは、この時代は歴史上比類のないほどの発展(科学技術の発展とそれに伴う生産力の向上、世界の拡大)を遂げている反面、同じ程度での社会的危機を生み出している点にある。そして思想や文芸作品は、そのことを極めて敏感に感じ取っているように思う。ここには、時代の悲劇性、矛盾を介した一種の反省的な(内面化された)エネルギーが働いていると解することができる。時代の在り方を問い、同時に自己の生き方を問う姿勢である。

面白いのは、フランスではこの時代を「良き時代」(ベル‐エポック)と呼んでいることだ。その意味は何であろうか。岩波の『広辞苑』によれば「文化・芸術が栄えた時代」と書かれているが、それにも両面あることをみる必要があると思う。

一方では確かに「都市化」=近代化が大幅に進んでいる。馬車が電車に、しかも蒸気ではなく電気機関車に代わり、電信、電話が普及し、都市は整備される。パリ万国博覧会がその象徴として開かれる。そして、新たな潮流の思想、文芸が花開いてくる。これは確かに「文化・芸術が栄えた時代」に違いない、がその中身を剔抉してみればどうか。そこには先ほどから繰り返し触れているような、近代化への否定・懐疑に基づくものが多々存在することに気づくのである。

そしてむしろこの否定の中にこそ、この時代の制約(境界Grenze)を超える可能性が見出されるのではないだろうか。「否定の否定」とは単なる肯定ではなく同時に否定を含んだ肯定(Entgrenze) であるからだ。

ニヒリズムとは何か(総括)

一応ここで私なりの総括を試みたい。

この小論の冒頭で私は、東洋の虚無主義、無常観と西欧のニヒリズムとの間にははっきりした違いがあるにもかかわらず、そこにある種の同一性があるのではないかと述べた。そしてこのことをバルビュスの『地獄』と中国の『金瓶梅』(あるいは『紅楼夢』)から読み取り、考えたいというのが、その際の問題意識であった。

改めて繰り返すまでもないことであるが、『金瓶梅』も『紅楼夢』も一見、平凡な金満長者の金と権勢に任せた放縦で自堕落な生活を淡々と追いかけて描いている小説の類であるかに思える。しかしそうではない。その底流には困窮による農民反乱、外敵の侵入、そして体制そのものの崩壊という歴史上の大乱の時代が重ね合わされている。それがゆえに、時代の栄枯盛衰が個々人の身の振り方とその人々の人生そのものと切り離しがたく重なっていて、時代に翻弄される人々の「人生の儚さ」「栄華の夢の虚しさ」が、結局は出家や隠棲のような形で表出されることになる。あるいは俗世に居残り続ける人たちからも、「せめてもの一夜の夢を思う存分遊び暮らそう」という、ある種の投げやりの心情(「人生なんて、どうせこんなものだ」という気持ち)が読み取れる。しかも、そこに東洋的な(仏教や道教などの)運命観がイデオロギー的に前提されているのだ。それが特に顕著に読み取れるのが『紅楼夢』であり、先にも触れたが、ここでは物語のすべてが「ただ一抹の夢」として総括されている。すなわち、人の一生は全て「天の配剤」によるものであり、いわば「孫悟空がどんなに活躍しても、所詮は釈迦の手のひらから外に飛び出ることはできない」という考え方である。東洋思想の「虚無感」には「諦観」が、また「梵我一如」が下敷きになっているのではないだろうか。

前にも別稿で何度か触れたことがあるが、ナポレオン戦争の被犠者であるヘーゲルは、『法哲学』の中の「戦争論」と呼ばれている個所で次のような意味のことを述べている。「外敵の侵入(地震や原発事故などの大災害でも同様であると思う=合澤)に際して、われわれは自分の命のはかなさ、虚しさを痛感する。ましてや細やかな財物への執着心など問題外だ」。

「もの」への執着が消え去る境地(自己や肉親の生命すら軽いもの、はかないものと感じられ、ましてや家屋敷やその他の財物など…)、ここには西欧と東洋との区別のない根源的な「実存」があるのではないだろうか。ヘーゲルは『哲学史講義』の中の「スピノザ論」の冒頭部で、「すべての哲学の第一歩は、東洋的な根源的存在(根源一者)である」という意味のことを書いている。

話がだんだん横道にそれて、ヘーゲル論の方向に行きかけたようだ。ここで再び軌道修正して、いよいよこの小論のまとめに取り掛かりたいと思う。

先に引用した小学館『大辞泉』の「ニヒリズム(虚無主義)」の第二義には次のように書かれている。

「(ニヒリズムとは)既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度。ツルゲーネフ、ニーチェ、カミュなどに代表される」。ツルゲーネフとカミュについては、すでに簡単ではあるが触れたので、ここではニーチェに限って述べたいと思う。

その前に、この第二義に関連するのであるが、先ほど触れた『紅楼夢』の主人公の賈宝玉が、徹底して反権威主義の立場に立っている点は見逃してはならない。例えば「科挙」を嫌悪し、既成の伝統=家柄などに捉われない、などである。ここには明らかに共通点が見出せる。

ニーチェを「最後の形而上学者」と批判して、存在への回帰を説くハイデガーの場合は別に論ずる必要があるだろうが、ここではともかくもニーチェ及び彼に多大の影響を与えたと言われるショーペンハウアーに関説することから入っていく。

ショーペンハウアーが評価され始めたのは、1848年革命の挫折から世紀末に向かう時期であるという。彼の「非合理的主意主義」「頽廃的ロマン主義」「ペシミズム」「自殺擁護論」などが当時の時代潮流にマッチしたと考えられる。もっとも「自殺擁護論」(彼は『自殺について』という小論を書いている)は、後にカミュによって「ソファに座っての自殺礼讃」にすぎない、という手厳しい批判を蒙っている。

そして、ショーペンハウアーの影響が色濃いと言われるニーチェの『悲劇の誕生』が、近代批判や芸術論として読まれ始めたのも同じく世紀末以降のことといわれる。

ということからすれば、やはりすべての鍵はこの世紀末にあるようだ。「この世紀末とはどういう時代だったのか」が再び問われなければならないが、ここで改めてそれを論ずることはしない。ここでは掻い摘んで要点のみ記してとりあえずこの論考を締め括りたいと思うからだ。というのは問題が多岐にわたり、到底この小論には収まり切れなくなる。御寛恕願いたい。

再三触れたように、帝国主義の時代において、近代文明は長足に進歩した。そして世界は拡大し、植民地もますます拡張される。その結果、西洋第一主義的考えが大手を振って世界を闊歩するようになるが、同時に民族紛争、反帝国主義運動も激しさを増してくる。

当然、それらの動向は思想や文芸界に反映されてくる。一方における進歩史観、他方それに対する反省(近代化への懐疑)、また社会主義などの変革の思想がそれだ。

簡略化して言えば、ショーペンハウアーが「表象としての世界は、生への盲目的意志が認識の助けによって、自らをより良く実現するための手段に過ぎず、世界自体には何らの目的も意味もない。それどころか、個体へと分裂した生への意志が抗争しあう苦の世界である」「しかし認識によって、この苦の世界が盲目な意志の現象であることがはっきりし、意志が消えることで、表象としての世界も消滅し、苦の世界が救済される可能性がある」(『岩波哲学・思想事典』)との考えから「東洋的無」を評価したとすれば、先の『紅楼夢』の世界との類縁関係を思念することも可能ではなかろうか。

それではニーチェはどうか。

三島憲一は『ニーチェ』(岩波新書)の中で次のような鋭い指摘をしている。

「近代的合理主義に…シンパシーを寄せるウェーバーにとっては、理性の持つ普遍的な力、その自由と真理の約束に依拠しているはずのこの近代が、何ゆえに単なる管理社会になってしまったのか、そしてその中で内面的な価値を喪失した人間が富を無駄に楽しむだけの時代になりつつあるのかが大きな問題であった。この合理主義が何ゆえに、…「精神なき専門人、心情なき享楽人」のみが跳梁する事態に変じてしまいかねないのか、そのパラドックスは解き難い謎であった。」(p.13)

ニーチェは,1881年の『人間的なあまりに人間的な』というアフォリズムの中で、「…美しい魂の芸術と並んで、醜い魂の芸術が存在する。そして魂を圧倒し、石をも動かし、動物をも人間化するといった、芸術のもっとも強力な効果は、この醜い魂の芸術においてひょっとすると最もよく成功しているのではなかろうか」(152番)と書く。

ここでは社会学と芸術という領域の違いはあるが、両者ともに時代の逼塞を鋭敏に感じ取っていることがわかる。

そこで先の「ベル・エポック」に再び返ってみる。「良き時代」とは、近代化が花開いた時代であるとともに、特に思想・芸術の領域では、それによって「否定された世界」における陰花が新たな可能性と未来性を秘めたものとして追い求められ始めた時期と読むことができるのではないのか。

ニヒリズムという言葉は、1799年にヤコービが使ったことを嚆矢とすると言われるが、すでに18世紀前半には使われていたようだ。そして私念するに、ニーチェはこの概念を最大限膨らませたのではないだろうか。時代の大きな曲がり角にあたっての新たな問題の噴出、この巨大な行き詰り、外部の見えざる壁、既往の考え方が破壊され、アトム化された個人にとっては、無目的な空しい現実に向き合う以外にない。つまり自己の内側にこもり、自省という観念、不変なのは過去の思い出だけだという「鬱」状態が時代を支配していく。不安という「時代病」、ニーチェはそれを時代を超えてプラトン、あるいはキリスト教の淵源にまでさかのぼって見せた、とみることができる。

ここで「時代病」というのは、精神病理学者の笠原嘉のいう「「対象のない不安」…対象がないのになぜ不安がるのか。不安だという以上、何かが不安なはずだ」(笠原『不安の病理』)を指している。

あえて言えば、1927年に自殺した芥川龍之介が書き残した「漠然たる不安」とも相通じている。

ニーチェが『悲劇の誕生』の中で嘆くのはまさにそういう「不安」である。

「…現代文化は荒廃と衰弱に陥っていて、われわれの心を未来に向かって励ましてくれるものは何もない。ただの一本でも根を張った木、ただの一片でも実り豊かな土地が見つからないかと捜しまわっても、いたるところゴミと砂埃、硬直と憔悴が目に映るばかりだ。」

「…伝統が崩壊し、その代わりに19世紀が信頼を寄せる怪しげな価値――自由、平等、人間性、進歩…がまかり通っている事態をニーチェは、プラトン以来の「畜群道徳」の勝利であると見る。つまり、神はいなくなっても、その神の影は長いこと生き続けているのだが、本来の形而上学的な意味での価値はもはや存在しない。この状態をニーチェはニヒリズムと呼ぶ。」(三島:同上書p174)

「ニヒリズムの現象形態はデカダンスである。」(同上p175)

蛇足ながら次のニーチェの断片(1880年夏)も紹介しておく。

「事態がうまくいかない時にルターの慰めの言葉は『世界の没落』という言葉である。ニヒリストたちには哲学者といえばショーペンハウアーであった。極端に行動的な人々はすべて、自分たちの意志を実現することが不可能だと知ると、世界を粉々にしたがる。」(岩波哲男『ニヒリズム』下より)

この岩波哲男の本の中では、ニーチェ研究者のエリーザベト・クーンを引用しながら、ニーチェがロシアのニヒリスト、とりわけツルゲーネフに関心を寄せていたことも紹介されている。

ニーチェはなぜ「世界の変革」という境地に行かなかったのか、という問題はここでは留保したい。その上で、ニーチェ自身のニヒリズム克服論を取り上げてこの小論の締めとさせていただく。

結論から言えば、「永遠回帰」によるニヒリズムの克服、というのがニーチェの解決法である。

「『真理といえるものはない。何をしても許される』こう私は自分に言い聞かせた」(『ツァラトゥストラ』)

氷上英廣は『ニーチェの顔』の中で、これに次のような注釈をつけている。「まさしくこの〈漂泊者〉は懐疑と不信に生き、一切の先入見や拘束をかなぐり捨てた〈自由精神〉であり、その価値破壊が極まってニヒリズムに至ったものである。」「砂漠はニヒリズムである」

途中の議論は飛ばして言えば、ニーチェはこの境地を脱するために、一度は仏教の「涅槃」=自己救済の宗教、にまで進むが、やはりそこにも安住できない。そしてついに到達したのが「永遠回帰」である。

「唯一の原理(としての)「根源的事実」としての<力への意志>…歴史のすべてが、いや自然も含めて一切が<力への意志>の全く偶然的で無計画な戯れの産物であるとしたら…その戯れを司る原理というのはあるのだろうか…ニヒリズムの極点、つまり否定の極北にあって、その現実を直視し、一切をあるがままに肯定すること…一切の事物が、<力への意志>の無限の運動の中で幾度も幾度も無限の回数にわたって回帰するという現実をそのまま認め、肯定すること―永遠回帰」(三島:同上書pp179-180)

「支配のための認識でなく、徹頭徹尾認識と化することによって得られる認識こそが、そしてそのときの幸福こそが<永遠回帰>の体現であり、それによる祝福なのである。」(三島:同書p184)

果たしてここに真の解決がありえたかどうか、この<力への意志>がナチス・ドイツによって利用されたことはニーチェにとって不幸な歴史的事実である。『地獄』の著者バルビュスは、前回で触れたように、ナチス・ドイツの侵略に対し、人民戦線を主導して抵抗することになるが、ニヒリズムの真の克服がその先に可能であったかどうか…。

他者性を欠落した自己(自省)はどこまでも抽象的な独我(独善)論でしかないのではないだろうか。

                       ひとまず筆をおきたい 2026.3.11

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14726:260315〕