かつてわたしたちは、「プロレタリア独裁」という直截な歯切れの良さに心酔していた時期があった。当然のように言葉を包む暴力の予感も抑圧の危険さも知っていたはずなのだが、なぜか革命に対する片思いの時期を思い出しても、どのような心情がこの言葉に結びついて共感したのかよくわからない。ただひとつ言えるのは、独裁は片思いのように遥か彼方の出来事にすぎないから、青年期の被虐感の裏返しに似た感情ではないかということだ。そして、自分自身に対する強烈な抑圧感が外に対する暴力にはけ口に求めることがわかったのは、マルクスの文体とレーニンのそれとはまるで違った印象をもつことに気づいたときだった。だが、レーニンは、その後、多くのひとは知らずじまいになったが、ロシア革命の初めの頃、「プロレタリア独裁」という言葉によって人類の未来に遠大な目標を掲げ、大衆に賭けようとしたのである。彼は1917年の10月革命の直前に『国家と革命』を書いた。この著書を書く直接の動機になったのは、第一世界大戦の勃発とともにロシア内外の社会主義者の多くが、「社会排外主義」や「革命的祖国防衛主義」に陥ってしまったことに対する批判であった。彼らは社会主義を唱えながら国民(労働者)の利益よりも国家の戦争目的を擁護し、革命を忘れて戦争に協力してしまったのである。このためレーニンは、マルクスとエンゲルスの言葉の切れ端を集めて、国家の問題を整理して体系化することを迫られたのである。
レーニンは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』から出発して、国家とは和解しえない階級対立の結果として一定の歴史的段階にうまれた暴力であり、ある階級が他の階級を支配し、抑圧するための機関であるとする考え方を編み出した。そして、その機関の実体をなしているのは、「武装した人間の特殊な部隊」(警察、常備軍)や官僚機構であり、これらはもともと社会生活の地盤からうまれたのだが、社会の上に立つと、逆に、今度は社会に対して「国家としての暴力」の主要な武器になった。従って、被抑圧階級の解放はこの国家暴力の転覆なしには不可能であり、これらの機関を暴力的に破壊することなくして革命は達成できないというテーゼができあがったのである。レーニンはさらに、その国家暴力に代わるべきプロレタリア国家の原則について書いている。それによると、プロレタリアによる革命はブルジョア国家を破壊するが、国家そのものを直ちになくすことはできない。むしろ、革命の第一歩は、みずからを「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」へ転化させなければならない。なぜなら、死に物狂いの反抗をしてくることが予想されるブルジョアや封建勢力を鎮圧するためにも、また、社会主義の新たな経済体制をつくりだす作業において、圧倒的多数の農民、プチブル、半プロレタリアートを組織化するためにも、プロレタリアは中央集権的な権力組織を必要とするからである。それまでのブルジョア国家が、一見、いかに民主主義的な装いをしていたとしても実質的にはブルジョア階級の独裁であったのと同じように、資本主義社会から共産主義社会への過渡期の国家においても、不可避に「プロレタリアートの独裁」でなければならないのである。このプロレタリアートの独裁は、その敵である少数の搾取者を抑圧する一方、住民大衆を資本主義的搾取から解放し、民主主義を大幅に拡大して、多数の貧しい者のための民主主義を実現するために欠かせない制度であるとされた。そこで、レーニンは、マルクスとエンゲルスがブルジョア国家機構を粉砕したのちのプロレタリア国家の具体的なあり様を、1871年のパリ・コミューンの中に見出したことに着目している。
≪コンミューンの第一の布告は、常備軍の廃止と、武装人民によるその代替とであった。コンミューンは、市内各区における普通選挙によって選出され、有責であって短期に解任され得る市会議員から形成された。その議員の多数は、勢い、労働者、乃至は労働者階級の公認代表者であった。コンミューンは、代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた、行動体であった。警察は、依然として中央政府の手先きであるかわりに、ただちにその政治的属性を剥奪され、そして責任をおいいつでも解任され得るコンミューンの手先きとなった。行政府の他のあらゆる部門の官吏も、そうであった。コンミューン議員以下、公務は、労働者賃金においてされねばならなかった。≫『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳
マルクスはコミューンこそ本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産でありながら、そのもとで社会的、経済的解放を達成するべき、ついに発見された政治形態であるとみなした。エンゲルスは、『フランスの内乱』の第三版の序文においてパリ・コミューンをプロレタリア独裁と呼び、マルクスがコミューンに抱いた思い入れを補足するかのように、労働者階級は権力を掌握した場合、行政上、司法上、教育上の代表者を一般投票で行うこと、また、その代表者は一般の労働者が受け散る賃金のみを支払う原則などを上げて高く評価した。とりわけ、この旧来の国家機関の全面的な破壊と大衆的な機関への交代が必要不可欠な条件であると結んでいる。
レーニンは、マルクスがパリ・コミューンの経験をもとにプロレタリア独裁の概念を読み取り、従来の国家理論の一部の見直しを行ったと考えた。その一部とは「労働者階級は単にできあいの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない」ということである。レーニンはマルクスの主意をくみとり、革命とは既存の国家機構をそのままにして、単に政権奪取することではなく、その官僚、軍事国家機構のすべてを「廃絶」しなければ意味がないと述べている。パリ・コミューンは、まず、第一に常備軍を廃止して、それを武装した住民大衆に代えた。また、すべての公務員の完全な選挙制とリコール制を採用し、その給料は労働者並みの賃金に引き下げられた。コミューンはいわゆる議会ふうの団体ではなく、執行府であると同時に立法府でもあった。パリ・コミューンの教訓から学んだ最大のものは、代議機関を「おしゃべり小屋」から「行動的」団体へ切り替えたことだった。ただし、レーニンは官吏を一挙になくすことはできないので、古い官僚機構を粉砕して、すべての官吏を徐々になくしていけるような新しい官僚機構を建設することが現実的と考えた。その上で、住民大衆の多数者みずから国家の諸機能を遂行するようになれば、もはや厳密な意味では国家ではなく、死滅を予定された国家であり、いわば、「半国家」または「準国家」と呼ばれるのがふさわしいとした。
さらにレーニンは、この国家の将来の行く末を見定めている。このまま社会主義が推移していくなら、資本家や抑圧者の反抗が最終的に打ち砕かれたとき、やがて最後には階級そのものが廃絶される。そして、ついに共産主義社会にいたると、労働が「第一の生活欲求」にかわり、精神労働と肉体労働の対立すらなくなって、各人は能力に応じて働き、必要に応じて消費しうる社会に満たされたとき、国家は階級抑圧という自身をうみだした存在条件を失い、まもなく眠りこみ死滅するのである。レーニンの弁証法によれば、すべての事物と同じように国家にもその生成、発展、消滅の過程がある。国家は、常に、階級支配と抑圧の道具であるから、階級や抑圧のない未来の共産主義社会になれば、国家は必要でなくなり死滅するのである。こうしてレーニンは、当時の労働者、農民の革命的な気分を敏感に察知しながら、単に、ブルジョア社会との経済的・社会的闘争を進めるだけではなく、ブルジョア国家の廃絶からプロレタリア独裁の不可避性と階級なき国家の死滅につらなる一連のプログラムを提示してみせたのである。
当面の目標は、これまで人間による人間の搾取にもとづく支配を許してきたブルジョア的秩序に反対して労働者階級がブルジョア国家を倒し、圧倒的多数の住民大衆の利益のために力を行使できる国家に取り換えることであった。そのためには、これまでの革命以上の根本的な変革がなされなければならない。フランス革命のようなブルジョア革命の場合は、国家権力が封建的貴族階級からブルジョア階級へ移るだけであったから、少数者が多数者を搾取するという制度そのものはそのまま残ってしまった。事実、ブルジョア階級は権力をとるやいなや、かつての同盟者(市民、労働者)を裏切り、打ち破ったはずの敵の支持をもとめ、封建地主との取引さえ厭わなかった。1917年にはロシアのブルジョアジーもそのようにしたいとおもっていたのである。
だが、労働者階級であることは、不可避にすべての被抑圧者を代表して根本的な変革を行うということであり、革命によって新しい労働者階級が取って代わり、古い国家機構のもとで統治するのではなく、この階級が現在の国家機構をこなごなに粉砕して、すべての被抑圧者を代表する新しい機構を打ち立て支配することであると考えたのである。その際、レーニンが想定していたのは、国家の威圧的な側面である常備軍、警察、官僚機構のことである。その一方で、銀行やシンジケートと密着した機構や会計計算と統計上の作業を遂行する機構は例外とし、これらは資本家の支配からもぎとらなければならないとした。レーニンは、国有化された銀行の前途を予見して次のように述べている。≪われわれはこのすばらしい機構からみにくい資本主義的贅肉を切りとり、いっそう大規模にし、いっそう民主的にし、いっそう包括的にするだけでよい。そうすれば、量が質に転化するだろう。あらゆる農村地方とあらゆる工場内に支店をもつ、大規模な単一の国有銀行-これはすでに社会主義機構の十分の九である。それは、全国的な規模の簿記、生産高の測定と照合、全国的な財の分配を意味する。それはいわば社会主義社会の骨組である≫。
常備軍、警察、官僚機構などの威圧機構は、早急に、より高度に民主的ではあるが、やはり武装した労働者大衆という別の国家機構におきかえる必要があった。これがさらに発展すると、ゆくゆくは、すべての市民、住民が国家の勤務員となり、すべての住民大衆が政治や軍事に全般的に参加できるようになる。つまり、役人や官吏は、住民大衆の直接統治におきかえられるか、または、少なくとも特別の統制下におかれて、住民大衆によって選ばれた公僕となるだけでなく、住民の意志でいつでもリコールできるようになる。つまり、社会主義のもとでは文明史がはじまって以来はじめて、住民大衆が投票や選挙だけで政治参加をするのではなく、日常の行政事務にも参加できるようになると期待されたのである。レーニンは、社会主義のもとでは、すべての者が交替で政府の仕事に参加し、それによって誰も支配しないことに急速に慣れるであろうと考えた。
このような国家の構想をみるとき、レーニンはどんな資本主義国家もおよばないくらい行政要員を無尽蔵に補充でき、すぐに動かすことができる国家機構に壮大な夢を託したのかもしれない。これによって民主主義は一部の者のためではなく、すべての住民大衆のための制度になり、民主主義は限りなく拡張(膨張)するからである。しかし、レーニンは、マルクスの理念に沿うように、この民主主義さえ「ひとつの歴史的時代」を占める過渡期の産物にすぎないことを知っていた。最終的にブルジョアの抵抗が完全に打ち破られ、階級としての資本家が消滅して、社会的生産手段に対する社会の成員の関係に差別がなくなる共産主義社会においては、本当の完全な民主主義、例外なしの民主主義が可能になるとした。そのときにようやく民主主義自体が衰滅しはじめる。というのは、ひとは強制されなくても支配されなくても、あるいは多数決による強制のための特殊な機構がなくても、社会的生活に欠かせない基本的なルールを守ることに慣れてくるからである。
そして、レーニンはマルクスのいう古い国家機構を粉砕して、プロレタリアートの独裁を行う上で、「ソヴェト」という組織が適応できる政治形態であるとの見解を示すことになる。1905年10月の革命において、最初のソヴェト(労働者・農民・兵士代表者会議)が自然発生的に形成されていた。ソヴェトは、もともとロシア語で「評議会」という意味であるが、工場の労働者や農民層など生産地点における代表の直接選挙、リコール権をもつ代議機関で、同時に執行機関でもあるという原則に立脚する組織であった。レーニンがこだわったのは、まず、この「ソヴェト」がコミューンの肩代わりができるかどうかということだった。これはマルクスの知らない国家機構に見えたからだ。だが、レーニンはいち早くソヴェトの可能性を読みとり、これを現在の政治機構に交替すべき組織の萌芽とみなすと同時に、政権を獲得するための機関であり、政治指導の中心になり、政治的自由の獲得や普通選挙で選出された憲法制定会議の実現、住民大衆の武装、8時間労働日、農民への土地引渡などの政治課題を荷なう大衆的機関と位置づけたのである。レーニンはソヴェトに、マルクスがパリ・コミューンの経過で見た政治組織を重ね観たからである。
レーニンはプロレタリア独裁の概念からソヴェトの実践的意義を取り出してきたのだが、ほかの社会主義者は政治課題を具体的に解決する方法をもっていなかった。西欧の社会民主党はマルクス主義者を自称していたのだが、レーニンの言い方を借りれば、彼らはプロレタリア独裁という概念を曖昧にしてしまうか、戦術上の概念に矮小化してしまって、少なくとも、マルクスが独裁という挑発的な表現によって示そうとした力強い目的意識を削りとってしまっているようにおもえた。そして、なによりレーニンがプロレタリア独裁という概念をとおして、過渡期の国家の意味あいについて強烈な自意識をもっていたことである。彼の考えでは、西欧社会より資本主義的な発展が立ち遅れていた当時のロシアでは、既存の封建制度からの圧迫によって長く支配者が教育と宣伝を独占していたことや、長年にわたる服従と従属の習慣がひとびとの社会主義思想の浸透を阻んできたことを理由に、このような惰性と習慣の力に対抗する武器としてプロレタリア独裁は不可欠だった。もし、このような社会において社会主義という目的意識をもつ場合には、過去の桎梏と現在の時間の段差は、現在と未来の段差を飛び越えることで解消されるしかなかった。日々の労役と宗教によって育まれた暗い遺制に包まれたロシアのような土壌のもとでは、強い目的意識に支えられた国家意志の形成が不可欠だったのである。この点においては、わが国が西欧よりも遅れて近代化をおこなう上で、強権的な方法で「富国強兵」を行ったことと似通っている。
その目的意識を実行に移すため、レーニンは自党(ボリシェヴィキ党)が、形式的な合法性や民主主義的な多数の意見に制約されずに、必要とみなした変革を即座に実行できる自由をつかみ取ることが先決とおもわれた。彼は党の政策が国民の大多数の意志を代表していると確信していたが、たとえそうでなかったとしても、プロレタリアートは、まず、ブルジョア支配を打倒し、国家権力を奪取しなければならない。その際、大多数の勤労者の共感をえるために、かつての支配者の負担によって勤労者の経済的要求を満足させることが必要悪であり、この国家権力を利用しなければならないと考えたのである。
マルクスが出来合いの国家機構を何に代えるかについて示した指針は明瞭だった。戦争や抑圧をもたらす常備軍を廃止すること、公職者の一般選挙、すべての公職をリコールの対象にすること、議員報酬や官僚の金銭的特権を廃止することをとおして、ひとびとが国家の中心に預けているすべての幻想上の遺物を、当たり前の社会生活の中に溶解させることであった。それらはレーニンが強調した特定の階級を抑圧するための特別な権力というような国家像の枠組みを踏み出た理念をそなえており、そのときすでに、本来の意味での国家とはいえないものに転化していたのである。その上で、住民大衆の大多数が支配する権力は、もはや抑圧の必要性が薄れ、国家は死滅を開始する段階にはいるとされていた。これがマルクスの描き出した権力とその死滅のイメージをとりだす鋳型であった。その点から類推すると、マルクスのプロレタリアの権力という概念は、住民大衆の意志によってコミューン型の国家が、これから死滅の準備をするために避けてはとおれぬネガティブな統制力ぐらいに考えていたとおもわれる。というよりむしろ、マルクスにおいては、コミューン型権力の掌握は、実質的にはレーニンのプロレタリア「独裁」のような強権概念とはちがって、コミューン国家はすでに住民大衆とのあいだに通路を開き、その土台をなしている市民社会への埋め込みを始動するスタート地点と位置づけられていたのである。そして、国家の権力を廃絶すると同時に、プロレタリア権力もまた、階級としてのみずからの死滅を俎上に乗せたことを意味するはずであった。なぜなら、言葉を狭義に使った場合、階級としてプロレタリア国家というのは、「社会主義国家」と呼ぶのと同様、形容矛盾でしかないからだ。このようなマルクスの国家(死滅)像に向きあって、自らのビジョンをはっきりと対置しえたのは、マルクス主義者の中には数えるほどしかいなかった。そのひとりであったレーニンでさえ、マルクスの国家のイメージを正確に伝えることができなかったのである。
マルクスの描いたイメージと見分けがつかないほどの微妙な差異は、議員報酬や官僚の俸給の引下げなど官吏の経済的特権の廃止に関するものであるが、レーニンの描いた構想はこうだ。コミューン(ソヴェト)は権力を握るや、国家官僚の上からの指揮を廃止し、それに代えて「現場監督・会計係」にたとえられるような新たな官僚機構をつくり、その新官僚機構があらゆる官僚制を徐々に廃止することが、プロレタリア革命を完成するための第一歩になる。やがてこれがますます平易化すると、「現場監督・会計係」の役割のように全員が輪番でこなすようになるという。
≪計算と統制-これこそ、共産主義社会の第一段階を「軌道に乗せる」ために、これをただしく機能させるために要求される主要なものなのだ。ここでは、すべての市民が、武装した労働者である国家に雇われる勤務員に転化される。すべての市民が、一つの全人民的な国家的「シンジケート」の勤務員と労働者になるのだ。そして、すべての市民が仕事の規準を正しくまもって平等に働き、平等に賃金を受け取ること、これがすべてである。これを計算し、これを統治することは、すでに資本主義によって極端なまでに単純化され、読み書きのできる人間ならだれにでもできる監督と記帳、算術の四則の知識、それ相応の受領証の発行といった程度の、ごくかんたんな作業に変えられている。≫『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳
つまり、ここに表現されているのは、すべての住民大衆が革命によって市民社会からぬけでて国家の勤務員に上昇することが、平等な権利をひとびとに分け与える中心的役割をはたしていることである。マルクスの場合は、国家は下降して元あった場所である市民社会のなかに埋め込まれて解消すべきものであったが、レーニンは反対に、国家の基本的なイメージを残したまま、割り当てのきく単純な共同作業に変えることで、だれもが参加できる平等な国家を実現しようとした。このような上昇志向はレーニンが党組織論、大衆組織論において、進んだ知識人、遅れた大衆という図式をとおして大衆意識を底上げしようとした啓蒙主義に正確に照応したものである。わたしはレーニンの考える国家像を引き延ばすと、生産手段の国有化と同じ足取りで住民大衆の総官吏化をめざしていくしかないようにおもえる。こういう発想はさかのぼると、マルクスが『共産党宣言』の中で、共産主義の第一段階として①土地所有の収奪②強度の累進税③相続権の廃止④亡命者、反逆者の財産の没収⑤信用の国家集中⑥運輸機関の国家集中⑦国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化、改良等々の例をあげたことに最初の誤差があった。つまり、「国有化」がそのままプロレタリア国家の条件に属するかのような曖昧な記述に問題があったのである。レーニンのこのような原始的民主主義の理想は、国家の仕事をできるだけ簡略化して画一化したら誰でもこなせる簡単な機能になるから、その国家の空間を横に拡げれば拡げるほど、統制や組織化が容易になると疑われても仕方がない。もしくは、すべての人間が政治家になれば、政治家と一般大衆との距離はなくなるから、政治にともなう支配、被支配の関係は解消されると考えるのとほぼ同じ理屈である。国家のあり方のひとつの例でしかない原始的民主主義が、平等に資格と機会をもちながら輪番制で行われる住民の大多数の国民義務の方向に向きを変え、同じ民主主義といっても、国家に対する自由を意味するのではなく、住民大衆が国家へ向かって段階的に参画するための手段になってしまうのである。このような理解を推し進めると、共同体の囲い込みの内か外かによって、個人の恣意的な自由が疎外されるのは目にみえていた。
特に、ロシアのようにツアーリ体制の遺産を色濃く背負った共同体においては、必ず、個人と共同体がぬきさしならないほど癒着してしまうおそれがあった。もしかしたら、レーニンの中では、社会主義と共同体の間に資本制が高度化したベルトコンベア式の生産工場の作業イメージが重なってみえたのかもしれないが、その個と共同性との関係のメカニズムにおいては、例外なく原始的民主主義の素朴さを転倒させてしまいかねない危うさをもっていた。その意味でレーニンのイメージは、いわば、アジア的ディスポチズムと「国家社会主義」の結合と言わざるを得ないのである。全員が国家の一員として隙間なく張り巡らされた独占国家機構のシステムによって、効率と濃密な人間関係のあいだに挟まれて、窮屈さで縮こまった生活のイメージにあたう限り接近しているのだ。しかも、通常の労働者の低い賃金にみあって、遂行できる程度にまで簡単な機能になることが、貧困の平等化の実質を保証していた。レーニンは、これこそが資本主義から社会主義にいたる現実的な架け橋になると考えていたが、大衆の官吏化の方向性はどうみても、わたしたちには素朴な原始的な民主主義には見えない。反対に、マルクスの古典近代期から遠く変貌してしまった社会の中、裏返された国家独占資本主義のイメージを嗅ぎとってしまうのである。
重ねて言うと、レーニンが権力獲得後、即時に国家(ソヴェト、人民委員会政府)を廃絶したあと、死滅の方向に舵を切らなかったのは、彼の原始的な民主主義が、あくまで住民大衆を上から啓蒙して、上向きの流れをつくりだす民主主義でしかなかったからである。そのため、上昇する者としない者は幾重もの段差を含むことになり、権力と住民大衆の間に官僚という中間層を介在させる可能性を開いた。のちのスターリンの神格化がこういう権力との距離関係をとおしてピラミッドがつくったとするなら、その萌芽はすでに、レーニンの思想に根ざしていた。レーニンがソヴェトを、マルクスのコミューン型国家に似せて、未来の構想を描いたのはまちがいなかったが、彼らの接点は、かろうじて議会制の否定という一点に限られていた。臨時政府とのあいだで二重権力状態のまま拮抗していたソヴェトにとって、議会制とは支配階級が口先で住民大衆を欺く道具であり、これは立憲君主国に限らず民主主義の定着した共和国においても同様であるという認識が支えになっていた。それにひきかえソヴェトは、ブルジョア国家の腐敗した代議制には決してみられない議員が自分で活動し、自分の手で法を執行し、自分の目で政策の確認を行い、選挙民に対して自分自身で責任を負う実働機関のはずであった。社会主義の政治的原則を提示したレーニンが愚直なまでにこだわったのは、パリ・コミューンの擬似的なイメージだったが、コミューン型国家とソヴェト国家との間には、いつのまにか誤差が生じてしまったのである。なぜなら、レーニンにおいては、最初から「国家とは何か」という定義が誤っており、最後まで尾を引いたのである。
≪マルクスによれば、国家とは階級支配の機関、すなわちある階級が他の階級を抑圧するための機関であり、また、「秩序」を形成することによって、そうした抑圧を合法化・固定化しつつ、階級相互間の衝突を緩和することにほかならない。≫『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳
マルクスの住民大衆に開かれていく国家、あるいは死滅していく国家の終末のイメージを前にして、レーニンが開いたのはパンドラの箱だったのかもしれない。なぜなら、彼にとって国家は、他の階級を抑圧する道具として活用するために、これから持続して始動する機関になってしまっているからである。マルクスが国家や権力という場合に想定しているのは、社会の内側から発生したにもかわらず、社会の逆倒した鏡に映して君臨し、疎遠になっていく政治権力の意味である。それを階級抑圧という機関に矮小化したレーニンは、それは武装した人間からなる特殊部隊(警察・常備軍)、監獄そのほかの施設をともなう暴力装置とみなしてしまった。レーニンは、現在は一握りのブルジョアジーが、大多数の住民大衆を支配するための道具であるブルジョア国家を、プロレタリアートがブルジョアジーを抑圧するための権力(プロレタリアートの独裁)に逆転させなければならないとした。プロレタリア階級は、まず、なにより、公認され、よく組織された暴力装置を武器に、政治的プロレタリアートとなって支配権を固め、国家の支配階級をみずから形成しれなければならないとされたのである。そして、これこそがプロレタリア革命によるブルジョア国家の廃絶を意味していた。ブルジョア国家は死滅するのではなく、政治的革命の過程において、政治的プロレタリアートの登場によって暴力の向きが逆転されるのである。したがって、このブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は、暴力革命をぬきにしては不可能であることになる。その上、その組織されたプロレタリアートは、国家権力、中央集権的な権力組織を必要とするが、それはブルジョアジーの抵抗を抑圧するためであり、社会主義の新たな経済的体制を創出する作業において、圧倒的多数の農民などを「国家」の内側に囲い込むためであった。ここでは、いわば、レーニンの国家暴力(支配の道具)論が、一般大衆を前にして公認された権力として行使されたとしてもおかしくない機能が披瀝されていることになる。そして、機能があれば必ず効率がつきまとうから、支配の道具は単純な計算のようにあくまでも迅速かつ集団的に行わなければならない。
レーニンの思想の分岐点は、被支配者が数を増せばますほど、抑圧者は次第に消滅していなくなることが民主主義の徹底とみなせば、それが社会主義におのずと転化していく自然過程とみなしたことである。国家を死滅させるためには、国家機能を単純化し、それを住民大衆のだれでもがこなせる単純な作業にしてしまうことによって、国家行政の間口を広げれば、おのずとひとは集まり蛇口からの水は薄められるだろうからである。レーニンには、そうなれば不特定多数の住民は必ず組織できるという自負があったのだとおもう。しかし、彼は国家あるいは政治的国家の理解をあきらかにはき違えていたことは、のちの歴史がはっきりと証明した。なぜなら、擬似コミューン型国家であるソヴェトは、まもなく政治的革命によって権力を掌握したものの、マルクスが提示した下降するイメージを具体化することができず、人民委員会政府の影にかくれて、またぞろ官僚支配をはじめることになったのである。その後、ソヴェト国家は国内戦と干渉戦の名目をとり、死滅と解消の任務を放棄したまま常備軍を増設し、警察も官僚機構も旧態依然のままに復活した。すべての官僚機構を完全に廃絶し、新しいコミューン型国家をつくるという理想は、現実情勢の必要性というモチーフに透明に編み込まれ、旧軍人や警察官あるいは官僚を呼び戻して元の席につかせることになったのである。また、公務員のリコール制も公務員の給与を一般の労働者や大衆を上回らないという基本原則も自然に放棄されてしまった。こうして、ソヴェト国家の内面においてはコミューン型の半国家の理念を掲げてはいるものの、実質的にはボリシェヴィキ党の集団が国家権力を掌握しているにすぎない、ただの近代民族国家群のひとつになったのである。
国家に抗してプロレタリア革命がいかなる態度をとるべきかという一点において、レーニンの思想が引き継がれるうちに、歴史は皮肉にも次第にマルクスの思想とはまったく対極のソヴェト国家をもたらした。国家は死滅するどころか、党と官僚組織はますます肥大化し、テロと粛清と相互不信の恐怖政治に固まった。その後のソ連邦の歴史は、スターリン主義というレーニンの模造をつくったが、大衆はその裏切りを気づくまでに70年を要した。この原因はどこにあるのだろうか。レーニンのあとを引き継いだスターリンにすべての責任をとらせるべきなのか。
レーニンとともにロシア革命を指導し、のちに左翼反対派となったトロツキーは、スターリンによってソ連邦を追放されたのち、1936年に『裏切られた革命』で、スターリンをやり玉にあげてレーニン主義が「変形」されたと憤った。トロツキーの主張しているのは、レーニンの国家のあり方の定義において欠かせないのは、ソ連が帝国主義戦争と内戦による国土の荒廃という歴史的背景の中で、進んだ資本主義国家におよばない経済的後進性と国際的孤立性の中にいることをふまえて、問題提起すらされなかったことである。しかも、もともとのはじめから、レーニンをはじめ初期の革命コースにおいて「世界革命」は想定されていなかったとされている。第一次大戦後の経済危機はヨーロッパに社会主義革命をもたらすことなく、ロシアは国際的な支援もなかった。そのため、レーニンが「息つぎ期間」と考えていた過渡期が、重い歴史的時間となってのしかかってきたのである。この過程でトロツキーは、官僚主義と一国社会主義のあいだに閉塞された際、時間の進行が停止したことを認め、永続革命の理由づけになった。レーニンは確かにコミューン型国家への移行をソヴェトの機構を通じておこなおうとする意思はもっていた。しかし、戦争による国民生活の疲弊、それに続く内戦と干渉戦のなかで、その意思は保留され、帝制の軍事的な官僚機構の温存をいやおうなく求められたことが理由になっている。このようなトロツキーの理屈は、スターリン主義者でさえしばしば口にしている程度の革命の擁護論である。トロツキーにとっては、レーニンの掲げた理想を裏切ったのは官僚専制であり、スターリン主義の根本に官僚専制を見出した。彼は第二補完革命の対象は官僚絶対主義であり、スターリン主義そのものを指していた。だが、ほんとうはそうではない。トロツキーが内省する能力をもっていたなら、自分たちの行動そのものを反省すべきだったのである。
しかし、実際には、レーニンは住民大衆を囲い込もうとした国家の肥大化と権力の距離の測定方法を間違えたのである。コミューン型の半国家の理念をもっていたとしても、実体はボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家が、レーニンが示したプロレタリア独裁国家だったからだ。ここにおけるレーニンの錯誤はもうひとつあった。それはボリシェヴィキ党の集団による生産手段の国有化という錯誤である。この二つが結合してプロレタリアートの独裁なる強権政治の表皮に張りつけたのである。ここには同じプロレタリア独裁という言葉を使っていても、国家を死滅に向けて開いていく半国家と、国家死滅を標榜しながらも、国家を無意識に肥大化させてしまう国家のすれ違いざまの反目があった。これにはレーニンの思考の型が、「少数のエリートの前衛集団」(ボリシェヴィキ党)による革命が、いわば、「宮廷革命」としてクーデタ化(アジア型行動)した着想にまず、原因があったとおもえる。また、国家を権力支配の道具としてしかみない狭窄した国家像とボリシェヴィキ党の集団が、国家官僚に閉じられアジア的に密教化した構造が重なった。ボリシェヴィキ党は、決して現実のプロレタリアートを意味するものではないにもかかわらず、その乖離を意識化する機会を失い、軌道修正できないまま、言葉の厳密な意味でプロレタリアートの独裁ではなく、プロレタリアートへの独裁に象徴されることになった。ロシアのようなアジア的な思想が支配的な国家においては、少数のエリート前衛集団は必ず閉塞し、現実のプロレタリアートを占有する専制主義がたえず出現する。
レーニンの想定したプロレタリア独裁の体制は、そもそもの誕生のときから、古い意味での「国家」を脱皮するはずだった。住民大衆の知らないところでつくられ官僚機構に支えられた国家は、プロレタリア独裁の初日から死滅しはじめる。ところが、ソヴェト国家は死滅しなかったばかりか、死滅しはじめようともしなかった。官僚が住民大衆に席をゆずって消滅するどころか、史上かつてなかったような大衆の上に君臨する無統制の専制権力をうんだのである。そればかりか、専制権力は第二次大戦に加担し、戦後は冷戦期間をつうじて、戦争こそが自らの存在理由であるかのように、閉じられた国家体制の中から代理戦争を続けたのである。彼らにとって戦争は悪ではなかった。むしろ、戦争こそが革命の祖国を守るための正義であった。マルクスが描いた労働者主権の構想と、レーニンやスターリンがつくりだした国家の間には、霞がかかったような遠い距離があった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1201:130317〕