日本スポーツ界の前近代性 ― 欧州からの見方 ―

 学校における暴力的スポーツ指導が焦点になっているが、指導者の暴力以上に日本の集団スポーツ競技や格闘技に蔓延している前近代的な人間関係に、もっと目を向ける必要がある。大相撲の部屋組織のように閉じたスポーツ組織では、競技者としてのランクがアスリートの階級支配に転化する。この相撲部屋に見られる前近代的な階級的師弟関係こそ、多くの集団競技のモデルになっており、アスリートへのリスペクトや競技者個人の自立・自覚、競技者としてのプライドに致命的な影響を及ぼしている。

学校スポーツと体育推薦入学 
日本の多くの私立大学は戦後の学生急増期に合わせて、スポーツ推薦入学制度を広げてきた。地方からの学生を呼び込むもっとも手っ取り早い方法が、スポーツで大学の知名度をあげることだった。アメリカの大学を真似たシステムだが、現在もなお、新興大学の学生募集の最大の武器になっている。
 体育推薦入学はアメリカや日本の大学経営手法として確立しているが、欧州では見向きもされない。欧州の大学はビジネスではなく、学問や研究と結び付いた教育を施す機関だから、スポーツで学生を呼び込むという発想はない。学校や大学はあくまで教育・研究機関で、スポーツは専門のクラブ組織が行う別の事業という棲み分けがはっきりしている。もちろん、特定の競技が盛んな学校もあるが、日本やアメリカのように学校や大学の全国スポーツ大会など存在しない。
 日本の場合には、戦前から剣道や柔道あるいは相撲などの伝統的格闘技が学校教育で推奨され、それが戦後の学校スポーツ活動のベースになっている。必ずしも専門家が指導するものではなく、学校教育の一環としてのスポーツ。だから、スポーツの専門教育を受けていない教員が部活を指導することがふつうに行われる。それが専門性を無視した精神主義的指導に偏向し易い土壌を生み、暴力的指導をもたらす原因にもなっている。
 大学のスポーツ活動を支えているのは体育会である。プロの選手を輩出するだけが体育会の機能ではない。多くの私立大学は自校への帰属感や愛校心を高めるために、体育会出身の学生を事務職で採用している。こうして採用された人脈は大学における一つの権力を形成するほどの大きな力をもっている。また、プロスポーツへ選手を供給する体育会にはOB会が存在し、これが体育会の人事権を行使している。体育会が肥大化した大学では体育会の権利に口を挟むことはタブーになっている。しかし、体育会の存在は大学経営にとっても、またそこから輩出されるスポーツ選手の社会人としての資質形成にとっても、非常に大きな問題を生み出している。
 まず、体育推薦入学者の決定において、教授会はほとんど形式的な権限しか持たされず、体育推薦入学者の総数すら知らされない場合が多い。なぜなら、推薦入学は理事会(経営委員会)が決めた推薦総枠を前提に、監督会議が各競技への分配を決めるからである。こうして決まった総枠と学部ごとの割振り案が学部長会議にかけられ、その後に教授会で割り当てられた枠を承認する。スポーツ推薦は大学の経営政策であり、教授会がこれを拒否することはない。スポーツ推薦に賛成しない教員は発言する機会を得られても、それを拒否する力はない。各体育会は推薦枠に従って、スカウト(学生や監督・コーチ)が推薦した名簿を作成するが、その名簿が各教授会にかけられることすらない大学もある。
 一般にスポーツ推薦で入学した学生の学力は低く、大学の学業についていくことはできない。というより、まず授業に出てこない。だから、ふつうに期末試験を受けても単位はとれない。しかし、そこは阿吽の呼吸で、回答用紙にたとえば「体育会野球部」と書いておくと、最低限の合格評点を与える教員は少なくない。他方、学業に厳しい教員や体育推薦を快く思っていない教員は容赦なく落第させる。だから体育会顧問の教授からの「お願い」の電話がかかったり、学生から「贈り物」が届けられたりする。それでも埒があかない先生には、「替え玉受験」で対抗する。レポート提出であれば、「替え玉」はまず発覚しないが、筆記試験では「替え玉」が発覚することが稀にある。実は、こういう騒動は日常茶飯の出来事だがニュースになることはない。こうやっても卒業単位が取れない選手は「中退」で大学を去るが、会社に就職しない限り、「中退」でも「卒業」でも大差ない。「○○大学出身」であることだけは間違いないからだ。
 しかし、この種の不祥事が漏えいしてマスコミなどに取り上げられると、大学経営には逆効果だ。「馬鹿でも卒業できる大学」という評価が広がると、優秀な学生が集まらなくなるからだ。最初は受験生を多く集めることが目的だったが、名声が確立してくると、次第に大学のランク(偏差値)を上げる必要性に迫られてくる。しかし、一度始めた体育推薦の既得権益を廃止することは簡単ではない。
 しかし、大手私学のなかで立教大学だけは例外である。ここでは付属高校からの進学者や体育推薦の入学者の学力水準が低いことが教授会で大きな問題となり、1970年代末から80年代にかけて体育推薦入学を廃止した。この結果、長嶋茂雄を生みだした伝統校の野球部は、東京六大学で東大と最下位を争うほどに力を落としてしまった。もうスポーツで大学を売り出す時代ではないという教授会の英断を、理事会も受け入れざるを得なかったのだ。しかし、立教以外の私学大手で、こういう決断を下した大学を知らない。体育会顧問になっている教員やスポーツが好きな教員の一部には、「タニマチ」的気分で体育推薦を擁護する者も多いから、教授会の意見をまとめるのも簡単ではない。

体育会の学年階級関係 
天皇制軍国主義時代を経験した日本社会に、アメリカ式の体育推薦制度が導入された結果、日本の大学には独特の前近代的な体育会組織が形成された。とくにその矛盾は合宿所における封建的人的支配関係に現れている。
 体育会のなかでも、目玉になる集団競技のクラブには大学から合宿所が提供される。野球部やラグビー部などがその代表格である。一応、名目上の舎監はいるが、実際の合宿所の運営は学生の自主に任される。自主と言えば聞こえは良いが、その内実は悲惨なものだ。ここでは相撲部屋と同じ厳格な階級制が敷かれている。しかも、それは競技実力とは無関係な、学年制による支配である。
 合宿所では1年生が「奴隷」で、4年生は「天皇」と呼ばれる。2年生が「下士官」で、3年生が「上官」である。天皇制国家の軍事的階級関係が自然な形で貫徹する。「奴隷」の仕事は炊事、洗濯、掃除、靴磨き。相撲部屋と同じだ。一部の優秀選手を除き、「奴隷」には練習することすら許されない。「奴隷」が反抗すると、暴力的制裁が待っている。元巨人の桑田真澄氏が詳細に語っているように、高校の合宿生活でも同じことが起きている。選手生命を脅かすような怪我を与えると公になるが、陰湿な下級生(新兵)いじめは日常的に繰り返されている。しかし、このような状況を学校側が調査することはない。事件が起きて初めて知ることになるが、それは最初から予想されたことなのだ。
 「奴隷」生活が嫌で体育会を辞めると言えば、それは即退学ということになる。法的には退学する必要もないが、「誓約書」を盾にした退学強要が一つの「脅し」になっている。そのことに学校や大学が関与することはない。体育会推薦で入学したのに、体育で貢献できないのなら大学に在籍する意味はないということなのだ。
 どれほどの選手が体育推薦で入学しているのかは各大学の企業秘密だが、私が勤務していた大学では、毎年2チームを作れる野球部員を体育推薦で入学させていた。4年で70名を超える推薦入学者である。しかも、甲子園で活躍したか、それに準ずる成績を収めた学校の代表的選手ばかりである。野球の試合でベンチに入れるのは20名にも満たない。控え選手でレギュラー組と競争できる選手も数は限られる。だから、残りは自然と雑用係になってしまう。こういう余剰人員の存在が合宿所における階級関係を維持する役割を果たしている。最初は奴隷で、学年が上がるごとに階級も上がり、最後はレギュラーになれなくても「天皇」の権限を発揮できる立場に立てるとはいえ、なんともやりきれない閉鎖組織だ。そして、大学側はこのような状況に介入することもなく、事件が起こるたびに頭を下げるだけなのだ。

格闘競技における親分子分関係
 個人競技では合宿所を設置しないが、空手部とか柔道部などのような格闘競技では相撲部屋と同じ上下関係が支配しているだけでなく、競技の性格上、暴力とトレーニングは紙一重のところがあり、指導者が暴力を振るうことにそれほど違和感がない。
 ロンドン五輪まで男子柔道監督を務めていた篠原監督は、「精神注入棒」という戦前の軍隊で使っていた「しごき棒」を片手に指導していた。女子柔道の「暴力指導」が発覚する前に辞任したので問題になっていないが、篠原監督の指導こそ、合理性のない暴力指導である。しかも、篠原監督には選手にたいする思いやりがゼロだった。金メダルでなければメダルでないとばかりに、銀メダル選手の表彰式にすら顔を出さず、逆に選手を茶化していたと報道されている。選手にたいするリスペクトがまったく感じられない。
 空手や柔道の体育会所属の選手は、日常生活でも実力を誇示する者が多い。だから、飲み屋に行ったりすると、やくざの振舞いと区別ができなくなる。下級生は小間使いのように、上級生の指示に走り回る。「タバコを買って来い、ビールを持って来い」。上級生と下級生の従属-支配関係は親分-子分の世界に似ている。
 こういう関係の中で育った指導者は、全柔連のような日本を代表する組織の責任者になっても、行動様式を変えることはできない。園田監督は選手との意思疎通を図る為に、コンパなどをやっていたというが、女子選手にお酌させるような宴会は、女子選手に芸者の役割を求めているようなもの。そのようなことすら理解できない社会常識しか持ちあわせていない。園田監督にも「アスリートにたいするリスペクト」という基本的な姿勢が欠如している。
 こういう封建的な人間関係で育った指導者が全柔連のような組織を牛耳っているから、本家本元の日本柔道連盟は国際柔道連盟に影響力を行使できない。女子柔道の問題は当該指導者の問題ではなく、柔道組織がもつ時代遅れの前近代的性にある。相撲部屋の改革が難しいように、柔道組織の改革も難しい。相撲は閉じた社会だからまだ許容されるところもあるが、これほど国際化した柔道競技に今の柔道組織(人間関係)は古すぎる。組織の近代化なしに、日本の柔道界が国際社会で影響力を行使していくことは難しい。

アスリートとしてのプライドと自立の欠如
 予想されたことではあるが、桜宮高校や女子柔道の暴力指導が公になって、意外に暴力的指導を擁護する声が多い。これほど日本のスポーツ界が抱える問題を如実に示しているものはない。アントニオ猪木の「闘魂ビンタ」と同じ感覚だ。大人になれない青年が多いことの反映だ。
 日本のスポーツ競技者の多くはアスリートとしての自立に欠ける。これは人間個人としての自立に欠けるのと本質的に同じ。指導者の指示を受け身で答えるような姿勢に慣れてしまうと、自分で考えて工夫し努力するという自立性やアスリートとしてのプライドを失ってしまう。欧米のアスリートが指導者から殴られようものなら大騒動になるが、日本でそうならない理由だ。げんこつやビンタを食らって黙っているような選手は、アスリートとしての誇りを失っていると思われても仕方がない。そういう受け身の選手が世界で活躍できるはずがない。指導者が選手をリスペクトしないのは、選手がプライドを失っている、あるいは選手にプライドを持たせない指導の結果でもある。
 プロスポーツの選手ですらアスリートとしてのプライドや意識が低いと思われることがある。プロ野球の監督のなかで「げんこつ主義」を捨て切っていない人がいる。そういう監督は選手を呼ぶ時に、「おいこら」式に呼ぶ。親しみを込めていると好意的に解釈できないこともないが、選手を自立したアスリートとして扱っていないし、選手へのリスペクトが感じられない。大学体育会で身に付けた上下関係をそのままプロ野球にまでも引きずっている。「闘将」と称される監督ほどそうなのだ。理屈や合理ではなく、感情や意気込みで何とかなると考えるのは間違いだ。日本のプロ野球はまだこういう世界だから、選手を一人前のアスリートとして扱う桑田氏のような理論派はプロ野球に歓迎されない。
 WBCの参加問題で選手会が不参加を決定した時も、一部の選手は「そういう大会に一度は出てみたい」という意見を述べていた。社会的意識が低いのは仕方がないかもしれないが、そういう意識の低さが選手生命にも影響する。中日の浅尾投手は怪我を抱えているのにWBCの選考合宿に参加していたが、アスリートとしての自覚に欠ける。WBCは開幕前のエキジビジョンマッチだ。そこで無理して、選手生命を縮めるほど馬鹿な行為はない。松坂投手のようになってしまえば、本人にとっても球団にとっても、取り返しのつかない損失なのだ。
怪我を抱えて世界の第一線で活躍できるほど、プロの世界は甘くない。シャルケの内田選手が、肉離れが完治しないのに日本で行われたラトヴィア戦に出場し、ブンデスリーガで再び故障組に入ってしまった。欧州で活躍する選手を集めて、欧州チームと日本でゲームを企画したことも理解できないが、選手個人が自分の状態をしっかり告げることができないところにも、日本選手のプロ意識の低さを垣間見ることができる。
逆に、柔道では怪我が分かっていても、国際大会の出場を義務付けられるようだ。柔道の世界は相撲と同じで、怪我は当たり前、それを精神力でカバーしろという非合理な精神主義が支配している。これでは世界で勝てない。だからこそ、選手個人の毅然とした態度やアスリートとしての自覚が必要なのだ。そのために、選手である以前に、個として自立した人間でなければならない。これはスポーツ界のみならず、グローバル化した世界のなかで、日本の外に向かって出ようとする日本人が共通に抱える近代化の課題なのだ。

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