青山森人の東チモールだより 第304号(2015年6月25日)

禁止のお触れ

「安らかに眠れ」

民主党の党首のフェルナンド=デ=アラウジョ(通称「ラ サマ」)教育大臣(社会問題調整担当大臣を兼任))が6月1日に倒れ、2日に急死し、5日まで、5月20日の独立(「独立回復」)記念日がすぎても町を飾りつづけていたお祝いの国旗は一転して反旗となりました。

その6月5日(金)の午後、ラサマ大臣の遺体が納められた柩はまず国会に運ばれ、遺族も参列し、国葬が始まりました。午後2時半ごろ国歌が流れ、1分間の黙祷、ラサマ大臣の生い立ちと経歴が述べられ、タウル=マタン=ルアク大統領から東チモールの最高勲位であるニコラウ=ロバト章がラサマ大臣の柩に授けられました。そのあと各党の国会議員代表が弔辞を述べました。なかには涙で言葉を濡らしながら“同志”に別れを告げる議員もいました。そしてタウル大統領も弔辞を述べました。わたしはラジオ中継でこの模様を聴いていましたが、さかんに耳に入る言葉は「安らかに眠れ」でした。大統領の弔辞もその言葉で締めくくられました。

ちなみに、各党の代表が弔辞にテトゥン語を用いたのにたいし、大統領はポルトガル語でした。5月20日の「独立回復」記念式典ではただ一人の演説者である大統領はテトゥン語を使用していましたが、この二つの公用語の使い分けに何か意味があるのだろうか……ちょっといまのところわかりません。

午後3時半ごろ再び国歌が流れ、国会での葬儀は終了しました。次に政府・遺族そして一般関係者たちはメティナロに移動です。首都の中心地からメティナロへは、普通に車を走らせると1時間以内で着く所ですが、集団移動となると車でもおよそ60分以上はかかることでしょう。

メティナロにある英雄墓地での埋葬式は午後5時20分ごろ始まり、わたしはこのときにはもうベコラの滞在先に帰宅し、今度はテレビ中継を見ることができました。それにしても、メティナロには軍の中心施設がある場所とはいえ、一般庶民が簡単に足を運べない不便な所になぜ英雄墓地を建てたのやら……墓地建設当初から疑問に思っていましたが、実際に国葬がおこなわれるときの不便さをみると一層この想いを強くします。

シャナナの重厚な存在感

 メティナロでのテレビ中継を見ると、前首相のシャナナ=グズマン計画戦略投資相(以下、投資相)の姿がありました。5月20日、アイナロでおこなわれた大統領府主催の「独立回復」記念式典には姿をみせなかったシャナナ投資相ですが、ある意味では独立式典よりも大掛かりで中央集権型のこの葬儀にシャナナ投資相は出席しました。シャナナ投資相は、ラサマ教育相とフィリピン女性・ジャクリーンさん(アメリカで教師をしている)とのあいだにもうけた男の子・ハドミ君(アメリカに留学中)の隣に座り、涙ぐむこの子の肩をさかんにさすり慰めていました。テレビ中継はこの子を映しているつもりだとしても、テレビカメラはシャナナ投資相にひきつけられるような気がします。英雄墓地の埋葬式で最後の弔辞を述べたのは、つまりラサマ大臣の国葬の最後の最後に登場したのは、タウル大統領でもなくルイ=デ=アラウジョ首相でもなくシャナナ=グズマン、この人でした。やはり国の政(まつりごと)にこの人の存在はまだまだ欠かすことができないようです。

 シャナナ投資相は原稿を読まずに、涙をこらえて踏ん張るようなおなじみのシャナナ節とでもいおうか、詩を吟唱するような独特の口調で弔辞を述べました(テトゥン語を使用)。シャナナ投資相からの最後の別れの辞はこうでした―「ラサマよ、おまえは逝ってしまった。おまえがいるところで他の戦士たちとともに、生きていくわれわれがこの領土とこの人びとへのよき奉仕者となるように見守ってくれ」。

 シャナナ=グズマンの重厚な存在感は東チモールの変わらぬ“風景”だと感じる一方で、これまではそのシャナナの隣に必ず寄り添っていたカースティさんの姿がないことが時の流れ、東チモールの“風景”の変化を感じさせます。シャナナ投資相と離婚したオーストラリア人のカースティさんは帰国中とのことです。

 大統領夫妻・首相夫妻が埋められた柩に土をかけ、要人・遺族そして一般関係者が柩に土をかけラサマ大臣を埋葬し、国葬は終わりました。

懸念される緊急医療態勢の不備

 喪と週が明けた6月8日、政府機関の建物に掲げられる国旗は正常の位置に戻りました。個人の家や商店に飾られる旗もほとんどが元に戻っていました(なかには反旗のままのもあった)。ただし党首を失った民主党は40日ものあいだ喪に服することにし、党事務所前に掲げられる国旗・党旗は反旗のままでした。

 民主党は2001年6月10日に結成されたので、喪に服するなかで結党14周年を迎えることになりました。党としての喪が明けてから正式に党首を選出することにし、それまで党書記長で前の農水大臣だったマリアノ=アサナミ=サビノ氏が臨時の党首を務めることになりました。故ラサマ党首の次の地位にあるのがアサナミ氏ですが、大臣経験者とはいえ影が薄いことは否めません。看板である党首なきあとに党の勢いが萎んでしまう例をわれわれは故シャビエル=ド=アマラル氏のASDT(チモール社会民主協会)でみているだけに、民主党の今後が心配されます。シャナナ投資相を党首とする与党第一党CNRT(東チモール再建国民会議)でさえ、もしシャナナ氏がいなくなればと想像するに党存続の危機に陥るのではないかと懸念されます。その点しっかりしているのは40年以上の実績をもつフレテリン(東チモール独立革命戦線)ということになるでしょうか。しかし民主党は若い人たちが多い集団なのでASDTとは違った展開を見せるかもしれません。

 さて、故ラサマ大臣の国葬から週が明けると新聞記事にはたんに故人を偲ぶ記事ではなしに、緊急医療態勢の不備を懸念する記事も載せました。『インデペンデンテ』紙(2015年6月10日)によると、教育・保健問題を議論する国会内作業部会において、国立病院は医療機器や専門医の不足からラサマ大臣を救えなかった、これはラサマ大臣だけの問題ではなく同じ事態になったときに患者の命を救う態勢がこの国に整っていない、と緊急医療態勢の不備が憂慮されたとのことです。

 この記事はラサマ大臣が倒れて亡くなるまでの経過をやや詳細に報じています。それによると――6月1日のお昼ごろコバリマ地方で倒れデリの国立病院に運ばれたのが午後3時、病院側は専門医師がいないので治療はできなないとして、まずオーストラリアにラサマ大臣のスキャンデータを送信して大臣を同国に搬送することを打診したが、オーストラリア側からすでに重体であることから(すでに手遅れという意味か)拒否され、次にシンガポールに連絡したところ、シンガポールから医者を乗せた飛行機が東チモールに到着したのは翌日明け方の5時20分ごろ、ラサマ大臣を診た医者はもう手の施しようがないと判断し、搬送をせず息を引きとるのを見守った――という経過だったということです。

 初めラサマ大臣をシンガポールへ搬送することだけが報じられたので、一刻を争うときになぜ最寄りのオーストラリア・ダーウィンへの搬送を試みなかったのだろう、2008年2月11日、ラモス=オルタ大統領が反乱兵士に撃たれて重症を負ったときそうしたではないか、とわたしは不思議に思いましたが、やはりその試みはされていたようでした。オーストラリアとシンガポールの対応の違いは何に原因があるのかは知る由はありませんが、政治的要素のないことを願います。

 東チモールから直行便に乗って、オーストラリアのダーウィン、インドネシアのバリ島、シンガポールへ飛ぶことができます(1941年には、パラオを中継地点として横浜まで直接飛べた)。ダーウィンへは故リカルド神父が入院治療しましたが、最近は政府要人はシンガポールへ治療しに出かける傾向にあります。シンガポールのほうが“敷居”が低いのでしょうか。いずれにしても一般庶民にはかなわぬ贅沢です。しかし海外に飛ぶ余裕のない一刻を争う緊急事態のとき政府要人とても国内の医療態勢の不備の犠牲者となってしまうことをラサマ大臣の件で政府は身をもって実感したことでしょうし、実感しなければなりません。

具体的な取り組み姿勢をみせる政府

 2月に発足した第6次立憲政府の教育大臣としてわずかな期間でしたが、ラサマ大臣はコバリマ地方で倒れるまで地方をまわり教師と対話するなかで、教育の現場への具体的な発言をしていたことは、ラサマ大臣の業績といえます。

これまでは教育にかんする話題といえば、学校設備(机・椅子がない、屋根から雨漏りがするなど)、給食(食中り、栄養の問題など)、あるいは言語問題(ポルトガル語を生徒は理解できない)などにかぎられていましたが、しだいに教師の質、生徒の態度も含まれるようになり、ラサマ教育大臣は一歩踏み込んだ具体的な話題を持ち出したのは手柄です。

 『チモールポスト』(2015年5月29日)の記事にこうあります。「社会問題調整担当大臣を兼任するフェルナンド=ラサマ=デ=アラウジョ教育大臣は、東チモール国内全校にたいしてある規則を発した。それは生徒が校内で悪い言葉を使うことを禁ずるものである」。言葉遣いの校則とは、悪い言葉遣いをした生徒にたいし教師はまず注意をし、それでも言葉遣いが直らなかったら次に生徒を呼んで(たぶん教員室に)注意をし、それでもだめなら親を学校に呼んで注意をするというものです。この校則の善し悪し、効用がいかほどのものか、そして校則で生徒を縛るのは画一的な人間形成につながるという成熟した社会からの聞こえてきそうな教育評論もちょっと棚におかせてもらうとして、東チモールにおいて少なくともより良い教育現場の実現を目指す具体的な実践の試みがされるという意味で画期的なことといえます(ちょっと大袈裟かな?)。また大臣は女生徒が口紅やイタリングなどの化粧や飾りに学校で興じるのもだめだとも発言していますが、これも校則なのかどうかはこの記事ではわかりません。

304 1

写真1
『チモールポスト』(2015年5月29日)より。「教育大臣、生徒に悪い言葉遣いと化粧を禁ずる」。

 例えばわたしの滞在先の家の娘さん(日本でいえば中学2年生)の通う学校では、授業中の私語の多さはとやかましさは先生を困らせていて、注意されても生徒は先生のいうことを聞かず、授業にならず、先生が生徒を殴る、生徒が反発する……といった問題があるといいます。ひとクラスの生徒数の多さもまた問題です。この娘さんに教室の生徒数をきくと、35人、これは東チモールのひとクラスの人数としては格別に恵まれた数字です。この娘さんの弟(小学生5年生)は50人以上、ある中学校の教師からきいた話では、なんと100人ほどだが来ない生徒がいるので実際は80人ぐらいだといいます。大学の講義ではないのだから、この大人数で小・中学校の授業をされては生徒も先生もつらいはずです。言葉遣い・私語の問題はこの状況が諸悪の根源かもしれません。

 現在発生している問題に、これまでのように机上の論理のような外野席からの発言ではなく、具体的な取り組みをみせたラサマ大臣の姿勢は新しさがあります。なお、これはラサマ教育大臣にかぎらず、ルイ=デ=アラウジョ政権全体の傾向として見ることができ、ちょっとわたしはいい意味で驚いています。例えば、公共の場での喫煙を禁ずるというお触れをこのたび政府は出しました。タクシーの運転手は運転中の喫煙は禁止されました。喫煙は大人だけでなく制服姿の生徒にも浸透する深刻な問題です。公人として有名なヘビースモーカーはシャナナ投資相です。シャナナ投資相が公共での喫煙をしないか目を見張りましょう。なんでも禁止令を出せばよいものでもありませんが、これまでとは一味違う行政の傾向には期待を寄せたくなります。

304 2

写真2
みんなで渡れば怖くない…? 危なっかしくて見ている方がハラハラする。ファロル地区から下校する生徒たち。この子たちの教室には何人の生徒がひしめいているのだろうか。マンダリン地区付近の「祖国殉教者大通り」にて。2015年6月2日、ⒸAoyama Morito

~次号へ続く~

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5442:150625〕