――八ヶ岳山麓から(150)――
ここに紹介する『あれは何の足音だ?』は、著者宮里政充の、本ブログ「リベラル21」・雑誌『全作家』・郷土誌『越地誌』に寄せたエッセイをまとめた「私家版」である。「まえがき」によれば、彼は安倍政権が憲法を蹂躙して、日本の平和と安全が危機に瀕している現状にたまりかねてこの本を作った。
宮里は、沖縄本島北部の国頭郡今帰仁村字越地(くにがみぐんなきじんそんあざこえち)で生まれ、6歳そこそこであの沖縄戦のさなか山中をさまよい洞窟に隠れ、敗戦後もカタツムリなどを食いながら生き延びた人間である。
彼の兄たちが研究制作した「家譜」によると、彼の家は明末清初の1617年に中国福建省から琉球へわたってきた「陳華」という人物の末裔である。私はそれを聞いたとき、彼が小柄なのは中国南方人の遺伝子によるものとただちに納得した。
まず彼は日本が沖縄にどう対処してきたか語る。( )内は阿部。
――1609年(関ヶ原の戦いから9年)、薩摩は3000人に及ぶ船軍をもって「琉球征伐」をおこない、琉球王を拉致し、開幕したばかりの徳川家康に謁見させた。
1879(明治12)年警察と軍隊合わせて400人が首里城に乗り込んで「琉球処分」(廃藩置県)を強行して琉球王朝を崩壊させた。
第二次大戦では沖縄上陸戦による住民4分の1の犠牲を強いた。
30年近くのアメリカ統治のあと、本土復帰(1972年5月15日)後も米軍基地を存続させ、ベトナム戦争時には沖縄に米軍の中継基地の役割を果たさせた。
さらに安倍内閣は、沖縄を米軍の軍政下においたまま日本が主権を回復した4月28日を「完全な」主権回復の日として祝い、さらに今度は新たな基地の建設をもくろむ……。
わかりきったことを繰返すのは教師上りの悪い癖だが、ひとこと。
「琉球処分」とは、明治政府が琉球を強制的に近代日本国家に組込んでいった一連の政治過程。1872(明治5)年琉球藩設置に始まり、79年の沖縄県設置に至る過程をいう。これによって琉球王国は滅びた(三省堂『大辞林』)。
琉球は清国へも朝貢していたから、日本は1880年清国と領土交渉をした。明治政府は「沖縄諸島以北を日本領とし、宮古・八重山諸島を清国領とする」と提案(いわゆる分島・増約案)したが、清国側は「奄美大島以北を日本領とし、沖縄諸島を独立させて琉球王国を復活させ、宮古・八重山は清国領とする」という案であった。この交渉は調印に至らず、結局1894~95(明治27~28)年の日清戦争における日本勝利によって、琉球列島はすべて日本領というのが既存の事実となった(本書p10の記述は引用の仕方に疑問がある)。
そして時はたち、2014年1月名護市長選挙のとき、自民党石破幹事長は500億円の「名護振興基金」を引っ提げて辺野古移転賛成の末松候補の応援にやって来た。移転反対の稲嶺氏が当選すると基金構想をたちまち引っ込めた。公金で公然と買収しようとしたのだが、これは沖縄人を怒らせた。
「日本政府はこれだけの歴史を背負わされた沖縄県民が、沖縄人としてのアイデンティティーを求めて立ち上がらないとでも思っているのか?」
度重なる差別と蔑視に耐えかねて、沖縄独立の気分が湧き出したことについて宮里はこう書く。
――まず、沖縄人は独立を具体化する前に、足腰のしっかりした理論武装と、したたかな抵抗力を身につけなければならない。沖縄独立への動きはまだ産声を上げたばかりだが、「ここに奇跡の国沖縄あり」と高らかに謳いあげられる日が来ることを切に願うものである。
そして「私の祈りはこれである」という。
筆者が中国に滞在していたとき、民主党内閣の拙劣な外交によって尖閣問題が先鋭化した。中国では人々が「反日」に湧き立った。大小の歴史研究者がにわかに「琉球問題」をあちこちに書き始めた。私に「(尖閣だけでなく)沖縄は日中どちらのものと考えるか」と詰問する人もいて、私は「どちらのものでもない、沖縄人のものですよ」と答えたことを記憶している。
2013年5月になると、「人民日報」「環球時報」などは「琉球処分」の交渉経過を奇貨として「歴史的な懸案にして未解決の琉球問題を再び論議できる時が来た」と小躍りしているような論説を掲げた。
これについて宮里は「この主張に対してはとても賛成できない」という。いくら琉球が日清の「両属国」だったといっても、沖縄には日本人として生きた百数十年の歴史がある。宮里は将来沖縄が独立することはあっても、沖縄が中国に属する可能性はないという。
さて、肝心の基地問題だが、宮里の主張はこうだ。
――本土の人たちは沖縄の異常な基地負担に同情はしながらも「他人事」で今日まで過ごしてこられた。米軍基地は、米軍政下の沖縄に静岡や岐阜などから移転したものである。なぜ沖縄にもってきたか。本土人の抵抗が激しかったからである。米軍基地が沖縄に集中するのは沖縄に対する地域差別があるからだ。
そして沖縄に米海兵隊がいる不合理をこう指摘する。
「沖縄の海兵隊が北朝鮮や台湾海峡を同時に警戒し対処する上で好位置にあるとする日本政府の説明も、地図で距離関係を測るまでもなく説得力に欠ける。沖縄海兵隊の本隊は長崎県佐世保港にある。沖縄には輸送手段である艦船も輸送機もない。したがっていざ出撃となったとき、艦船が佐世保港からたどりつくのを待ち、輸送機が米本国から飛んでくるのを待つしかない」
沖縄海兵隊の抑止力効果については、3月29日朝のNHK日曜政治討論会で元防衛大臣・森本敏氏と元内閣総理大臣補佐官・岡本行夫氏が「軍事的には沖縄海兵隊の沖縄駐留が唯一の抑止力ではなく、辺野古移設は政治的な選択の問題である」と語っている。
ではなぜ海兵隊が1800人もいるのか。日本政府がグアム全面移転をひきとめたからである(詳しくは、新外交イニシァティブ編『虚像の抑止力――沖縄・東京・ワシントン発安全保障政策の新機軸』、屋良朝博『誤解だらけの沖縄・米軍基地』いずれも旬報社)。
期せずして、宮里と同じ趣旨のことを元防衛研究所長・内閣官房副長官柳澤恭二はこういう。
――本土の基地は日本がアメリカに従属していることの象徴になっていた。(19)60年代から70年代にかけて、それを沖縄にもって行く。本土では目に見えないものになった。米軍がなぜ沖縄に集中したか。
それは基本的に地域差別の問題である。日本の辺境沖縄に押付けて、矛盾を局部化してしまう。沖縄の中では普天間という街の真ん中の人口密集地から辺野古という人口の少ないエリアに移せば危険性は減るという論理だ。かくして差別の局所化がどんどん進む(『自分で考える集団的自衛権』青灯社)。
さて、本書の3分の1は、琉球方言と琉歌と戦争体験である。彼は1999年『吉屋鶴幻想』(菁柿堂)を著して、琉球の方言と文学と音曲・舞踊を我々に紹介した。本書にもその研究成果が一部紹介されている。
吉屋鶴は遊女である。宮里はこのまぼろしの遊女のものとされる歌をとりあげ琉歌を論じた。たとえば吉屋鶴が漂泊のわが身を嘆いた歌。
「寄る辺無いのものや 海士の捨て小舟
着く方ど頼む 繋ぎたばうれ」
これを首里方言に近く読むとこうなる。
「ユルビネンムヌヤ アマヌスィティウブニ
ツィクカタドゥタヌム ツィナジタボリ」
大和古語に置きかえると、
「寄る辺無きものは 海士の捨て小舟
着く方ぞ頼む 繋ぎ給われ」
私が以前「アイヌ語が滅びたように、琉球方言も権力によって滅びる」といったとき、彼は「琉球には漢字と仮名による「『おもろさうし』のような記録文学が存在した。その点アイヌ語が口承文学しか持たなかったのとは異なる。現状からすれば琉球方言は失われてはいない」といったことがある。
宮里は琉球方言と琉球文化をこよなく愛し、これを誇りに思っている。彼が日米関係、日本政治の不条理を論じるとき、よって立つところは沖縄の歴史であり文化である。そして我々も今沖縄を抜きにしては、平和と安全を語ることはできない。
宮里政充 メールアドレス sanramyp0014@yahoo.co.jp
本書頒布価格 700円
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