チッソの逃亡と政府の対応
1973(昭和48)年5月、夜逃げをしたチッソ本社は都内にアジトを分散させ、驚くべきことに一月以上にわたって雲隠れを続けた。川本らと告発する会はも抜けの殻となった丸の内東京ビルの4階オフィスを占拠し続けた。6月下旬になってようやく湯島一丁目の小さなビルにアジトのひとつを発見したが、川本ら30人が同ビルに押しかけ交渉再開を求めても「交渉は水俣でやってくれ」と返すのみであった。
チッソ逃亡直後の1973(昭和48)年5月9・10日、三木武夫環境庁長官は水俣を訪問した。患者宅を訪れ、ユージン・スミスの写真で有名になった上村智子を抱いた三木は、記者会見で不知火海全域の健康診断の実施を約束するなど、積極的な姿勢を示した。
この時期、チッソは創業者野口遵の弟で画家の駿尾(しゅんび)の息子である朗(あきら)を代表権のある専務に昇格させた。野口朗は創業者の血筋を引く東京工業大学出身の技術者でありながら、帝大出の朝鮮技術者組から冷遇されていたひとりであった。
チッソの雲隠れが続く中、交渉団は衆議院議員馬場昇に助けを求めた。馬場は三木武夫環境庁長官に交渉再開への協力を要請。三木と馬場がチッソに意向を確認すると「これまでの主張を変えるつもりはない」と回答、水俣での交渉を要求してきたため、再び膠着状態となった。
第三水俣病の発生と水銀パニック
チッソはこうして時間を稼ぎ時局の好転を待っていたかもしれないが、この年チッソには向かい風しか吹かなかった。その最たるものが「第三水俣病」であった。
1971(昭和46)年6月、熊本県の委託で発足した「熊本大学医学部10年後の水俣病研究班」(1956年発足の研究班に対して別名「熊大水俣病二次研究班」とも呼ばれる)は、当初3年計画であったが、県の要請により研究2年目の報告書を1973(昭和48)年5月22日に提出した。
調査対象として、最も濃厚な有機水銀汚染地区と考えられていた水俣市の月浦・出月・湯堂と御所浦島の嵐口(あらくち)が選ばれた。その対照地域(比較するための汚染が無い地域)として天草上島有明町の赤崎・須子(すじ)・大浦の住民が選ばれた。(有明町はかつて上天草島に存在した町)調査結果は以下の通りであった。
- 水俣:水俣病275名、疑い38名
- 御所浦:34名、31名
- 有明:8名、2名
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有明海に面し、有機水銀汚染が無いはずの有明で患者が発見されたことは衝撃的であった。有明地区患者8人の内訳は、定型的水俣病と全く区別できないもの5名、一応水俣病と同様とみられるもの3名、疑いとみられるもの2名の他、保留とされたものが9名いた。
この報告書の内容を発表前日の5月21日に熊日新聞夕刊が、翌日朝刊で朝日が一面トップで黒地白抜きで「有明海に第三水俣病」の見出しを載せた。
そのあと6月に入ると、水俣病疑いのある患者が発見されたという記事が宇土半島、大牟田、そして九州を出て徳山湾、新潟の関川と続いた。また、環境から高い水銀値が出たという記事も全国で雪崩をうった。それらの付近ではたちまち魚が売れなくなった。日本中がいわゆる「水銀パニック」状態となったのである。
パニックの背景
国民には新潟水俣病の記憶が新しかった。熊本水俣病の原因が明らかであったにも関わらず政府がそれを認めず長年も何ら処置を取らずにいたところに新潟で第二の水俣病が起こった。これでは第三の水俣病が起こっても不思議ではないと思うのは当然だった。
また、疑われた工場の地元の多くは、高度経済成長時代から海は見た目も悪臭もひどく、赤潮が常態化し、魚類の奇形が多く見られていた。すでに漁協が補償を求めているところもあった。また海洋だけでなく日本中で大気汚染もひどく「公害列島」と言われているほどだった。
熊本大学第二次水俣病研究班とは
研究班は、1971(昭和46)年3月の川本輝夫ら未認定の水俣病患者からの行政不服審査請求を契機として6月、熊本県知事からの委託に基づいて発足した。班長は熊本大学医学部の武内忠男教授で、主な目的は以下の三点であった。
- 水俣湾を中心とする不知火海一帯の有機水銀汚染の実態の徹底的な調査
- 有機水銀汚染との関連における健康障害の実態の実証的解明
- 従来の病像や診断基準を見直すのに必要な基礎的知見の提出
当初は1974(昭和49)年の報告提出を予定していたが、1973(昭和48)年の春に熊本県は早期提出を求めた。この時期は、3月20日に水俣病第一次訴訟で原告側の勝訴が確定し、チッソの賠償責任が明確化した頃であった。既に勝訴判決が高い確率で予測されていた1月には、患者家族141人が水俣病第二次訴訟を熊本地裁に提訴し、4月には環境庁長官への行政不服審査請求が相次ぐなど、認定基準の曖昧さが批判の的となっていた。こうした司法・行政の緊迫した状況が、研究班に対する早期報告の圧力となった。
電光石火の政府対応 ⇒ 基準値の設定
報告書発表直後の1973(昭和48)年5月25日、政府は7項目の緊急対策を打ち出し、6月14日には水銀汚染等対策推進会議を設置した。問題水域における環境調査と健康調査の実施、魚介類の暫定水銀許容基準の検討を急ぎ、報告からわずか1ヶ月ほどの6月24日、魚介類の水銀汚染濃度基準は、総水銀で0.4ppm、メチル水銀で0.3ppmと定めた。この「暫定」基準は50年以上経った現在も変更されていない。
この基準値によって、水銀汚染の疑いのある水域の環境調査がすぐに実施され、環境調査の結果総合評価を待つまでもなく、きわめて短期間のうちに次々と「安全宣言」していった。7月初旬には各地の海産地では活気をとりもどしていく。
水銀法苛性ソーダ製造の禁止
当時、アセトアルデヒド製造は国内ですべて創業を停止していたが、塩化ビニル製造は4社4工場が稼働中。苛性ソーダ製造は日本のすべての工場が「水銀法」を採用していた。
政府は1973(昭和48)年6月14日、第一回水銀等汚染対策推進会議で水銀法による苛性ソーダ製造の禁止を決定した。この素早さは政府の危機感を現していたといえる。業界は猛烈に反対したが、環境庁長官三木武夫が押し切った。三木が新潟水俣病の原因企業である昭和電工創立者の娘を妻としていることは無関係ではなかろう。
「水銀法」とは食塩水を電解して苛性ソーダを得る方法で、水銀を陰極として使用する。この工程で大量に発生する水銀残渣の多くは海洋投棄されていた。アセトアルデヒド製造と異なり、工程中に水銀のメチル化は起こらないが、環境中で微生物によってメチル化することが水俣病の発生を契機として研究が本格的に進められ、そのころ認められていた。
漁民の蜂起と補償要求
九州
政府が「安全宣言」を急いだ背景には、漁協が一斉に補償要求に立ち上がった背景があった。
1973(昭和48)年6月6日、熊本、福岡、長崎、佐賀県の有明・不知火両海沿岸漁民漁協が不知火海水俣病対策特別委員会(三〇漁協)を組織した。漁民6000人(水俣市漁協は不参加)、漁船600艘による海上デモを展開し、日本合成(宇土)、三井東圧(大牟田)、チッソ(水俣)に対して補償を要求した。水俣では総決起大会が開かれた。
6月25日、三井東圧と日本合成は漁協のつなぎ資金として15億円の要求を受け入れ、排水の浄化も約束した。
徳山湾
徳山湾では漁民が海上封鎖を行い、東洋曹達と徳山曹達の専用港を1ヶ月にわたり封鎖して操業中止を求めた。両社は休漁補償として各漁協組合員一人当たり1日1万円を支払い、捕獲魚を全量買い取り廃棄処分した。東洋曹達は、徳山湾に堆積した水銀ヘドロの除去作業を行った。
新潟
新潟では漁民組織による補償要求運動に発展する動きは確認できない。
沼垂診療所の齋藤医師が、信越化学、日曹、ダイセルの3工場が集中する関川村の16名の診察を行い、水俣病類似症状を認めた。
風向きの変化と沈静化
6月下旬に暫定基準値を設け各地の安全宣言を行ったことを機に風向きは逆転し、急速な沈静化が広まった。パニックの特性である。
1973(昭和48)年7月1日、九州大学医学部神経内科グループが、大牟田で発見された水俣病疑い患者について、検診で水俣病ではないと判定した。
有明町の患者の診察を依頼された熊本大学医学部第一内科の徳臣晴比古も、「臨床的に水俣病とはいえない」と主張。これを巡って第二次研究班の立津政順教授らが、徳臣グループと激しく対立(実は1971年8月の環境庁裁決以来、医学部内にこの対立はくすぶりつづけていた)。
新潟の関川では7月2日、当時新潟水俣病認定審査会の会長であった椿忠雄を現地に招き「水俣病類似患者」と名前の上がった(11名中)10名の検診を行った。1人につき約10分という極めて短い時間で検査され、全員「水俣病ではない」と結論した。
水俣病補償協定の締結
第三水俣病と水銀パニックの発生により、チッソは新たな漁業補償問題を、環境庁は水銀パニックを解決する必要に迫られた。そこに馬場昇が仲介役として鋭く切り込み、交渉団(患者)とチッソと環境庁との三者交渉が実現。1973(昭和48)年7月9日、環境庁で補償協定の調印が行われた。
社長の島田は入院中ということで、代わりに代表権を持つ野口朗が出席した。協定内容は患者の要求をほぼ全面的に受け入れたものとなり、死に体となったチッソには「ポツダム宣言受諾」に等しいものであった。創業者の甥がそこに調印し、自立的な企業としてのチッソは終わった。
立会人として三木武夫、沢田一精熊本県知事、馬場昇、日吉フミ子の4人が名を連ねた。
熊大研究班から環境庁の委員会へ
1973(昭和48)年7月21日、環境庁は水銀汚染調査検討委員会を発足させ、住民検診をはじめとする「第三水俣病」に関する研究をすべて同委員会に統合した。熊大二次研究班を研究から除外した。二次研究班は、その後の有明町の追跡調査も、発生源と目された日本合成宇土工場に近い漁村の臨床疫学調査も、一切実施できなくなった。
8月17日、政府の 水銀汚染調査検討委員会・健康調査分科会(分科会会長は椿忠雄新潟大学教授)は「少なくとも現時点では水俣病の疑いはない」と結論。
そのあと熊本大学医学部は緊急教授会を開き、有明地区の2名の類似患者は定型的な症状が「そろっていない」ことを理由として「健康調査分科会のシロ判定を尊重する」という教授会見解を発表した。臨床上の大きな理由として「四肢末梢の感覚障害のみで、運動失調や視野狭窄などの神経学的徴候を欠く」とした。医学上争いのある問題について、一大学の教授会が、医学上争いのある問題についてその真否の判定について見解を出す、という異常なことが起こっていた。
ここで重要なのは、中~軽度の水俣病の存在は無視するという政府の方針が密かに固まったことである。政府の念頭には、ひと月ほど前に補償協定で締結した賠償金の金額のことがあったはずである。この方針は現在でも堅持されている。
「第三水俣病」漁業補償問題の決着
チッソや市と結託して「漁民大会」を開催し、水俣病のせいで魚が売れなくなったとして病名変更運動に加勢し、自主交渉派の足を引っ張った水俣漁協が、1973(昭和48)年7月5日チッソにたいして1962(昭和37)年から73年までの漁獲減による損失補償等を要求してきた。4億円の補償金で和解した。
不知火海三〇漁協は7月30日、148億5000万円の補償をチッソに要求。拒否されると8月7日から750人の漁民を動員して工場封鎖を行った。陸上では約500人が工場の各門や鉄道引込線入口にテントを張り座り込んだ。これにより8月20日に水俣工場は全面操業停止した。
これに対し、チッソ側は「水俣を明るくする市民連絡協議会」を名乗り新聞にビラを折り込んだ。漁民の座り込みテントには夜間に汚物が投げ込まれた。4億円で和解した水俣漁協はチッソ側につき(自主的に禁漁しているのに)「漁をしたいのに迷惑だ」と海上封鎖の解除を訴えた。
一連の動きを見て全漁連(全国漁業協同組合連合会)が三〇漁協への支援を表明。東京のチッソ本社、五井工場、日本興業銀行にも封鎖をかける計画を立てた。チッソ第一組合と合化労連(合成化学産業労働組合連合)もそれを支援する決定をした。8月17日、三〇漁協闘争支援組合員大会を開催した。8月24日から五井工場と日本興業銀行の封鎖行動を予定した。
しかし東京の全漁連が動いたことで、興銀・チッソにとって切り崩しが簡単になった。全漁連は封鎖計画を中止した。漁民の闘争は一気に下火となった。
三木武夫長官と沢田知事の仲介により交渉が再開された。交渉は長引き、三〇漁協22億8000万円、鹿児島県漁協は7億2960万円で決着した。
その他鮮魚組合などの補償もかさみ結局「第三水俣病」でチッソが支払った補償金額は39億3000万円にのぼった。
「第三水俣病は存在しなかった」
翌年1974(昭和49)年4月、環境庁の水銀汚染調査検討委員会の健康調査分科会は有明町の8人の合同検診を行い、水俣病ではないと最終結論した。
徳山の患者疑いの3名についても同分科会が74年7月12日、水俣病ではないと判定した。
5月30日には新潟県衛生部が関川水系の漁民ら3300人を検診。水俣病の疑い無しと断定。
1973年の8月から1年間のあいだにすべての疑わしい地域の症例が否定された。
74年4月、熊大二次研究班の武内忠男(1959年7月に水俣病の「有機水銀説」を立証した)をはじめとした、それまでは認定を積極的に推進していた主なメンバーは責任をとらされて水俣病審査会を外されたかたちで辞任した。
環境庁の水銀汚染調査検討委員会の環境調査分科会は全国9水域の調査を行った。1973年11月に公表され魚介類の水銀規制値を超えるものが水俣湾と徳山に見られた。それで水銀除去工事は水俣湾と徳山湾で行われることになった。
第三水俣病がもたらした影響
事後、報道に関与した新聞の多くが「誇大な新聞報道が水銀パニックを招いた」と反省したが、むしろ事後の検証をしっかりせずに「実体のないもの」として政府の結論を追認してしまったことこそが問題であった。「第三水俣病」は現在「無かったもの」と定説化している。
しかし明らかに水俣病の症状を抱えた患者が実在していた事実がある。医師の原田正純はのちに、問題となっている地域住民の健康調査や汚染の実態調査=疫学的調査の必要性を説いた。熊大第2研究班も、対立した第一内科も、有明地区以外の非汚染地区を対照に疫学調査を重ね合わせて判定するという方法をとっていない点では同じだった。疫学調査の重要性を先に学んだのは行政だった。疫学的な調査を限定すれば公害事件の封印が可能なことを学んだのである。
公健法の制定
公害被害者への補償は1969年に制定された「救済法」が適用されたが、補償が公害被害による医療費等に限定され、健康被害者の逸失利益に対する補償がないことから、新たな法制化を検討していた。
1973(昭和48)年に「公害健康被害の補償等に関する法律」が制定された。より多くの公害事例を対象とし、疾患の種類や範囲が明確に規定され、原因企業からの資金供給が義務付けられた。
(詳しくは別途書きたいと思う)
判断基準の再設定「77年判断条件」
1973年に補償協定が結ばれると、熊本県には1年に1900件を超える認定申請があった。審査が追いつかず、申請者から訴訟を起こされた。1977年には県議会が認定業務を国に返上することを決議した。
環境庁は1975(昭和50)年、1971年の事務次官通知による「認定要件」を整理するためとして、椿忠雄を中心とし、熊本県、鹿児島県、新潟県の認定審査会委員らの医学者ら17名による認定検討会を設置した。
1977(昭和52)年7月、ついに政府は1971年の事務次官通知による「認定要件」を改める「後天性水俣病の判断条件」を環境庁環境保健部長通知として示した。これはいくつかの症状が重ならなければ水俣病と認めないとするもので、71年より前の〈マル秘〉だった認定基準に先祖返りするものだった。
これ以来、水俣病認定は極めて厳格なものとなり、ほとんどの患者が棄却される制度となって現在に至っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1346:250219〕