新潟阿賀野川流域で新潟水俣病を発生させた昭和電工(現・レゾナック)。その企業としての成り立ちと、事件発生に至る歴史的背景を探る。
創業者 森矗昶:房総の漁村から財界へ
森矗昶(もり・のぶてる)は、1884(明治17)年10月21日、千葉県夷隅郡守谷村(現・勝浦市)生まれ。網元であり、海産物加工や雑貨販売を営む森為吉の長男として生まれた矗昶は、進取の気性に富む父の影響を強く受けた。
矗昶は小学校卒業後、父の始めた「かじめ焼き」事業を手伝う。かじめ焼きとは、海藻の搗布(かじめ)から沃度灰を作る作業であった。
矗昶は1900(明治33)年に母を亡くし、中学進学を断念。勝浦の池平粗製沃度工場で見習い工として技術を習得し、同年、父が稼働させた粗製沃度工場を任され、昼夜を問わず働いた。
1905(明治38)年、矗昶は総野村(現・勝浦市)の豪農、山口家から妻を迎える。仲人は後に事業を共にする安西直一だった。安西の次男・正夫は後に矗昶の長女と結婚し、昭和電工社長として新潟水俣病事件の渦中に立つ人物となる。ちなみに正夫の長男は日清製粉社長・正田英三郎の次女と結婚、正田の長女は上皇后美智子である。また、矗昶の次女は三木武夫の妻睦子である。
軍需が生んだ成長:ヨードと火薬
沃度灰から抽出されるヨードは、負傷兵の治療に不可欠な消毒薬の原料として、重要な軍需製品だった。専売制になる以前は、副生物の塩も抽出していた。また、搗布などからは火薬の重要な原料である塩化カリウムも抽出された。
火薬の酸化剤である硝酸を安定させ、爆発時に酸化剤として機能させるのがカリウム成分である。アンモニア合成技術確立後も、火薬製造にはカリウム成分が不可欠であり、その主な原料が日本の場合は搗布だった。
森の事業は日露戦争で順調に進展した。しかし戦後の景気の落ち込みがあり、安西直一とともに千葉県内のヨード業者をまとめ、1908(明治41)年、総房水産株式会社を設立。ヨード事業を拡大した。
森は植民地に進出せず国産主義だったことは後述するが、豊富な海藻資源を求めて済州島(1928年 朝鮮沃度株式会社)と樺太(1927年 樺太沃度合資会社)には進出した。
樺太の海藻は良質でヨード抽出率が高く、済州島もまた良質な海藻が採れた。特に済州島は海女漁業が発達しており、森はそこに目を付けた。朝鮮では李朝時代より女性の裸潜は禁止だったが、済州島では古くからの伝統漁法として例外的に許されていた。軍需資源としての海藻の需要が高まる1930年代には、1700人を超える済州島の海女が日本へ出稼ぎに出たという。
電力事業への参入:鈴木三郎助と東信電気
第一次大戦後の不景気で落ち込んでいたヨード産業から森を時代の上昇気流に導いたのは、関東のヨード産業で先鞭をつけていた鈴木三郎助(のちに「味の素」を創業)であった。鈴木は館山のヨード工場を森に譲渡するなど、以前から信頼の篤い関係があった。
鈴木三郎助は初期、呉服商時代に米相場にのめり込んで身を滅ぼしたところ、たまたま知り合った大日本製薬の技師から「かじめ焼き」を勧められ、神奈川の葉山で沃度灰事業を始め身を立て直した。その後、日露戦争の需要で莫大な利益を上げた。1917(大正6)年8月には電気化学事業に進出し、東信電気株式会社を設立。長野県東信地方を流れる千曲川を中心に電源開発を開始していた。
一方、森の房総水産は戦後の落ち込みで倒産寸前にまで追い込まれてしまう。森は鈴木に泣きつき合併を懇願する。鈴木は、森の人格や経営手腕を買い、役員の反対を押し切って総房水産との合併を敢行した。そして森をいきなり東信電気の取締役に就任させる。当時、東信電気は千曲川の発電所建設を進めていたが、地元有力者との交渉が難航していた。しかし1920(大正9)年に森を建設部長に任命し現地に派遣すると交渉は一気に進展したという。ここから森は水を得た魚のように電源開発事業に邁進する。
森の手掛けた最大の電源事業は、1926(大正15)年9月に完成をみた新潟県阿賀野川の鹿瀬ダム発電所だった。堰き止め式の大型ダムによる、当時は日本一の発電規模を誇る発電所(49,500kW)だった。
電源開発から化学肥料生産へ
電源開発事業を手にした森は、野口遵のように次々と電気関連事業を展開していく。電源開発への投資後、超過供給分のバランスを取るように電力需要を創出する「シーソー方式」だった。
森の場合も野口と同様に化学肥料生産をその需要先とした。1928(昭和3)年、東信電気と東京電燈(後の東京電力)の共同出資で昭和肥料株式会社を設立し、カーバイドから石灰窒素を製造した。
アンモニア合成は、1923(大正12)年に野口が延岡で、イタリアの技術を導入し国内初の成功を収めていたが、森の昭和肥料は、国策として農商務省が開発した「東工試法」を導入し、1931(昭和6)年4月、川崎に建設した工場で硫安の製造を開始した。
川崎区扇町の工場跡地には純国産のアンモニア製造が始まった場所として、記念碑がある。
1929(昭和4)年には新潟の鹿瀬工場を建設し、鹿瀬発電所の電力需要を促進するためにカーバイドの製造を開始した。
国産アルミニウムへの挑戦
森は1926(昭和元)年、日本沃度株式会社を設立し、搗布などから医薬品や塩化カリを原料に硝石を製造して陸軍造兵廠へ納入していた。
その後世界恐慌の影響で厳しい状況に立たされる。また、マッチ原料の塩素酸カリウム工場が、海外からのダンピングで撤退を余儀なくされた経験などから、次第に国産主義に傾倒していく。
森は電力の需要を満たしつつ軍需にも適うものとして、航空機製造に不可欠なアルミニウムに着目する。しかし、国内ではアルミ鉱石のボーキサイトは産出しない。そこで代替原料の調査を自ら行った。いくつかの候補の中から朝鮮半島の木浦付近にある声山という鉱床の明礬石がよいことがわかり、それを買収した。
1933(昭和8)年11月、横浜にアルミナ工場が完成、翌年長野県大町に電解工場が完成し、アルミ生産が始まった。当時、アルミは欧米のカルテルによって価格が低く抑えられていたが、幸運にもイギリスの金本位制停止の影響で円が下落し、輸入アルミ価格が高騰。結果として、森の国産アルミは十分に競争力を持つに至り、国産化に成功した。
日本沃度は1934(昭和9)年、社名を日本電気工業株式会社に変更。1937(昭和12)年には海軍の指定工場に認定された。1939(昭和14)年に昭和肥料株式会社と合併し、昭和電工株式会社となり、化学産業における地位を確固たるものとした。
戦時下、昭和電工は軍需産業として急成長。1942(昭和17)年には長野県上田市に新工場を建設し、航空機用電装品を大量生産した。
日窒との比較:共通点と相違点
1930年代、昭和電工は、日産・日窒・森・日曹・理研の5グループとともに、新興コンツェルンとして台頭した。矗昶は、「財界新三羽烏」と称された。
森が水力発電事業に進出し、余剰電力を活用した化学工業へと事業を展開したのは日窒との共通している。しかし、日窒が自家発電を追求したのに対し、昭和電工は、1938(昭和13)年、母体の東信電氣株式会社が電力国家管理政策による電力会社統合により日本発送電株式会社(日発)に発電所を強制出資させられ、買電に依存する方向を辿った。
また、日窒が三菱を切り離し政府系金融と結託したのに対し、昭和電工は安田財閥や東京川崎財閥と強いつながりを持っていた。旧財閥は戦局の悪化を見通してからは植民地への投資を控えた。それも昭和電工が本土中心に事業展開を行った背景でもある。
森矗昶は1941(昭和16)年1月15日に急死。前年の12月には野口遵が脳卒中で倒れ引退している。戦中、戦後は両社ともに剛腕トップが不在となる点は共通している。
戦後復興と傾斜生産方式:昭電疑獄
戦後、昭和電工は制限会社等に指定され、コンツェルンの解体を余儀なくされた。しかし、植民地への進出が少なかったことから、その痛手は日窒より遥かに軽微だった。地方の諸工場は無傷であり、他の軍需大企業と比較して戦争被害は比較的軽微だった。(ただし川崎工場は日本の化学工場のなかで最大規模の空爆、その次が水俣工場だった。)
そのため、政府の進めた傾斜生産方式を担うこととなる。1948(昭和23)年までに、復興金融金庫から約26億4000万円という巨額の融資を受けた。しかし、この融資を巡って「昭電疑獄」が発覚し、芦田内閣の総辞職、GHQ内部の対立にまで発展した(GHQ内部の対立によるリーク説もある)。
1950年代、昭和電工はプラスチックや合成繊維の製造に注力し、新たな製品ラインを開発した。アセチレン合成化学のなかでも塩化ビニルを早期に中止し、酢酸系誘導体生産の首位企業となった。1951(昭和26)年、GHQの指示に基づく電気事業再編成により、事実上の自家水力電源であった東信電気の発電設備は東北電力に帰属することになった。
鹿瀬工場の歴史
阿賀野川は福島県の荒海山を源流に、新潟県へと流れる全長210kmの河川である。包蔵水力が木曽川、信濃川に次ぐ全国第3位の規模を有し、早くから電源開発が行われてきた。
新潟水俣病を引き起こした鹿瀬工場は、東信電気が鹿瀬発電所の余剰電力活用のために計画し、昭和肥料によって1929(昭和4)年に建設された。1936(昭和11)年3月、鹿瀬工場に隣接して昭和合成化学工業が設立され、昭和肥料からカーバイドの供給を受けて、水銀触媒を使ってアセトアルデヒドおよび酢酸の生産を開始した。昭和肥料は1956(昭和31)年6月、有機合成部門の強化を目指していた昭和電工と合併。翌年、昭和合成化学工業も昭和電工に吸収合併され、「昭和電工鹿瀬工場」となった。
石油化学化への参入
戦後、政府が進める化学工業の石油化において、第一次石油化学計画は旧財閥系(三井石油化学工業、住友化学工業、三菱油化)と石油会社(日本石油化学)のみが対象だった。
昭和電工は、1957(昭和32)年に昭和油化を設立し、日本石油の川崎コンビナート計画に参加することができた。この時、鹿瀬工場はアルデヒド生産設備を増設し、増産を図っていた。石油化学参入後も、鹿瀬工場はそのまま旧方式(カーバイド法)で生産を続ける計画だった。
業界が急ハンドルを切った新製造法の登場
1959(昭和34)年、西ドイツで石油(エチレン)からアセトアルデヒドを製造するヘキスト・ワッカー法が発明され、状況は一変する。この新技術は、生産効率が格段に良く、水銀を使用せず、廃棄物も少ないという利点があった。それまで、エチレン誘導体はポリエチレンで占められており、第一次コンビナート計画の5社が既にその市場を占有していた。第二次計画に参画する各社は、ポリエチレン以外の誘導体を開発する必要があった。ヘキスト・ワッカー法の登場によって、アセトアルデヒド・酢酸がもたらす広大な市場が広がったのである。
昭和電工は急遽、鹿瀬工場のカーバイド法アセトアルデヒド生産の閉鎖を予定し、川崎の計画に新方式の生産計画を組み入れ、通産省に申請した。同業他社も同様の変更を申請した。
「アセトアルデヒド懇話会」業界内調整の試み
当時、通産省は受給を調整するため「ビルド&スクラップ」を推進していた。旧式の生産方式を「スクラップ」した生産量分を、新方式で「ビルド」して良い(認可する)という方針だった。
石油化学コンビナートは、生産規模に比例して効率が大きく向上する。新製造法の登場で、申請された各社の合計生産量は需要予測の2倍近くに膨れ上がった。供給過剰は競争激化による市況悪化を招く。通産省は調整を図ろうとしたが、業界トップの日窒の吉岡社長は、1962(昭和37)年7月、「アセトアルデヒド懇話会」を同業12社に呼びかけた。
通産省による一方的な采配ではなく、懇話会における各社の自主調整によって「ビルド&スクラップ」を調整しようという目論見だった。だが、新日窒を含む数社には日本興業銀行が役員を派遣していた。同行の思惑が隠れている。
水俣では既に労働争議が始まっており、日窒の業界シェアは低下の一途を辿っていた。他の各社は、石油化後の市場獲得に必死だった。だが「市場」とは需要を超えたエチレン誘導体の消費目的にあり、基本的に各社のインセンティブは合理化(=大規模化)のほうにあったため、調整がつくはずもなかった。昭和の経済成長期の日本企業は、儲けることではなく会社の規模を大きくすることのみを目指していたのである。
懇話会の挫折と競争激化:新潟水俣病発生へ
1964(昭和39)年まで2年以上続いた懇話会は、調整案を出したものの実施されず、挫折に終わる。けっきょく業界は自由競争へと突入した。旧式のカーバイド法で生産していた企業は、償却済みでコストの低い老朽プラントを使い、可能な限り製造を続けた。
昭和電工は、川崎での計画を白紙に戻し、1962(昭和37)年5月、山口県徳山市に徳山石油化学を設立。そこでアセトアルデヒドを製造する計画に切り替えた。徳山のプラントの完成と安定生産体制が整うまで、鹿瀬工場は徳山への転換資金の蓄積と、アセトアルデヒド市場の維持のために、鹿瀬工場は老朽設備に鞭打ちながら、設計能力の120%の生産を強いた。そのため事故も頻発したという。
1965(昭和40)年1月、徳山の生産体制が整うと同時に鹿瀬工場は停止。こうして昭和電工のアセトアルデヒドは切れ目なく生産された。阿賀野川一帯には既に水俣病の兆候が現れていたため、鹿瀬工場のアセトアルデヒドプラントは全て撤去され、もぬけの殻となった。
通産省は、鹿瀬工場が閉鎖リストに入っていたことから、排水処理の改善指導を行わなかったとみられる。カーバイド法を続行する他の企業には、排水処理の改善指導を行っていた。
鹿瀬工場は、新潟水俣病が公式確認された1965(昭和40)年12月に昭和電工から分離され、鹿瀬電工株式会社となった。1986(昭和61)年には新潟昭和株式会社に社名変更し、現在も操業している。
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