水俣病が映す近現代史(34)1968年 若者たちの蜂起

1968(昭和43)年に熊本水俣病と新潟水俣病が公害認定された頃から、水俣病を取り巻く状況は一気に多層・多声的となる。

新潟が水俣病事件に突破口を開いた背景には、日本列島各地に溢れかえっていた公害問題があった。そしてそれに対して市民が立ち上がった背景にも、当時の社会や政治体制に対して多くの若者から噴出した「異議申し立て」の波があった。それは日本だけでなく世界を覆った。水俣病をとりまく状況の変化は、このときの地球規模での市民社会、とりわけ若者たちの立ち上がりと切り離すことはできない。

1968年、世界同時多発民衆運動

東京大学医学部の学生たちは、医療現場の人手不足を補うために無給で研修医(インターン)が働かされていた問題を巡って大学と対立し、1968(昭和43)年1月29日、無期限ストライキに突入。日本大学では多額の使途不明金が発覚し、学生たちがデモを繰り広げた。やがて東大と日大が合流し、11月22日には東大安田講堂前に全国から約2万人の学生が詰め寄せた。これを起点に、全国の大学で学生たちが何かしらの問題を見つけては抗議の狼煙を上げていった。党派を超えて結集して闘う学内連合体ということで全学共闘会議(全共闘)という。

学生運動のほかにもこの年の前後には、成田空港建設に反対する農民と学生による共闘(三里塚闘争 1966~)、原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争(1968年1月)、佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争(羽田闘争 1967年)、横浜新貨物線反対運動(1966~)、など全国に無数に社会運動が展開した。

同時期には世界各地でも若者が立ち上がっていた。パリの五月革命、チェコスロバキアのプラハの春、アメリカのベトナム反戦運動や(キング牧師の暗殺で)ピークを迎えた公民権運動、西ドイツの学生運動、ブラジルでは軍事独裁体制への抵抗運動、メキシコでも政権への抗議運動などが盛り上がっていた。中国では文化大革命が進行中で、ソヴィエトに代わる新しい社会主義の可能性を夢見させていた。

この頃に世界中で社会運動が同時に起こった背景には、いくつかの要因が考えられる。1つに、第二次世界大戦後のベビーブーム世代が若者となり、かつてない規模の若年層人口が形成されたことがある。彼らは一斉に「反抗期」を迎え、伝統的な権威や道徳に反発し、個人の自由や平等、創造的な自己表現を重視した。
ポップカルチャーやヒッピー文化、ロック・ジャズミュージックなどが一斉に花開き、そのような時代の空気を盛り上げた。

しかし、何よりも当時世界の人々の意識に痛みとして通奏低音のように響いていたのは、泥沼化したベトナム戦争であった。

20世紀後半、ヨーロッパの外に移った戦場

第二次世界大戦後、インドシナでは日本軍が撤退するとベトミンが政権を樹立し、ベトナム民主共和国を建国した。それに対しかつての宗主国フランスが干渉し、親仏政権を樹立してベトナム国を建国した。しかし中ソの支援を受けたベトミン政権はフランス駐留軍との間で軍事衝突し、インドシナ戦争(1946-1954年)が始まった。フランス軍は敗北した。

アメリカは、ある地域で重要な国が共産主義化すると、隣接する国々も次々と共産主義化するという「ドミノ理論」を展開し、国民や議会に危機を訴えていた。アメリカはフランス撤退後のインドシナに反共主義者を集め、1955(昭和30)年10月26日、ベトナム共和国として政権を発足させた。これによってインドシナ半島東沿岸部は、朝鮮半島のように、北の社会主義国家(ベトナム民主共和国)と南の資本主義国家(ベトナム共和国)とに分断された。

1964(昭和39)年8月2日、アメリカは巡視中の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受けたと発表(トンキン湾事件)。「ドミノ理論」を根拠に、ジョンソン大統領は直ちに反撃のため北ベトナムを爆撃した。アメリカは事実上の北ベトナムに対する宣戦布告を行ったこととなり、1965(昭和40)年2月7日、北ベトナムに爆撃作戦「北爆」を開始した。3月8日には地上部隊を南ベトナムに派遣し、ベトナム戦争は本格化した。4年後、トンキン湾事件はアメリカのでっちあげだったことが、辞任したマクナマラ元国防長官の告白により発覚した。

南ベトナム解放民族戦線は、ゲリラ戦術を展開してアメリカ軍を苦しめた。1968(昭和43)年1月、北ベトナム軍と解放戦線は南ベトナム全土で攻勢を開始し、それを機にアメリカ軍の後退が始まった。1975(昭和50)年4月30日、南ベトナム解放戦線によって首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府は崩壊。これによってベトナム戦争は完全に終結し1976(昭和51)年にはベトナム社会主義共和国として南北統一が実現した。

北爆とランチハンド作戦

アメリカ軍は、北ベトナムに対して30万回以上出撃し、86万4000トンの爆弾を投下した。さらにアメリカ地上軍は解放戦線軍のゲリラ戦に苦しみ、彼らが潜む森林やジャングルを絶滅させ兵糧攻めにする作戦として、枯葉剤の空中散布を行った(ランチハンド作戦)。米軍は1961(昭和36)年から10年の間に約7200万リットルの枯れ葉剤を散布した。その中に少なくとも催奇性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシン類が約170キロ含まれていた。その影響で、ベトナム全土で100万人以上の人々が枯れ葉剤による後遺障害に苦しみ、戦争終結後に生まれた子ども15万人以上に重篤な疾患をもたらした。

戦場から届く写真と映像

ベトナム戦争は、大戦と同様に多数の死者を出す残虐なものだったが、特異なことは、戦争がテレビによって映像として世界に報道されたことである。既にその頃テレビは戦後多くの国で放送が始まり、普及していた。

アメリカでは1959(昭和34)年頃には80%の世帯に白黒テレビが、フランスでは1969(昭和44)年に60%、日本では1964(昭和39)年に90%に到達、西ドイツでは1957(昭和32)年に受信契約が100万件あった。とくに1969年7月20日アポロ宇宙船によって人類が初めて月面に着陸するようすはテレビで世界に同時中継され、7億人(人類の5人に1人)が視聴したという。ベトナム戦争で「北爆」が開始され泥沼化する映像もアポロの様子と同様に、各国の家庭の「お茶の間」に届けられたのである。人類の多くが、テレビの向こうに「世界」を見て、考えるようになっていた。

それまで戦争は国民の支持を維持することが多かったが、社会運動として反戦運動が沸き起こったのもまたベトナム戦争の特徴だった。アメリカ国内で始まったベトナム反戦運動の波は、テレビが西ドイツ、イギリス、フランスなどヨーロッパ各地に伝えた。日本でも1965(昭和40)年4月24日に「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が発足した。

環境問題としてのベトナム戦争

ベトナム戦争での大規模な枯葉剤散布や、壊滅的に枯れた森林の映像も、テレビで世界中に映し出された。アメリカの科学者たちは枯葉剤散布の環境影響について警鐘を鳴らした。1962年に出たレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が世界で読まれ、農薬の生態系への影響に対する意識が高まっていた。そういった下地があり、次第に環境保護運動と反戦運動が結びついていった。環境破壊の問題が反戦の重要な論点の一つとなっていった。

国連人間環境会議

公害・環境問題は日本だけでなく、経済成長を進めていった西側先進諸国で顕著に発生し、社会問題化していた。国際的に高まった環境問題への関心から国際協力の必要性を考え、スウェーデンのオロフ・パルメ首相は「国連人間環境会議」を提唱した。そして歴史上初めての国際的な環境会議はスウェーデンのストックホルムで開催されることが決まった。

1972(昭和47)年6月5日、会議が開催された。水俣からは患者や医師や関係者などが渡航し、世界に水俣病の惨禍を伝えた。この会議で採択された「人間環境宣言」と「環境国際行動計画」の実行機関として国連環境計画 (UNEP)が設立された。

この会議では、当初ベトナム戦争については言及しないことを暗黙の了解としていた。だがパルメ首相は開会演説で、ベトナム戦争による環境破壊を「エコサイド(生態系破壊)」として厳しく批判した。

この動きを警戒していたアメリカは批判をかわすため、捕鯨問題に焦点を移すという戦略をとった。そして、商業捕鯨のモラトリアムを求める決議が採択されることになった。この会議は、鯨油価格低落防止の為のカルテルであったIWC(国際捕鯨委員会)が、捕鯨を環境保護・動物保護という観点に据える機会となった。

1枚の写真が世界を動かす

1930年代から1950年代、第二次世界大戦の報道が印刷の技術向上により高品質で大量に印刷ができるようになったことで、写真を中心としたニュース雑誌が全盛期を迎え、「フォトジャーナリズムの黄金時代」といわれた。アメリカの雑誌「LIFE」が有名である。

ベトナム戦争が混迷化するとフォトジャーナリズムは再興した。そんななか戦場カメラマンとして高名だったユージン・スミスは水俣に向かった。彼は1971年8月から1974 年 10 月まで水俣に滞在しながら多くの写真をおさめた。

彼の作品の中で、胎児性患者上村智子が母に抱かれ湯舟に浸かる写真(Tomoko and Mother in the Bath 1971)は、キリスト教の「ピエタ」のモチーフを意識してポーズが取られており、雑誌に掲載されるとキリスト教文化圏で大きな反響を呼んだ。水俣病の惨禍を世界に伝えた一枚と言われている。

1969年1月、安田講堂と『苦海浄土』

全共闘運動は、またたくまに全国の大学に拡がった。
1969(昭和44)年1月19日、全共闘によってバリケード封鎖していた東京大学安田講堂に機動隊が突入、陥落した。これ以降バリケード封鎖する大学が全国で相次ぎ、運動が暴力化していった。それらはテレビで映し出されると次第に社会の支持が得られなくなっていった。やがて学生のあいだにも暴力行動に疑問や反感を持ったり、運動の意味や目的に煩悶する者が絶えなくなった。またストライキが長期化すると、卒業や就職への不安が高まり「早期解決」を望む学生が増えてきた。そういう学生にとっては、その後も運動にかかわり続けるか、それとも就職の道を進むか、大きな選択に迫られた。終身雇用が常識的だった当時の日本の学生にとって、就職は人生を決定する重大な岐路だった。

多くの学生は後者に転じ、その後の日本社会は資本主義の道を邁進するのだが、既存の運動にも戻れず、どちらにも行けない学生たちがいた。当時、フランス語で“根無し草”を意味する「デラシネ」という言葉が流行していた。既存の社会や文化からの疎外感を抱えながら、新たなアイデンティティを求める学生・若者たちの姿を表象していた。政治運動からも一流会社のサラリーマンの道からも外れて彷徨っていた彼らはまさしくデラシネであった。

彼らの中に、たまたま『苦海浄土――わが水俣病』を手に取った者たちがいた。文芸を趣味としていた水俣市の主婦、石牟礼道子は1958(昭和33)年、水俣病患者の存在を知り、自ら漁村部等を取材しながら作品を書き綴った。それらはさまざまなタイトルで発表されていたが、1969(昭和44)年1月『苦海浄土――わが水俣病』として講談社より1冊の本として出版される。彼らは『苦海浄土』に衝撃を受けると同時に、運動の具体的な対象と目標を見出した。そうして各大学に自然発生的に、公害問題に主体的に取り組んでいく集団が生まれた。

東京水俣病を告発する会

1970(昭和45)年6月28日、東京大学工学部8号館に700人もの学生が集まり「東京水俣病を告発する会」(東京告発)が結成された。
彼らの運動は、新潟や熊本の患者運動に倣って、患者の前に出ることを自重し、政治的立場や政党名を出すことを一切禁じた。やがて東京以外にも全国各地で「告発する会」が設立され、運動は全国に広がっていった。

水俣巡礼団

東京告発結成から間もない1970(昭和45)年7月3日、水俣病支援を訴えカンパを集めながら、東京から水俣までを巡礼する「水俣巡礼団」が出発した。劇団「地球座」主宰の砂田明を団長にして若者を中心に10名だった。11日間の旅で67万円の寄付が集まった(当時大卒初任給の平均額は約4万円)。昭和20年代に四国遍路を経験している患者(胎児性患者の父親)の発案で、全員が白装束のお遍路さんスタイルをとった。以降、それは水俣病運動を象徴するものとなった。

一株運動

後に水俣病の裁判と関わることになる東京の弁護士後藤孝典は、裁判は弁護士にとっての闘争になりえても、原告本人の闘争にはなりにくいと考え「一株運動」を考案した。株主総会には社長が必ず出席するので、患者が株主となってそこへ出席すれば、社長に相対することができると考えた(当時は一株ごとに購入できた)。当時のチッソの株価は37円だった。後藤は提案する前に私財で1万株を購入した。「社長にものが言える」という後藤の提案に多くの患者たちは賛同した。チッソの株を総会までに10万株購入し、患者家族を先頭に大集団で株主総会に出席し、チッソを追及することを決めた。

その運動は多数の賛同者を集め、ついに5500名をチッソの株主として登録させた。11月28日の株主総会には1000名が出席することを通告すると、大阪厚生年金会館が会場に決まった。総会の前日、水俣から患者、市民会議、第一組合員、川本輝夫ら25名が大阪に到着した。みな「水俣巡礼団」と墨書きされた四国遍路の白装束と菅笠姿だった。総会当日、日本全国から集まった「告発する会」約1000人が集まった。これに対しチッソは総会屋と大日本菊水会(右翼)を雇いガードした。会場は最前列を社員株主と総会屋が占拠しており、定員に達したということで500人が締め出され会場に入れなかった。

総会本番では役員14人が舞台にいた。見舞金作戦に成功して出世した元工場長の西田栄一もそこにいた。すると総会はマイクを使わずに進行し始めたのである。聞こえないうちに一切終わらせる策略に気づいた組合員は、舞台に上がり修正動議をかけた。続いて告発する会のメンバーも大勢舞台に駆け上がってきた。「決算議案は可決されました」という垂れ幕が下りてきたが、すぐに引きちぎられた。江頭豊社長が質問書に対する回答を述べ始めると、次々と舞台に巡礼服姿の人が駆け上がり、舞台に座り込んだ社長を取り囲んだ。患者や患者の肉親たちは、殺された肉親や、障害を負わされた自身の恨みを晴らすべく言葉をぶつけた。

江頭社長は薄笑いを浮かべながら彼らの言葉を受け止めていたと言われているが、実際はあまりのおののきに顔が引きつっていたらしい。江頭は日本興業銀行から出向しチッソの副社長、そして取締役社長を7年務めた(1964~1971)が、この株主総会の責任を取って社長の座から退く。その後会長(~1973)、そして2000年近くまで相談役として居座り、2006年に98歳で死去する。孫娘は皇后雅子、甥は評論家の江藤淳である。

「一株運動」はマスコミからも関心を持たれ、会場上空にはヘリも飛んでいた。全国に患者たちの闘う様子が届けられ、応援の輪が日本中に大きく広がった。
川本輝夫は総会のあとその足で東京に向かい、行政不服審査請求の準備にとりかかった。

なお、この「一株運動」がきっかけとなり1981年に商法改正が行われた。単位株制度が導入され、原則として額面額×売買単位が5万円となるように売買単位が決められた。単位株数に満たない株主については、議決権などの共益権は制限された。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1343:250207〕