水俣病が映す近現代史(35)判決、補償交渉へ

「昭和元禄」

1964(昭和39)年の東京オリンピックは、日本が戦後19年で荒廃から立ち直り、平和で経済的に自信のある国として国際社会に復帰するイベントと位置づけられた。オリンピック後には「いざなぎ景気」が始まり、1968(昭和43)年には日本のGDPは西ドイツを抜き、米国に次ぐ世界第2位の経済大国となった。経済成長は急上昇から安定飛行のフェイズに入り、文化は爛熟し「昭和元禄」とも呼ばれた。1970(昭和45)年の大阪万博は「余裕ある先進国」を世界に示すものとして開催された。

東京オリンピックまではなりふり構わず経済成長を突き進んできた日本だが、東京オリンピックから大阪万博までの6年間は、その「構わなかった」ツケを処理する期間でもあった。その代表格が公害であった。公害の数と規模の大きさは予想をはるかに超え、静岡のコンビナート計画が住民運動で潰されたように、公害問題をクリアしないと次に進めないところまで国民の意識は高まっていた。

公害関連法の整備と「公害国会」

1960年代後半には公害関連の法律が整備されていった。1967(昭和42)年に公害対策基本法、1968(昭和43)年に大気汚染防止法、1969(昭和44)年に公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(救済法)が制定された。

1970(昭和45)年1月14日、大阪万博を目前に内閣総理大臣に就任した佐藤栄作は、「福祉なくして成長なし」というスローガンを打ち出し、公害問題を「国民の最大の関心事」と位置付け、それまでの工業推進から社会開発(教育、福祉、環境など)の推進へと転換しようとした。同年7月、内閣に総理大臣を本部長とする公害対策本部が設置され、関係閣僚からなる公害対策閣僚会議が設けられた。

同年11月24日から12月18日までの第64回臨時国会は「公害国会」と呼ばれ、14の公害関連法案が制定・改正された。それまでと最も変わったのは、経済優先の「経済調和条項」が削除されたことである。また、環境基準が「維持されることが望ましい」から「確保されなければならない」に強化され、「企業の社会的責任」が明確化された。

環境庁の設置

こうして公害関係の法律が整備されたが、当初は公害関係法を扱う独立の官庁を設立する計画はなかった。ところが、1970(昭和45)年の年末になって佐藤栄作が独立官庁の設立に動き出し、1971(昭和46)年1月に閣議決定、5月に環境庁設置法が可決された。

1971(昭和46)年7月1日、計画もないところからわずか半年で作り上げられた環境庁が発足した。厚生省の公害部が移管され、水俣病関係の問題をすべて引き継ぐことになった。当初の環境庁は3箇所に分かれており、水俣病を扱う部署は渋谷区千駄ヶ谷の、現在は国立能楽堂となっている場所に建てられた木造2階建てであった。

厚生省、通産省、経済企画庁が泥沼化させた水俣病の責任は、新庁に押し付けられた。環境庁の「初仕事」は、水俣病認定申請を棄却された患者・川本輝夫らの行政不服申立てについて結論を出すことだった。

初代長官は山中貞則だったが、発足4日後に第3次佐藤内閣が発足し、大石武一(ぶいち)に交代した。大石は東北大学医学部を出て、同大学医学部や国立仙台病院で医師として勤務していた経歴があり、自ら佐藤栄作にかけあって「立候補」した長官だった。

ちなみに環境庁設立前日の6月30日、イタイイタイ病の原告に勝訴判決が出た。公害裁判の最初の判決だった。だが被告の三井金属鉱業は控訴した。

環境庁裁決と事務次官通知

1971(昭和46)年8月7日、大石は川本らの認定申請に対する「棄却を取り消す」という裁決を下した。さらに同じ日付で事務次官通知が出された。これは水俣病患者審査会が1970(昭和45)年2月20日に決定し〈マル秘〉としていた認定基準を事実上否定し、救済法の趣旨の徹底、運用指導に欠けていたことを認め、認定要件をあらためて明示したものである。

新認定要件には次の重要な2点が示されていた。

  • ハンター・ラッセル症候群の4症状について、認定審査会は「いずれも」あることを要件としていたが、事務次官通知は「いずれか」ある場合水俣病に含めよとした。
  • 当該患者が「医療を要するものであればその症状の軽重を考慮する必要はなく」汚染の影響によるものかどうかのみ判断すればよい、とした。

この裁決は熊本県と認定審査会に非常に大きな打撃を与えた。

環境庁裁決の内容は、実際はそのようには書かれていないにもかかわらず、マスコミによって概括的に解釈され「疑わしきも認定」と言い換えられた。それが環境庁の認定方針であるかのように社会を一人歩きをし「ニセ患者の存在」というデマの温床となった。

日本の公害裁判で初の原告勝訴と新認定患者

1971(昭和46)年9月29日、新潟水俣病訴訟で原告が勝訴、昭和電工は上訴権を放棄し、判決は確定した。日本の公害裁判で初の原告勝訴確定となる。因果関係と過失は原告の主張を認め、昭和電工の責任を明示した。

同年10月6日、川本輝夫ら16名が水俣病患者と認定された。1971(昭和46)年環境庁裁定後の患者は一般的に「新認定患者」と呼ばれている。

新認定患者の補償、白紙からの交渉

10月11日に最初の交渉の席が設けられた。チッソは「何らかの補償はするが、これまでと違った認定方法が適用されているから、補償処理委員会のあっせん案は適用できない」とし、政府の機関である中央公害審査委員会(中公審)に判断をゆだねたいと表明した。

10月22日の2回目の交渉でも「以前の患者とあなたがたとは違う」「中公審にまかせたい」と同じことを繰り返した。25日、「告発する会」の代表を含む70人の会員がチッソ水俣工場の正門を乗り越え、工場幹部との面会を求めた。

新認定患者らは、一律3000万円の補償を要求することを決めた。3回目の交渉でそれを表明すると「そんなことなら、たとえ10万円でも出せません」と席を蹴ったという。交渉は決裂した。

水俣での「新聞折込ビラ合戦」

川本らの闘いの前哨戦は水俣のまちで繰り広げられた。川本らには「告発する会」や第一組合が布陣していたが、それに対抗するようにチッソ側は2つの「市民団体」を結成させた。

水俣市長は1970(昭和45)年の2月にチッソの全面支援のもとに当選した医師の浮池正基(ふけ・まさもと)となっていた。当然、チッソの傀儡であった。

水俣のまちを二分するような闘いは、「新聞折込ビラ合戦」として繰り広げられた。チッソ側市民団体のビラには旅館、商店、理髪店などの署名が増えていった。彼らは患者側の運動主体は過激派左翼だなどと吹聴していた。川本ら患者宅には次々と脅迫状が届いた。どの文章にも「疑わしい患者」「ニセ患者」の言葉が並んでいた。

水俣を明るくする市民連絡協議会

1971(昭和46)年11月14日、「水俣を明るくする市民連絡協議会」結成大会が開かれた。チッソ社長も出席した。大会で浮池市長はあいさつで「チッソを守るためには、全国の世論を敵に回してでも戦わなければならない」とまで言ってのけた。

交渉の舞台は東京に

1971(昭和46)年12月5日、川本らは東京本社での交渉に向かい水俣をあとにした。

チッソの本社は東京駅前丸の内の東京ビル4階だった。
12月6日、本社前に座り込み、社長に面会を申し込んだ。翌7日に交渉の席が持たれたが、彼らの応答はこれまでと変わらず「中公審に公平なものさしを示してもらう」というのみだった。

翌7日には熊本・東京の「告発する会」がバックアップ体制を整え、実力行使に出た。約200名がビルの主要箇所を占拠し、屋上からは「チッソはすべての水俣病患者に対して責任をとれ!」という垂れ幕を下ろした。患者たちはチッソに、一方的な中公審への調停申請手続を直ちに取り下げるよう要求した。堂々巡りの「話し合い」が夕刻まで続いた。

川本輝夫は持参したカミソリを取り出し、島田社長に「社長が私の指を切れ、私も社長の指を切る。同じ痛みを感じるなら、水俣病患者の痛みも苦しみもわかるはずだ」と訴えた。患者たちと200人の「告発する会」はそのまま東京ビルの4階廊下などの拠点をに居座った。

12月10日になって警察より退去命令が出され、機動隊が座り込んでいる「告発する会」の会員たちの排除をはじめた。残った患者たちと石牟礼道子の6人が社長室前でハンストに入り、13日まで続けた。

チッソによる新認定患者の分裂工作

チッソは、川本らが留守になっている隙に水俣に反撃をしかけた。
1971(昭和46)年12月16日に29名が認定された。彼らの大半は一任派の家族だった。認定直後、チッソは彼らに20万円の内金支払いを示し、中公審申請同意書に判を突かせた。チッソは水俣にいる川本派(新認定・自主交渉派)を切り崩し、中公審調停派へと分裂させる工作を開始していたのである。

調停派は水明会という会を組織した。12月20日には水俣市議会が中公審の調停など公的機関の手で早期円満解決してほしいとの意見書を採択した。12月24日、水明会の会長らが上京し、30人の調停申請を提出した。28日、中公審はそれを受理し、水俣病補償調停委員会を設置した。こうして東京の川本らの闘争は、水俣から外堀を埋められていった。

12月29日、著名文化人32人がチッソに、患者との交渉を再開するよう申し入れ書を提出した。

チッソの暴力が炸裂した五井事件

チッソは1971(昭和46)年の10月、第二組合系の全チッソ労働組合連絡協議会を結成していた。オールチッソ御用組合である。

川本の本社交渉のとき「腕力要員」として動員されていたのは千葉の五井工場労組だった。川本はそのときのことを抗議するため五井工場労組委員長に面会を申し入れた。1972(昭和47)年1月7日の午前中に五井工場で面会することになり、「告発する会」のメンバーと報道陣十数名が同行した。そのなかには写真家ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスもいた。

ところが委員長は現れなかった。川本らは守衛室にこもって数時間待っていたが、課長がやってきて外で待つように命令した。拒否すると、約200人の職員が並んで近づいてきた。課長は「出るのか?出ないのか?」と問い詰め、出る素振りを見せないでいると彼は「よし、出せ!」と命令を下した。

屈強な男たちが川本らを殴り蹴るなどして排除を始めた。川本は床に引き倒され、安全靴で顔を踏みつけられた。ユージン・スミスには4人が襲いかかり、文字通りの袋だたきを行った。彼は沖縄戦で受けた弾丸の破片が首の脊髄に残っていた。そこに暴力が集中し、視神経にダメージを与えたのだろう、片目を失明した。

本格化する闘争

五井事件があって、川本らと「告発する会」の交渉要求には暴行への糾弾が加わり、実力を伴う闘争と化した。チッソは東京ビルの4階を1つの扉を除きすべて封鎖、その上に鉄格子で侵入を防止した。本社職員は大勢の水俣第二労組と五井労組員たちに守られながら鉄製のくぐり戸から出入りした。これらの様子はテレビを含むマスコミが大きく報道した。患者支援の輪が日本中に広まった。世論が最高潮に極まっていった。

丸の内東京ビル前の「告発する会」の座り込みテントには若者たちが大勢住み込んでいた。そこを「解放区」と呼んだ者もいた。

環境庁と知事のあっせん、その裏で

世論の高まりに押される形で、熊本県議会が知事にあっせんをするよう決議。熊本県知事は1971(昭和46)年2月から澤田一精に交代していた。チッソ島田社長は大石環境庁長官にあっせんの白紙依頼をした。(このとき島田は、補償がチッソの支払い能力を超えるときは政府の融資措置を講ずるよう申し入れている。)知事と長官は会談し、あっせんではなく、当事者話し合いが基本の「立会人」となるとした。沢田一精はそれまでの県知事と違いチッソに一定の距離をおいた。

1972(昭和47)年2月23日、環境庁で「立ち会い自主交渉」が開かれた。島田は旧認定、新認定ともに公平に補償したいと表明した。

チッソによる「漁民大会」と自主交渉派切り崩し

東京で島田社長が一歩進んだ譲歩をみせた裏で、前述したように水俣ではチッソが自主交渉派の切り崩しをさらに進めていた。

1972(昭和47)年2月23日、水俣市漁協が「漁民大会」なるものを開いた。市長やチッソ工場長、第二組合長も参加した。大会では、全国で水俣病の話題が盛り上がる中、「水俣病」のせいで魚が売れなくなったとして病名変更運動を始める決意を固めた。市長もそれに「協力したい」と賛成の挨拶をした。

2月27日、大石長官は水俣を視察に訪れた。駅前に自民党、商工会議所など70名が多数のプラカードを掲げて集まった。そして市民連絡協議会(前年11月「水俣を明るくする会」で結成)は大石環境庁長官に、中公審での解決をはかることと、病名変更等の申し入れをした。一方でチッソは、焼酎と菓子折りを持って自主交渉派と訴訟派の家をまわって切り崩しを進めていた。子どもの就職の世話をするとか、引っ越し代の相談に乗るのか、いいことを言って回っていた。

川本は3月24日いったん水俣に戻り、自主交渉派の話し合いを持った。闘いはあまりに長期にわたり患者たちは疲れの色を隠せなくなっていった。川本は「やめる」と言い出した。しかし女房役であった佐藤武春が患者宅を回り、闘いを継続する意思を確認、自主交渉は続けられることになった。

立ち会い自主交渉は4月21日までに6回行われたが平行線に終わった。

7月1日、中公審は改組され公害等調整委員会(以降、公調委)となった。
7月7日、田中角栄内閣が誕生し、患者寄りだった大石長官が退任し小山長規に替わった。

本社前テント座り込みは膠着状態が続いた。東京ビルは6基のエレベーターがすべて4階には止まらないようにされており、4階は鉄格子と施錠と、多数の御用組合員でピケが張られた状態だった。なお水俣工場正門も若い支援者たちによって座り込みが続けられていた。

判決前に調停案を出すための悪だくみ

裁判の結審以降、認定審査会は2ヶ月に4~50名の患者を認定した。多くは調停派に加入した。チッソは、どのような判決が出ようと、新認定患者の補償基準を、調停案の基準にするため、判決前に調停案を提示させることに必死となった。

チッソは、市と公調委と共謀し、調停派に加わった新しい認定患者に、「調停申請書」と、調停案の受諾を含む手続き上の一切を調停派幹部に委任する「代理人選任届」を、水俣市の職員に偽造・捺印させて公調委に提出させていた。この偽造はすぐに発覚し、マスコミによって晒され国会でも取り上げられた。これによって調停案を判決前に提出させる悪だくみはオウンゴールで頓挫してしまった。

判決

1973(昭和48)年3月20日、熊本地方裁判所で水俣病訴訟の判決が出された。チッソの過失責任を全面的に認め、1959年の「見舞金契約」は公序良俗違反であり無効とし、原告本人の請求額を満額認め、死亡者1800万円、生存者1800~1700~1600万円の三段階とした。原告側のほぼ全面勝利といえる判決だった。判決前にチッソは控訴はしないと表明していたので、判決は確定した。

島田社長は夜の記者会見で、補償問題については金融機関がどれほど資金をねん出してくれるかにかかっている、という内容を2度述べた。工場施設や社宅、発電所の売却処分も考えていると述べた。水俣湾のヘドロ対策工事(費用)についても記者から質問があった。事業者負担法によってチッソの費用負担は避けられないだろうと答えた。(1972年5月26日にOECD(経済協力開発機構)の環境委員会が「環境政策の国際経済面に関するガイディング・プリンシプル」として採択)

補償交渉

判決前に決定していた通り、判決後、訴訟派と自主交渉派は合同して東京交渉団を結成し、本社交渉を開始した。判決2日後の22日、東京ビル周辺には告発する会が数百人、そして報道や警備隊で埋め尽くされていた。

要求は〈療養費〉、〈終生年金〉、〈賠償金〉の3点だった。

〈療養費〉と〈終生年金〉は新たに求めるもので、〈賠償金〉は、判決に合わせた金額の要求だった。判決の2日後から東京本社の3階の一室で交渉がスタートした。長い間設置されたままの鉄格子が2日目の午後に外され、エレベーターが4階にも止まるようになった。

チッソは〈終生年金〉の支払いはなんとしても避けたかった。判決金額にそれは含まれるという主張を固持し、交渉は数日間平行線を辿った。

9日目の交渉で、〈終生年金〉については仮にその必要があっても支払いの目処が立たない、という回答書を交渉団に提出した。交渉団は猛烈にその回答の撤回を要求し、交渉は何度目かの深夜に及ぶものとなった。

10日目の3月31日、午前中に島田は、環境長官の三木武夫に呼ばれた。「患者の立場に立って十分患者の要望を検討し、誠意をつくして交渉にあたるように」と叱責されたという。新聞各紙がそれを一斉に報じた。その日の交渉で、島田は回答書の撤回を述べた。医療費の支払い義務は認めた。判決には賠償金に(過去分も将来分も)医療費が含まれていないことが読み取れることを長官に呼ばれたときに伝えられたのだろうと、後藤孝典弁護士は後に著している。

4月1日の日付をまたいだ深夜1時半、交渉団はあらためて〈療養費〉と〈終生年金〉(生活年金)が含まれた全要求を網羅した声明書を読み上げチッソに提出した。
その直後、交渉途中から交渉団に加わっていた調停派の患者のひとりが、車椅子からテーブルの上によじ登り、ガラスの灰皿を叩きつけ、シャツを血まみれにして「これだけ苦しんできたのがわからないのか!」と叫んだ。チッソ幹部は全員青ざめ、島田は1600万円の仮払いを認めた。これで流れが変わった。一方、公調委にとって島田は裏切り者だった。

調停派

東京交渉団が本社で補償交渉をしているあいだも、公調委は調停案を探っていた。しかし、島田が一部の患者に判決並みの補償金の仮払い(前述の1600万円)を認めたので、患者すべての派が、判決並みの補償を公調委とチッソに申し入れることになだれ込んだ。チッソは島田を怨んだ。

4月5日、チッソが回答書を提示。〈賠償金〉は判決並みとされた。〈療養費〉は出すが要求と隔たりがあった。〈終生年金〉についてはゼロ回答だった。翌日から本社での交渉が再開された。〈終生年金〉が最後の山場だった。その後も徹夜交渉が続いたが7日夕刻でいったん休止した。

国会招致

4月11日の昼間は衆議院公害対策等並びに環境保全特別委員会が開かれ、参考人としてチッソ島田社長、熊本県知事、水俣市長、市民会議の事務局長と胎児性患者の母などが招致された。島田は全認定患者に対する判決金額の補償をすること、と水俣湾の浄化対策については県の方針に従う予定であることなどを述べた。浮池水俣市長は、何とか国の力でチッソがつぶれないように、水俣から撤退しないようになどと述べた。患者の母(訴訟派)は〈終生年金〉の必要性を訴えた。

衆議院議員馬場昇は、チッソ の主力銀行で筆頭株主である日本興業銀行もチッソと同罪ではないか?と島田に質問した。

島田は、責任は全面的にチッソにある。興銀には「補償の問題についての考え方」を申し上げていると回答した。

馬場昇は、興銀の頭取の国会招致を要求した。彼は告発する会を組織した本田啓吉と熊本県高教組の同志だった。

引き続き徹夜交渉

1973(昭和48)年4月11日の夜7時から交渉が再開された。そのまま泊まり込みが続き13日、交渉団は、〈療養費〉の上積みと〈終生年金〉を認めさせるため、原告17名分の通帳と現金1800万円を島田社長のまえに叩きつけ「金は返す、そのかわりからだを元通りにして返せ」と迫った。数時間チッソは受け取りを拒んだが、最後には領収書を書かせた。

チッソ側は何度も「中断してくれ」と訴え、それ以外は何も言わなかった。缶詰交渉は3日半続いた。14日の夕刻、五井の組合員40名が動員されチッソ役員を連れ出そうとしてた。それに対し機動隊員がかけつけたがそのまま15日の朝、「暴力行為」で訴えている川本輝夫の告訴の取り下げと交換条件に交渉を終えた。20日と25日に東京で交渉することを決めて中断した。

島田はそのまま入院した。高血圧で長期入院が必要という診断だった。チッソは裏切り者の島田を幽閉したのである。もう島田が交渉に出てくることはなかった。

夜逃げ

1973(昭和48)年4月20日、交渉団が本社に行くと、交渉会場には鍵がかかっていた。その2日後、交渉場所を水俣に変更したい旨の内容証明郵便が島田の名前で送られてきた。

25日、本社には人影がない。「あわせる顔はない、手紙のやりとりでかたをつけたい」という内容証明郵便が送られてきた。

ずっと患者や告発する会は本社に泊まり込んでいたが、連休が終わろうとする5月5日(土)、告発する会のメンバーはカンパ活動で留守がちになり6~7名しか詰めていなかったところに社員50名がなだれ込み、書類を家宅捜索の如く段ボールに詰め込んで次々と外に持ち運び、2台のトラックに満載し走り去った。告発する会が即座に追尾したが、「品川の広大な貨物集積場の中に姿を消し、やがて入口で待っていた追尾者の前からトラック2台が出て行った。別のトラックでひそかに都内数カ所に分散したものと思われる」(機関誌『告発』)。

植民地朝鮮で世界最大のダムを築き、かつて栄華を極めた企業の成れの果ては、本社の逃亡であった。東京丸の内の一等地で白昼堂々「夜逃げ」をしてみせたのだった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1344:250213〕