水俣病が映す近現代史(32)防衛線となった新潟

新潟水俣病は、熊本水俣病の原因究明やうやむやにされたままの状況で発生した。熊本の経験は、新潟において迅速な初期対応に役立ったが、同時に化学工業界や行政は、事件を粉飾処理する術も熊本から学んでいた。

新潟の被害者たちは、行政から見舞金を受け取ったが、その後病苦と生活苦は増大するばかりだった。慰謝料や補償金を得ようにも、最大の容疑者である昭和電工鹿瀬工場は原因であることを認めず、その姿勢は熊本水俣病における新日本窒素と同様であった。2社はある意味で共犯関係にあったと言える。

当時、全国各地で公害問題が深刻化しており、水俣病を公害と認めれば、他の公害問題へもドミノ倒しに波及することは明らかだった。行政と化学工業界には、新潟水俣病については事を大きくせず、熊本水俣病と同様にうやむやにして歴史の底に埋設したい考えだった。

歴史的な民衆運動の地、新潟

新潟水俣病は、公式確認公表の2ヶ月後である1965(昭和40)年8月、共闘組織「新潟県民主団体水俣病対策会議(以降、民水対と表記)」が結成された。患者・患者家族が中心となる「阿賀野川有機水銀中毒被災者の会」は、その後12月に発足した。一方、その時点でも熊本水俣病には患者家族以外の支援組織は存在してなかった。彼らは長いあいだ孤立無援の状態で身を潜めていたのである。

熊本と新潟とでは条件の違いは大きかった。患者が県庁所在地である新潟市に多かったので支援の手が届きやすかった。
そしてもう一つ大きかったことに、患者の発生地域に歴史的な民衆運動が深く根付いていたことが挙げられる。

そのひとつが、患者多発地帯である阿賀野川河口右岸が1922(大正11)年から1930(昭和5)年にかけて、小作料減免や耕作権の安定化を求めた小作人と地主との争議である「木崎村争議」の舞台であったことである。小作人たちは組合を結成し、地主側と交渉したが決裂、ストライキやデモなどの運動を展開した。さらに、子どもたちを学校に行かせず、彼らが設立した農村教育の民主化を目指す「無産農民学校」で教育を行った。彼らの運動は最終的に争議は敗北に終わったが、戦後の農地解放につながる大きな影響を与え、これらの争議経験者が当時も地域に多く存命していた。

また、患者支援の中心的な役割を担った医療機関が沼垂(ぬったり)診療所であった。同診療所は、戦前の「セツルメント運動」(19世紀末のイギリスで始まった社会改良運動の影響を受け、日本でも大正時代から昭和初期にかけて展開された、都市部の貧困地域における社会福祉活動)や「無産者医療同盟」(1929(昭和4)年の山本宣治暗殺事件を契機に1930年代初頭に労働者や農民の医療を守るために組織された医療運動団体)の流れを汲んでいた。戦前の農民組合が設立して戦争開始後に閉鎖を余儀なくされた病院を受け継ぐ形で設立され、医療費を支払えない人にも分け隔てなく医療が提供できるよう定額な料金で診療を行っていた。

1964(昭和39)年6月、新潟県沖を震源とするM6.8の「新潟地震」が発生。沼垂診療所に赴任したばかりの斎藤恒(ひさし)医師は、地震の救援で被災地を回っているとき、阿賀野川流域から来た患者の中に、これまで見たことがない病状の患者がいることに気づいた。それがこのあと新潟水俣病の中心的な医師となる彼の水俣病との出会いだった。

支援・共闘組織の設立と、被災者の会の設立

沼垂診療所と同じ歴史を汲む、新潟勤労者医療協会に属した5つの診療所の職員たちが、斎藤医師のもとに水俣病学習会開催を申し入れ、開催を重ねるごとに人々のつながりが広がっていった。1965(昭和40)年7月には約50名が参加、被害者同士が情報を共有し、支え合うための運動団体設立の話が持ち上がった。

同年8月、斉藤恒が中心となり前述の「民水対」が設立され、22団体が加盟した(政党では共産党のみ)。民水対は、政治運動に傾倒しないよう、患者中心の運動を心がけ、患者発生地を中心に集会や学習会を開催し、患者との交流を深めた。

民水対は、対県交渉にも力を入れ、患者救済、原因究明、補償の問題にも取り組んだ。
患者の救済策については、新潟県に要請し、9月に水銀中毒対策費として補正予算322万8千円を組ませた。

しかし時間が経つにつれ、患者たちの窮乏は極まった。県庁に救済を求めに行くと「市町村が措置をするべき」とたらいまわしにされたため、12月、患者組織「阿賀野川有機水銀中毒被災者の会(以降、被災者の会と表記)」を結成し、新潟市長に直接要請に行った。市長は3日後に回答すると言いながら行方不明になり、患者たちは年末の市役所の冷たい廊下に座り込みを始めた。市議会議員たちの努力で、5万円の貸与と医療の継続が決定した。

裁判への道のり:困難な壁と国の防衛線

被害補償のためには、原因(汚染源)究明という困難な壁を突破しなくてはならなかった。しかし、熊本水俣病ですら、当時まだ「原因は断定されていなかった」。

最初に述べたように、国や化学工業界にとって「新潟」は死守すべき防衛線であった。
1965(昭和40)年9月、科学技術庁は水銀中毒研究費960万円の支出を決定、翌日、厚生省は新潟水銀中毒事件特別研究班を発足させた。様々な立場の有識者を参加させ、問題解決に向けて本腰を入れてみせた。

1966(昭和41)年3月、新潟水銀中毒事件特別研究班の合同会議が東京日比谷の松本楼で開催された。疫学班は全員異論無く昭和電工鹿瀬工場の廃液が原因だと主張したが、オブザーバー参加の通産省の役人が農薬説まで持ち出して激しく妨害し、会議は9時間を超えても結論が出なかった。そしてその月で研究費は打ち切られた。

しかし、新潟県研究班は粘り強く調査を続け、前々稿で述べたように、最終的に昭和電工鹿瀬工場の廃墟に残存していた排水溝から採取した苔からメチル水銀を検出し、昭和電工を「容疑者」として特定したのである。(1961(昭和41)年5月17日公表)

県のあっせん誘惑と珍説投下、裁判回避への画策

1966(昭和41)年6月、新潟県の副知事から被災者の会に「県が仲に立って昭和電工から補償金を取ってやるから民水対と手を切れ」という申し出があったと患者から民水対に密かに報告された。当初は5000万円だったが、安すぎるとして衛生部長が1億円に値上げさせたという。後にこの話は厚生省から来ていることも判明した。

患者たちは熊本の二の舞は避けたいと考えており、飛行機事故の死亡補償額の例や「ホフマン方式」の算定を民水対が協力して行い、3億円以上という補償金を逆に要求した結果、県あっせんの話は立ち消えとなった。

また、新潟でも熊本と同様に、原因について様々な珍説が投下された。横浜国大の北川徹三は、発覚前年に起こった新潟地震で水銀農薬が海に流れ、比重の重い汚染海水が阿賀野川の川底をくさび形に侵入て行く「塩水くさび現象」による「地震農薬説」を10月頃に発表した。農薬の流出跡だとして地震時の航空写真を示したが、のちにそれは油膜の反射だと専門家から指摘された。

裁判回避の画策、見舞金で収めたい行政

1966(昭和41)10月24日、鈴木善幸厚生大臣は、参院社労委で、原因は今月末か来月上旬には結論し、補償は省として努力すると答弁した。
翌月、新潟医学会で開催されたシンポジウムでは、新潟水俣病の原因は昭和電工鹿瀬工場の廃液だと医学会の結論が出された。

同年11月、国会の科学技術振興特別委員会で公聴会が開かれた。厚生省の役人は前日、証言をする予定の喜田村正次神戸大教授に対し「原因について断定だけはしないように」と念を押し、断定を避けて柔らかくしておけば補償金が出て、早く患者が救われる、という趣旨のことを伝えていたことが後の裁判で明らかになった。国は、熊本水俣病を見倣って、見舞金で一切を終わらせようとしていたのである。

同年11月、昭和電工は、工場廃水原因説を批判した「阿賀野川下流域中毒事件に対する見解」を厚生省に提出し、同時に、阿賀野川河口付近に農薬が不法投棄されていると公表した。これを受けて昭和電工安西正夫社長は『財界』誌面で農薬管理がずさんだとして北野衛生部長を「けしからんやつだ」と非難した。民水対は、衛生部長の失脚を謀った工作ではないかと考えた。調査の結果、不法投棄は2軒の農家によるものであることが判明したが、これをきっかけに患者や民水対は昭和電工に対する不信を強めた。
(前稿で述べたが、安西正夫の長男の嫁はプリンセス美智子の妹である。)

さらに昭和電工の安藤信夫総務部長がNHKテレビ番組で「たとえ国の結論が原因を昭和電工としても従わない」と発言し、患者たちは怒りを爆発させた。

1967(昭和42)年3月、民水対の決起集会が、漁協も参加し、吹雪のなか鹿瀬工場まえで開かれた。そして6月、ついに3世帯13人の患者が昭和電工を相手に新潟地検に提訴した。日本で始めての本格的な「公害裁判」が始まった。

国の法整備と厚生省の結論

国は、全国的に深刻化していた大気汚染・水質汚濁に対処するため、1965(昭和40)年、公害審議会を設置。1967(昭和42)年7月、公害対策基本法が可決・成立したが、実質的には経済発展を優先する「経済調和条項」が備わっており、実効力は弱かった。

同年4月、厚生省は新潟水銀中毒事件特別研究班の結論を発表した。
汚染源はアセトアルデヒド製造中の副生されたメチル水銀化合物であり、それが阿賀野川の川魚の体内に蓄積され、沿岸住民が繰り返し食べたことによって人体に移行蓄積し、発症するに至ったと「診断」する、というものだった。
のちに疫学班の喜田村教授は、最後の「診断」という言葉は「断定」の意味で用いたものだが、厚生省に「断定」は困ると言われて「診断」に換えたと証言している。

しかもこれは厚生省の発表であり、国の結論は9月以降になると発表された。
さらに2日後、この研究班の結論を、さらに新たな委員会によって審議すると発表した。国が招聘した有識者による結論が国の結論にならず、さらに国が組織した別の委員会で審議するという異常な展開となった。

新たな委員会は、衛生学者で東京大学医学部学部長の豊川行平(医学部を発端とする東大紛争のさなか 1968年4月学部長に就任。)を部会長とする「河川汚濁に伴う汚染食品に起因する危害事故防止対策特別部会」というものだった。
同年8月、豊川委員会は「新潟水俣病は昭和電工の工場廃液が基盤で発生」と答申した。「基盤」という言葉で結論が弱められているのがミソであった。これが厚生省の結論となり、科学技術庁に報告された。

これを受け昭和電工の安西社長は『財界』誌面で、「基盤」という表現をとりあげ「このまえの疫学班の結論は、うちを犯人と断定してない点に注意してほしい」と述べた。しかも「30年間操業してきて、うちがそんな基盤を作ったとも、どうしても考えられない」と加えた。

そして1968(昭和43)年1月、通産省は「阿賀野川流域における中毒事件の原因である有機水銀のソースについては、種々の説があるが、そのいずれも資料が不充分と考えられる」と回答し、鹿瀬工場の廃液は原因の一部(にすぎない)という可能性を指摘した。

水俣との連帯、そして政府見解へ

民水対は通産省の見解を受け、このままでは新潟水俣病が熊本水俣病と同じようにうやむやにされてしまう危機感を強め、全国の公害被害者と連帯し、全国的な運動を展開することを目指した。

前年1967(昭和42)年9月、水俣の患者家庭互助会から新潟水俣病被災者の会に手紙とカンパ金が送られてきた。民水対と被災者の会は1968(昭和43)年1月19日に水俣に向かった。(6日イタイイタイ病の富山にも行っている)

しかし、前述したとおり水俣には患者関係者以外に支援・共闘組織が存在しなかったのである。
新潟から彼らがやってくると知って、急遽1月12日「水俣病対策市民会議」が結成された。会長は日吉フミ子(水俣初の女性市議)。ほかに作家の石牟礼道子やチッソ第一組合の労働者や医師などが加わり約40人で構成された。

水俣市民は、1959(昭和34)年に見舞金で「解決」したあと、水俣病のことを忘れようとし、見ないように暮らしていた。そこに誕生した「市民会議」には「寝た子を起こすな」という声や、声にならない声が多く届いたという。橋本彦七水俣市長からは「線香花火のような活動」と一笑に付されたという。

新潟のメンバーの来訪を、市民会議と互助会総勢約70名が水俣駅で迎えた。歓迎会では日吉会長が、これまで患者たちを孤立させてきたことを泣いて詫び、新潟と共闘することを訴えた。3月には市民会議のメンバーが新潟を訪問し県庁交渉にも参加した。

さらにこの年の8月、チッソ(1965(昭和40)年1月、新日本窒素からチッソに社名変更)労働組合は「何もしてこなかったことを恥とし、水俣病と闘う」と決議した(恥宣言)。そして全国に組織をもつ各労働組合も水俣病問題を支援することを決議した。

新潟と熊本の共闘は、全国の公害被害者運動を活気づけ、連帯の機運を一気に強めた。1968(昭和43)年3月には熊本と新潟の代表団、政党では共産党と社会党が、各省庁に早急に結論を出すように要求した。

1968(昭和43)年9月26日、政府はとうとう統一見解をまとめ発表した。

熊本水俣病、新潟水俣病ともに公害病として認定。熊本水俣病は新日本窒素水俣工場が原因と断定。一方、新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場が中毒発生の「基盤」であるとした。

両公害とも公害として認定はされたが、新潟については「基盤」という言葉が生きたままで、昭和電工が汚染源という確定には至らなかった。

熊本水俣病は公害と認められるまで、患者が多発してから15年、公式確認から12年、400号ネコ社内実験から9年もの歳月が流れていた。
なお、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造設備はこの「汚染源確定」宣言を受ける4ヶ月ほど前の5月18日、ひそかに停止されていた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1341:250128〕