S・ターネル氏のNLD政府弁護論に欠けるもの

 NLD政府成立から一年となるのを機に、政権実績の評価がいっせいに国内外のジャーナリズムでなされました。先に拙論でもふれたように、総じて、初の文民政府への期待感からすれば、その実績はひどく見劣りがするという点で一致しております。とくに当初から懸念されていた経済政策の面では、海外からの投資の鈍化や激しいインフレなどあって、ミャンマー経済界からも一般国民からもそのパフォーマンスは及第点をもらえなかったようです。
 ところがこうした批判的な論調のなかでひときわ対照的だったのが、NLDの経済顧問として知られるオーストラリアの経済学者であるショーン・ターネル氏のNLD政府・経済政策擁護論でした(イラワジ紙 4/7)。氏は政府批判の世評は根拠に欠けるもので、NLDの経済政策の成果は実際には大きいのだとして経済実績を網羅してみせました。
まずマクロ経済面では、経済の管制高地というべき財政・金融システムづくりについて。ターネル氏は前政権から巨大な財政赤字や貿易赤字といった負のレガシーを引き継ぎつつ、財政立て直しにNLDは必死に努力してきたと言います。その成果の一つとして国債入札(bond tender)による発行、つまり国債市場の開設を挙げています。主に銀行買取りだった国債消化を市場に委ねることになったのです。平たく言えば、国家予算の安定的財源の確保のために、国がより借金しやすいシステムをつくったというわけです。しかし国債とは国家が将来の税収を担保に前借りすることを意味しています。ミャンマーは日本と同様、すでに国家予算の半分ほどを国債で穴埋めしている債務国家状態です。したがって国家債務を今後野放図に増やすことにはリスク(デフォルト 債務不履行)をともなうのであり、ターネル氏の言うように借金しやすくなったと単純に評価することはできないのです。
 ターネル氏の議論は意図的かどうかはともかく、国家財政の歳入欠陥についてその原因についてはいっさい触れていません。ミャンマーではエスタブリッシュメントからきちんと徴税が行われていないことは天下周知の事実であります。国家資産の多くを私物化し巨大な利益を手にしてきた大コングロマリットである軍関係企業やクロニー(政商)企業の多くが、税金を納付していないのです。ほとんどの企業が正規の会計基準に基づく財務諸表を作成せず、利益がいくらあるかも分からず徴税しようもないのです―これは2015年11月の総選挙段階での話ですが、寡聞にして事態が抜本的に改善されたという話は知りません。日本のエコノミストもこのことを正面から取り上げた人はいないようです。
 富裕層から徴税しなければ、貧富の差は一方的に拡大するばかりです。世界的に各国とも新自由主義路線が優勢な財政制度になっており、税制が所得の再分配機能を果たす程度は著しく弱まってはいますが、それでもミャンマーほどひどい国はそうざらにはないでしょう。したがってミャンマーにおいて近代的な税制=徴税システムを確立することは、近代国家たるための絶対条件となっております。しかしそのためには軍やクロニーの既得権益と正面からぶつからざるを得ないのです。スーチー政権のエスタブリッシュメントとの融和路線の限界が、ここではっきり露呈します。近代国家運営のための健全なる財政制度の確立のために、民主的な改革が必要不可欠なのにもかかわらず、スーチー政権は「変化のとき」を掲げながら、発足以来国づくりの根幹をなす構造改革をサボタージュしてきたのです。そして経済制裁―一種の規制緩和です―を解除し、外資導入や大企業に対する究極の減税措置である無徴税状態を放置して、市場経済化のみを促進しているのです。したがってこれらは別にNLD政権でなくとも軍政でも出来る施策なのです。
 あとマクロ経済に関わるところでは、国営銀行を再編成しつつこれを「国が資本を集約し配分するために必要な機関に転換する」とあります。おそらく戦後日本の高度経済成長の牽引役を果たした「日本興業銀行」のような産業融資機関を構想しているのでしょうが、これも実現はいまからです。
 ターネル氏はその他の成果として、クレジット・カードシステムの導入を挙げています。カード使用によって観光客もふくめ消費を促し、需要を喚起して企業活動を後押ししようというわけです。しかしカード使用は富裕層には便利でも、貧困問題の解決にはなりません。世界のどの国でもそうであるように、カード使用は家計の債務を増大させ、破産に追いやる場合が少なくありません。また税関・貿易実務の自動化・迅速化なども成果として挙げていますが、しかしこれらもまたNLD政府でなくてもできるテクニカルな改善です。
 あえてスーチー政権らしさといえるものは、中小企業融資制度や農業融資などの公的金融制度、起業家への融資のための信用保証制度、あるいは小規模農家やその他の農村企業への融資制度であるマイクロ・ファイナンスの自由化、人権侵害や自然破壊が問題化している翡翠採掘のライセンス発給を一時中止していること、「人的資本」育成のための健康や教育についてのナショナル・プランの策定などです。しかしこれらは実績というよりも政策提起や法制化の段階なので、成果が上がるのかどうかは今後の動向を見なければわかりません。
 いずれにせよ、しかしターネル氏の挙げるNLD政策実績の一覧を見て感じるのは、スーチー氏らに感じると同じ物足らなさです。ミャンマー経済全体を俯瞰して、改革と近代化の戦略的課題がどこにあり、それを達成するうえで何が障碍になり、それをどう克服していくのかという太い筋道が見えてこないのです。軍部独裁から本格的な文民政府へと移行する過渡期の政権であればなおのこと、経済理念や中長期的パースペクティブからする経済政策の立案が是非必要です。国づくりの途上にあるミャンマーにとって、経済政策とはたんなる数量的達成のテクニカルな問題ではなく、国の将来像に関わるビジョンの提示であり、国や社会の在り方を、ひいては国民がどういう生き方をするかの選択肢を示唆するという意味で倫理性すら帯びているものです。市場の論理だけで経済を律しようとするのは、人間を全的な人間としてではなく、もっぱら部分的なhomo economicus(経済人)としてしか捉えていないことを表しています。
 やはりそれもこれもスーチー政権に明確な自己規定(self-identification, self-definition)―NLD政府の歴史的位置づけ―が欠けているところに原因があります。軍隊に対しシビリアン・コントロールを持たない政府は、真の文民政府とはいえませんし、その意味で制度的にも依然として民主主義は整えられてはいないのです。したがってスーチー政権とは何かといえば、軍政から真の文民政府樹立にいたる移行期の政権であり、その歴史的使命は軍政の負のレガシーを一掃して、文民統制が可能な真の民主的な憲法を樹立することなのです。在日NLDの党員から日本の入管職員に至るまでほとんどの人が、「ミャンマーは民主化したのだから」という言い方をしますが、これは半分の真実しか言っていないのです。
民主化は緒に就いたばかりであり、下手をすると逆行もありうるのです。※
※NLD政権になって何を驚いたかと言えば、NLD日本支部や日本人の支援団体が自主解散したことでした。「民主化したのだから」、自分たちは用なしになったと自己認識したのです。こうした錯覚が生まれるのは、日緬両国の多くの人々が民主主義を「過程として」、不断に民主化の努力の上に支えられるものでなく、一回限りの固定した制度としてしか理解していないことに原因があります。しかしNLD政権成立が自動的に民主化達成になるほど歴史は甘くないといえます。

ターネル氏がもしミャンマーの民主化支持の視点を貫くとすれば、たんなる経済自由化・市場化過程における収益性、経済合理性や効率性の観点だけではなく、民主化過程との接合つねに念頭におくべきでしょう。企業収益の増大のための諸施策を講じると同時に、市場過程へ必要な介入を行なって市場規律の確保に努め、再分配、雇用、労働者や環境の保護政策、格差是正等にしっかりと手を打つべきなのです。経済的達成の評価基準として経済成長率や貿易規模の拡大、外国投資規模だけではなく、経済民主主義、すなわちどれだけ民生向上や貧困率の低下、経済格差の縮小に成果があったのかにしっかり言及し、評価すべきなのです。
 くどいようですが、NLD政府につきつけられている経済戦略的課題をあいまいにしないことです。通貨・金融システムの安定―そのためには中央銀行の独立性確保が絶対条件ですー、財政・税制の確立、そして農業振興の必須の条件である土地改革です。先般私はアジアで近代化への離陸に成功した国は、前近代的土地所有制度に対して土地改革に成果を上げた日本、中国、韓国、台湾であったと述べました。国民の8割方が農村に暮らす農業国家において、農村改革にふれない経済戦略などありえないと思いますが、ターネル氏はNLDとともにそれをあまり重視していないようです。NLD政府の政策を追認し合理化するだけでなく、欠けているところを指摘し民主化の後押しをするのが政治・経済顧問の役割だと思うのですが、みなさんはいかが思われますか。

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