私が会った忘れ得ぬ人々(18) 岡本太郎さん――真の芸術には嫌ったらしさが要る
- 2020年 3月 4日
- カルチャー
- 岡本太郎横田 喬
私は月に一度は渋谷経由で都心に出るが、気が向くと渋谷のJR駅~井の頭線駅の連絡通路に寄る。かの前衛美術家・故岡本太郎氏が制作した壁画『明日の神話』と対面し、その精気に触れたいからだ。高さ五・五㍍、幅三十㍍(制作時は三十二㍍)の巨大な画面。独特の鮮烈な色彩と幻覚的なタッチが利き、核時代の日常的な脅威に簡単に負けてたまるかという闘志がほのめく。この大作は彼の代表作・七〇年大阪万博の「太陽の塔」と制作時期がほぼ重なる。
今から三十五年前の一九八五(昭和六〇)年、私は東京・青山の自宅を訪ね、差しで一時間余り彼とやりとりしている。当時の『朝日新聞』紙面(要旨)を引くと、
――森がまだ多かったころの青山に生まれた岡本は、漫画家の父・一平と作家の母・かの子との間の一人っ子。
芸術家同士の両親にほったかされて育ち、「一日中はだしで森の中を野生動物のように駆け回った」。感受性が鋭く、近所の小学校に入ると、担任の教師の態度に「どうしても許せない不純なもの」を感じ、一年生の間に転校四度。慶応幼稚舎に入って、ようやく「厳しいけれど純粋な人柄の先生」と出会い、学校拒否がおさまる。
自己主張の強い挑戦的な生き方は、その後も一貫する。あまりにも岡本太郎的、と一部に反発を買った大阪万国博シンボル・タワー「太陽の塔」の型破りな制作。自分を高く評価してくれる欧州などで暮らさず、日本で生きるのは「あらゆる問題をぶつけることができ、憎まれっ子になれるから」。カメラの方をにらみ返す形相は一代の利かん坊そのままだ。
当時の取材ノートを改めると、太郎氏は含蓄のある発言を色々している。例えば、
――メキシコでは人が裸足で歩いてたり、昼間から日向ぼっこしていて、いいなと思う。
(『明日の神話』は)シケイロスの向こうを張り、「拒絶と生成」をテーマに世界最大の壁画を造る気で取り組んだ。「メキシコでは二千年来、僕の真似ばかりしてる」とジョークを言いながら。
――日本は全てにシステム化されて人間性を失い、べらぼうさを無くしてしまった。「太陽の塔」の顔は、余りにも個性的だったので悪口を言われた。石器時代を想定し、「なんだ、これは」という団子っ鼻に。恐ろしい相と平和な相、相反する相を複合させた。猛烈な虚無と、その底に渦巻く怒り。世界の不条理に対する心底からの怒りだな。
岡本太郎(敬称略)は一九一一(明治四四)年に生まれた。父・一平は東京美術学校(現東京芸大)を出て『東京朝日新聞』に入社。一コマ漫画・漫文で漱石に認められ、一世を風靡する。母・かの子は与謝野晶子に師事し「明星」派歌人として出発。後に小説修行を積み、『鶴は病みき』『金魚繚乱』『老妓抄』などを著し、名声を博す。
お嬢さん育ちのかの子は童女型の資質で、幼子の太郎がむずがって泣き止まないと途方に暮れ、一緒に泣いたりした。八方破れの素行をつかれ表でひどい意地悪に遭うと、泣き叫びながら玄関に駆け込み阿鼻叫喚といった場面も再三。反面、人の純情に触れれば、すぐ涙をこぼして感動した。「小学校一年の時に転校四度」という太郎の学校拒否が示す尋常ならざる感受性過敏は、その血筋かも。
太郎は慶応義塾普通部(現慶応高校)を経て二九(昭和四)年に父と同じく東京美校に入学するが、半年で中退。父母と一緒にパリへ赴き、独り居残り、画業研鑽を志す。パリ遊学は父・一平の若き日の叶わぬ夢でもあった。そして、相似る繊細な魂同士の母子が一緒に居れば、とかく葛藤が生じ互いの成長を阻みかねぬ、という父の配慮も働いた。
太郎はパリ郊外のリセ(日本の旧制中学相当)に学び、言葉に不自由しなくなる。ある日、画商の店でピカソの百号大の抽象ふうな静物画と対面。感動の余り、涙する。ピカソは三七年のパリ万博に大壁画『ゲルニカ』を出品した。この年、スペイン内戦に介入したナチス空軍が非武装の地方都市ゲルニカを盲爆~千人近い非戦闘員の老若男女が惨死。激怒したピカソが阿鼻叫喚の地獄図を彼独特のタッチで糾弾した大作だ。
太郎は言う。「ゴッホは美しいけれど、決して綺麗ではない。ピカソも美しいが、綺麗ではない。醜いものの美しさというのがあり、真の芸術にはある種の嫌ったらしさが必要なのだ」。自身は三七年、シュールアンデパンダン展に半ば具象の作品『傷ましき腕』を発表。横長の油彩画で、国際シュールレアリスト・パリ展招待作品となった。
シュールレアリスムの文学者アンドレ・ブルトンや画家・彫刻家マルクス・エルンストらとの親交が始まる。三九年、パリ大ソルボンヌ校で心理学・社会学・民族学を学び始め、研究対象を広げる。哲学者・思想家ジョルジュ・バタイユらとも交りを持ち、当時の蓄積が後年の飛躍の土台を築いたのは確かだろう。翌年、ヒトラー指揮下のナチ独逸軍がベルギー経由で侵攻。太郎はパリ陥落を目前に帰国する。
彼は五一(昭和二六)年、東京国立博物館で縄文火焔型土器に接して強い衝撃を受け、こう語る。「荒々しい不協和音が唸りを立てるような形態と紋様。その異様なまでの神秘性に民族の生命力を感じ、人間に対する根源的な感動と信頼感を覚える」。縄文土器と出合い、彼には官製の伝統論と大きく異なる、今一つの「伝統」が見え始める。
日本の各地を行脚し、壮大なそのフィールド・ワークの一端が『忘れられた日本/沖縄文化論』(六二年、毎日出版文化賞)に結実する。沖縄の村々に神が降る聖所・御嶽。多くは森の中に所在し、石やクバ、ガジュマルの木などが近くにあり、人々が寄せる無垢な信仰に彼は強く感動する。
五九年、丹下健三設計の旧東京都庁舎に新奇な造形と極彩色がウリの陶板壁画七作品十一面を制作。彼は「これからの芸術は、映画やテレビなど広く一般の身近に触れるものこそ価値がある」と普遍性を重視した。日本橋・高島屋通路に『創生』、築地・松竹セントラル劇場に『青春』、銀座・数寄屋橋公園に『若い時計台』など都内各所を始め、全国各地に独特のパブリック・アートを百四十余も制作した。
六七年にはメキシコを訪問し、かのシケイロスと交流する。太郎はメキシコの歴史風土と国民性を愛した。「世界中が均質化する中で、メキシコだけはひどく独自。民衆は陽気で、歌と踊りが大好き。貧しい国ながら、アメリカよりは文化的には高い、と誇りを持つ」と称えた。彼は古代マヤ・アステカ文化の高貴な神秘感に強い郷愁をかき立てられ、縄文文化・スキタイ文化などとの一体感を直覚する。
メキシコの実業家に依頼され、首都の大ホテルのロビーに高さ五・五㍍、幅三十二㍍の大壁画を制作する。この作品こそが、幾多の転変をたどり、現今は渋谷駅通路に存在する、冒頭に記した『明日の神話』そのものだ。ひいき目を含め、私は岡本太郎こそ日本人離れしたスケールとバイタリティを備えた芸術作家だった、と感じている。
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