再開《再稼働》を急ぐ理由はない ─ 復興の精神と日本の帰路 ─
- 2011年 7月 10日
- 評論・紹介・意見
7月9日
露地物のトマトやキュウリが美味し季節になった。井戸にほりこんであったトマトやキュウリなどに一塩をふってかぶりつくのが何よりも好きだった。少年期を田舎で過ごした記憶が濃厚だったせいか、露地物のトマトなどは箱ごと買うのが恒例になっていた。子供を故郷に連れた帰ったとき、何よりも味あわせたかったことだ。子供はカブトムシや蟬取りに夢中になったけれど、僕の思いはそうだった。でも「もう露地物」はという気分にさせるのが放射能汚染である。これだけでも原発がいかに僕らの生存に反しているかが分かる。
政府に提言する復興構想検討委員会の中から原発震災のことははずしていた。福島の復興構想は除いてである。大震災と原発震災は次元を異にしている所もあるからやむを得ない対応とも言える。だが、このことは原発震災を福島原発だけのことにし他の原発の稼働を急ぐことではない。原発震災は福島での特殊事態ではなく、日本の原発存続に関わる全社会的な問題であるからだ。他の原発は福島原発を他人事と思えないはずだし、福島復興構想が打ち出した脱原発を重くうけとめるべきだ。その意味で原発再開(停止中の原発の稼働)を経通省や電力業界が急ぐのは原発震災を何ら受け止めていないと言われて当然である。再開《再稼働》を急ぐ理由はない。彼らは来春には次々と定期検査のために稼働停止になる原発が脱原発につながって行くことを怖れその道を開いておきたいだけだ。夏の電力事情が逼迫する時期を逸すれば原発再開の理由は見だせない。その存続の現実的根拠が薄弱になる。経産省や電力業界は危機感をいだいているのは分かる。これには原発の存在に現実的な利益(利権)を得てきた電力業界や官僚機構の既得権意識だけではなく彼らなりの産業の社会的責任ということもあるのだろうと思う。利益(利権)の観点だけで彼を批判する気はないが、やはり原発震災から何も学んでいないと言われても致し方ない。原発震災は大きな視点と射程を持ってその存続を考える事を僕らに強いるものだ。産業は人間が人間ために生成した自然=社会であるが、原発産業は人間と自然の代謝(交流)関係に敵対するところがある。産業一般を超えた問題である。これは原発震災が提起したことであり、全原発の投げかけていることでもある。人間と自然の代謝(交流)に敵対し、破壊的にならない技術制御(原子エネルギー)が可能になっていない段階で産業化はやめるべきだ。単なる政策ではなく哲学や思想を持った政治的構想として。福島の脱原発構想の現実性に応えるために、原発を推進してきた産業人や官僚も大きな視点に立って考えるべきだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0541:110710〕
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