ここまで来たかジャーナリズム界の劣化 読売・大阪府包括連携協定とNHK報道
- 2022年 1月 20日
- 時代をみる
- NHKジャーナリズム大阪府岩垂 弘河瀬直美読売新聞
ジャーナリズム界の劣化も極まれり――暮れから新年にかけて、我が目をうたがうようなニュースがあった。読売新聞大阪本社と大阪府が結んだ包括連携協定と、NHKがBS1で放送したドキュメンタリーに事実と異なる内容があったというNHKの発表である。どちらも、ジャーナリズムの「原則」から逸脱した行為ではないか、と思えてならない。
読売新聞大阪本社と大阪府が結んだ包括連携協定は、昨年の12月28日付の読売新聞朝刊で発表された。第3社会面の下部、それもベタ(一段)扱いの記事だったが、それを読んだ私は目を見張った。それは、大要、次のような内容だった。
読売新聞大阪本社は12月27日、地域の活性化や府民サービスの向上を目的とした包括連携協定を大阪府と結んだ。「教育・人材育成」「安全・安心」など8つの分野で連携し、活字文化の推進や災害対応での協力を進める。具体的には▽府内の小中学校でのSDGs(持続可能な開発目標)学習に記者経験者を派遣▽「読む・書く・話す」力を伸ばす府主催のセミナーに協力▽読者サービスで配布している情報紙に府のイベント情報などを掲載、などを進める。
その記事はまた、協定の締結式で、読売新聞大阪本社の柴田岳社長が「地域への貢献は読者に支えられている新聞社にとって大切な取り組みの一つ。連携協定を機に一層貢献したい」と述べ、吉村洋文大阪府知事が「これまでも読売新聞販売店に地域の見守り活動などをしていただいている。さらに多くの分野で連携していく」と話した、と伝えていた。
これまでにも、新聞社や放送会社が文化関係やスポーツ関係の催しを開催するにあたって政府の各省庁や自治体の後援や協力を求めることはあった。が、読売新聞大阪本社と大阪府が結んだ包括連携協定はこの域をはるかに超える大規模なものだ。それだけに、読売新聞という全国紙と、西日本最大の自治体である大阪府との「包括連携提携」は、これまでジャーナリズムの世界で踏襲されてきた、ジャーナリズムと権力の関係をめぐる常識を根本的に変えるものではないか、と私には思えた。
私は1958年から1995年まで朝日新聞社で記者をしたが、会社から毎年年末に記者に新年用の「社員手帳」が配布された。その最初のページに、「朝日新聞綱領」が載っていた。それは4項目からなっていたが、最初の項目に「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す」とあった。私はたまに、この項目に目をやっては心の中で反すうした。
こんな経験もあった。新人記者としての最初の赴任先は岩手県の盛岡支局で、そこで、支局長や先輩記者から「新聞記者のいろは」を学んだ。その1つが、「新聞記者のあり方」だった。それは、一言で言えば「報道に携わる者は、社会を支配する人間の側に立つよりも、支配される側の人間の視点に立て」ということだったように思う。私はこれを「新聞記者たるものは、絶えず権力を監視せよ、ということなんだな」と受け止めた。
後年、私は、全国の主要な新聞社が加盟する日本新聞協会の新聞倫理綱領に目を通す機会があったが、そこには、こうあった。「国民の『知る権利』は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される」「新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない」
これを読んで、私は、盛岡支局で学んだことと、新聞協会が目指していることが、基本的には通底するのではないかと理解した。
つまり、ジャーナリズムは絶えず権力を監視するために存在するんだという自分の考えを一層強めたわけである。もっとも、新聞倫理綱領は「権力を監視せよ」とまでは言っていない。「あらゆる権力からの独立」を目指すとしている。だとしたら、「ジャーナリズムはあらゆる権力に距離を置く存在」と言い換えてもいいかも知れないな、と思ったりした。
いずれにせよ、近年、市民の間では、ジャーナリズムへの不信が強まる一方である。「マスゴミ」とか、「新聞社の幹部が定期的に首相と会食するというのは納得できない」「マスメディアは行政の広報紙か」といった声さえ聞かれる。それだけに、今度の読売新聞社と大阪府の包括連携協定を機にこうした不信が一層強まるのでは、と私は恐れる。それを意識したのか、読売新聞の記事は「協定が読売新聞の取材活動や報道に影響を及ぼすことは一切なく、協定書にもその旨を明記している」と述べているのだが……
ところで、報道によれば、この包括連携協定の消去を求める「ジャーナリスト有志の会」の抗議声明には1月7日現在、5万を超える人から賛同が寄せられているという。この人たちを突き動かしているのは、ジャーナリズムで劣化が進んでいることへの深刻な危機感、と言っていいだろう。
一方、NHKのドキメンタリー番組に事実と異なる内容があったという問題は、各紙の報道によれば、以下のような経緯である。
昨年の12月26日、NHK・BS1でスペシャル「河瀬直美が見つめた東京五輪」が放送された。製作は大阪放送局。その中で、番組に登場した男性について、報酬をもらって五輪反対デモに参加していると字幕で説明。だが、放送後、視聴者からの問い合わせがあり、放送局で再び男性に取材したところ、男性は撮影時には「過去に(五輪以外の)複数のデモに参加したことがあり、金銭を受け取ったことがある」「今後、五輪反対デモに参加しようと考えている」といった趣旨の発言をしていたことが判明、字幕の内容と異なっていたことが分かった。このため、1月9日、大阪放送局は「(字幕の間違いはNHKの担当者の)思い込みによるもので、関係者、視聴者の皆さまにおわびします」と謝罪した。
このニュースに接した時、私は「NHKともあろうものがこんな初歩的なミスを犯すなんて」とあきれてしまった。私が初任地の盛岡支局で先輩記者からまずたたき込まれたのは、「裏をとれ」だった。情報をキャッチしたら、それが本当のことであるか、つまりそれが事実であるかどうかを必ず確認せよ、ということだった。逆に言えば、伝聞や推測で記事を書いてはいけない、という教えだった。
「裏」とは、おそらく「裏付け」の「裏」なのだろう、と当時、思ったものだ。こうした経験からも分かるように、「確認、確認、また確認」が、報道関係者の「いろは」なのである。
「河瀬直美が見つめた東京五輪」では、そうした「確認」がおろそかになっていた。取材現場のNHKの諸君には、いま一度、「取材のいろは」を噛みしめていただきたい。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4884:220120〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。