曖昧な日本ではなく、普遍性を求めて
- 2023年 4月 2日
- 時代をみる
- キシダ共産党加藤哲郎地方選大江健三郎
●2023・4・1 日本特有の新年度です。本来なら1月1日なり世界標準の9月で区切ればいいものを、1886年に国の会計年度に合わせて公教育は4月入学とし、保守勢力が「ニッポン人にはサクラの季節が切れ目」などと主張して、そのままです。天皇代替わりの元号と同じように、この国を世界の普遍的流れと異なる特殊な時間の流れに乗せる、ナショナリズムの空間的・時間的仕切りです。5月のヒロシマG7サミットのために、岸田首相は米国大統領に続いて急遽ウクライナを訪問するなど、前のめりです。しかし、世界の時間に合わせるには、まずは「失われた30年」で世界から孤立したLGBTQの権利保障を認めるべきですし、新会計年度や4月地方選挙で女性政治家・経営者・官僚を大幅に増やすべきです。何よりも、ヒロシマから核廃絶と原発事故の危険、NBC(核生物化学)兵器の禁止を強く訴えるべきです。それなのに、ウクライナ戦争によるエネルギー逼迫に便乗して、原発再稼働、60年超運転承認、ウクライナへのお土産は「必勝しゃもじ」で、G7向けには防衛費倍増でNATO並みに、米国製ミサイル爆買いで敵基地攻撃能力を備え、ちょうど岸田首相のウクライナ訪問時に結束を強めたプーチンのロシアと習近平の中国に対する、あからさまな挑戦状です。東アジアからの調停役どころか、新たな緊張をうみだす、外交なき対米従属をあらわにしてしまいました。なんともちぐはぐな、理念なき首相、漂流する日本です。
● ちぐはぐといえば、本来一斉地方選挙で信任を問うべき旧統一教会と自民党等地方議員の癒着、地方によっては国会議員よりも露骨で、800名もが関係を持ったといわれ、信徒が議員になっているケースもあるといわれます。党中央は「関係を絶つ」と宣言しても、都道府県でバラバラで、自己申告もされないまま、うやむやになりそうです。物価高や生活支援が争点になり消されてしまいそうですが、地方紙やローカル・テレビ局のジャーナリスト魂が問われます。有権者は地元で、しっかり見きわなければなりません。もっとも、立候補者が少なく無投票当選とか、子育て中の女性の立候補が難しいとか、北欧諸国等に比して4年ごとに話題になる、日本の地方議会の貧しい姿もくっきりと。日本が立派な憲法を持ち、米国に追随してきたからといって、民主主義先進国だと思ってはなりません。自由と民主主義とは、かつて丸山真男が述べたように、日々進行する永続革命の課題です。
● ちぐはぐなのは、野党も同じです。国会での立憲民主党による放送法についての総務省内部文書の公開は見事でしたが、その追究の矛先が、政府によるメディア統制・電波停止権の問題よりも、高市早苗元総務大臣の公文書「ねつ造」発言と大臣解任要求に向かい、安保3文書や防衛政策の追求は弱いまま軍拡予算は通過、目くらましもまぶした「異次元の少子化政策」の中身も財源も曖昧なまま、岸田内閣支持率の回復を、許してしまいました。そのうえ議員の中から問題発言、野党共闘もままならず、弱い執行部の目玉政策を欠いた選挙戦で、日本維新の会と得票率を競うことになりそうです。
● 日本共産党も迷走中。コミンテルン日本支部だったよしみで、長く代わらず高齢化した指導幹部たちは、かつて「社会主義」友邦であったロシアや中国への批判はなぜか及び腰、そのプーチン・習近平独裁体制が、共産党が今も固持する「民主集中制」の歴史的遺産であることを、明言できません。党首公選を訴えた熱心なベテラン党員二人を「除名」し、それを報じた大手メディアまで「反共攻撃」だと啖呵を切って敵にまわしてしまって、このSNS・AI時代に、時代錯誤の言論統制と、指導者崇拝の規律引き締めです。もともと社会主義政党の「除名」とは、ブランキ型秘密結社の「裏切り者は死刑」を、マルクスが共産主義者同盟加入にあたり緩和した処分制度でした(加藤『社会主義と組織原理 Ⅰ』1989年)。トップへの批判的意見を公表すると、命だけは助けてやるといわんばかりの志位和夫執行部の対応は、こんな政党を政権に就けたら恐ろしいと思わせるだけの、内向き組織防衛戦です。選挙で直接住民・市民に接する地域党員や候補者が可哀想です。30年前に有田芳生さんらが編んだ『日本共産党への手紙』 に寄稿した、政治学者としてのの批判点を、そっくりそのまま繰り返しておきます。大塚茂樹さんの新著『「日本左翼史」に挑む』も、参考になります。
● 大江健三郎さんが亡くなりました。88歳でした。ノーベル文学賞は受賞しましたが、文化勲章は辞退しました。そのノーベル賞受賞講演「あいまいな日本の私」は、明らかに先輩の日本人文学賞受賞者、川端康成の記念講演「美しい日本の私」を意識していました。ただし、その論理は明晰で、曖昧ではありませんでした。戦後に「大きい悲惨と苦しみのなかから再出発し」た、「新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会は、イノセントな、無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした。また広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を負う生存者と二世たちが――それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母語とする多くの人びとをふくんでいますが――、われわれのモラルを問いかけているのでもありました」。ですから、東洋的神秘の特殊な美意識を強調した川端に対して、「20世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、できるものなら、ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくの世界の周縁にある者として、そこから展望しうる、人類の全体の癒しと和解に、どのようなディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるものかを、探りたい」と宣言しました。本来ならヒロシマG7サミットで、世界の首脳と市民に伝えるべき「遺言」です。
● 1994年の大江健三郎さんは、日本的特殊性よりも「人類普遍の原理」に賭け、それを実践に移していきました。その数年前、1990年の『日本共産党への手紙』のなかで、私は「科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官へ」と題し、政党を社会と国家の架け橋と見なす政治学者として当たり前の立場から、「民主集中制ではなく、党員主権・人権尊重の民主主義」「党内の多様な意見と政綱を持つ潮流の公認と党外への発表の自由、党員同士が基礎組織を離れて水平的・横断的に相互交流する自由、中央指導部の権限をチェックする党内権力分立制度、指導者の任期制や定年制、党内情報公開や財政民主主義、旧除名者の名誉回復と復権」などを提言しました。その私の「手紙」の直前に収録された加藤周一さんの「手紙」は、「自由」の概念を引き合いに出して、「マルクスは『自由』の概念の普遍性を否定したのではなく、特殊化された『自由』の普遍性を快復しようとした」のに、その後のマルクス主義者の多くは、「一般に人間なるものはなく、ただ階級的人間のみがある」という普遍性なき特殊性の立場に執着し、「果たしてマルクス主義を主張する政権のもとでは、個人の自由と基本的人権の極端な抑圧が起こった」と述べていました。普通の政党とは異質な「唯一前衛党」、「民主主義」一般ではなく「民主集中制」に固執する論理に対する戒めでした。
● 私は、病上がりのリハビリを続けながらも、徐々に外出できる体力を回復しつつあります。「戦後民主主義」の先達に学んで、4月15日に早稲田大学で「731部隊・100部隊」、5月3日に日本近代文学館で島崎藤村「夜明け前」、5月13日に明治大学登戸で「ゾルゲ事件」の報告・講演を再開します。ご関心のある方は、下記のサイトからどうぞ。
○NPO法人インテリジェンス研究所 http://www.npointelligence.com/
○日本近代文学館 https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_current/14102/
○明治大学登戸研究所 https://www.meiji.ac.jp/noborito/info/2022/mkmht0000001sl9j.html
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5041:230402〕
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