世界のノンフィクション秀作を読む(25) J・ブノアメシャンの『エジプト革命』(筑摩書房刊・牟田口喜郎:訳『オリエントの嵐』第五章)――エジプト史上不滅の光を放つ闘い
- 2023年 9月 15日
- カルチャー
- 『エジプト革命』『オリエントの嵐』J・ブノアメシャンナセルノンフィクション横田 喬
著者(1901~1983)は特異な経歴を持つフランスの著名なノンフィクション作家。第二次大戦中、枢軸国側に身を寄せたヴィシー政権の閣僚として外交工作に従事~戦後、戦犯として投獄(十年)中に書き上げた中東ものの一作である。複雑を極める中東情勢の要であるエジプトの歴史の転変をつぶさに観察。一代の英雄児ナセルの肖像を生き生きと描き出す。
①ナセルの青春
1918年、カイロに次ぐエジプト第二の都市アレクサンドリアにナセルは誕生。父は郵政省の下級官吏で以後、転勤を重ねる。彼は父親からは農民の現実主義的強情さと、深い意志と忍耐力とを、母親からは地中海人的側面、巧妙さと策略、新奇なものへの関心を受け継ぐ。
息子の精神の早熟ぶりに打たれ、父親は彼に正規の教育を受けさせるべく、カイロの都心に住む兄に預ける。30年6月、ワフド党(反英的性格を有する民主主義的な民族主義政党)政権が対英(独立)交渉に着手。強硬な青年層がカイロとアレクサンドリアの街頭に繰り出す。街中の広場で中学生の一団が警官隊と激突~十二歳になったばかりのナセルは、真っ向から棍棒の一撃を受け、顔は血で真っ赤に染まる。が、彼は叫び続けた。「エジプト万歳!」
この日以来、彼は反逆者となる。その後の五年間、勉学の傍ら読書に没頭。ムスタファ・カーメルの『イスラムの防衛者』や愛国的な諸論文を読破した。師コラニの勧めにより、著名なフランス人の伝記を読み、ヴォルテールやルソー、及び大革命に活躍した諸人物を発見する。暗中を模索している彼にとって、この読書は将に一条の光のようにきらめいた。
1935年頃、彼はワフド党や「モスレム(イスラム教徒)同志会」に接近。また社会主義政党「若いエジプト」本部を足繁く訪れた。同党の目指すところは、スエズ運河の国有化、農地改革、ナイル流域の工業化など、彼の思想に相通ずるものがあった。が、彼の中には、現実と理想とが混沌として入り混じっていたため、彼らに付いていくことができなかった。
この頃、英国は大きな不手際を演じる。同年秋、当時の首相S・ホアーはエジプトが内政面でもロンドンの指示下にあることを公に認め、「憲法の採用はできぬ」と宣言したのだ! 11月12日、反対デモが激化~死者二人と負傷者五十人を出す。現場で英人将校はデモ隊の中心人物らしき長身の青年を狙撃。弾丸は十七歳のナセルの額をかすめ、友人たちは彼に応急手当てを施した。あと数ミリの差で彼の命を奪うところだった。
この銃火の洗礼は、彼に革命家という天職への信念を吹き込み、占領軍という存在の決定的な恐ろしさを教える。英国はエジプト国民の団結が回復しつつあることを悟り、緩和政策の証拠を示すようエジプト政府に要請。12月12日、国王は1923年憲法の回復を布告し、新聞は書いた。「自由の支持者は勝った!」「青年は勝った。全エジプトが勝利を収めた!」
が、青年ナセルは違った。英国との新しい協定に憤り、国王に対して憤った。政府に対し、また国民全般の鈍感ぶりに対して憤った。今や十八歳、卒業試験を通過した、逞しい細身の大男だった。これまで幾つかの政党と接触した結果、彼は一つの確信を持つ。彼らは決して国を解放するようにはならないだろう。占領軍は、もう一つの軍隊によってしか追い払うことはできない。37年春、彼は陸軍士官学校の入学試験に首尾よく合格。一年の間、陸士の教科に励み、翌年夏(通常は三年かかるところを、内外の情勢急迫として繰り上げ)、卒業試験を立派な成績で通過し、陸軍少尉に任官する。
任地の兵営での長い夜の間、戦友たちは驚異と尊敬の念を以て、彼の弁舌に耳を傾けた。
――革命を行うのは感情によってではない! 我が国の特殊な情勢からみて、潜行的性格を持つ軍事組織、全メンバーが反乱の技術を具えていなくてはならぬ秘密委員会でしかありえないのだ。
青年将校たちは感動し、同意する。代わる代わるナセルへ忠実の誓いを立てた。彼らはエジプトの解放の日まで、彼と共に戦うことを誓った。こうして、十五年後にエジプトを支配することになる「自由将校団」の最初の芽が生じたのである。
②第二次大戦とナセル
自由将校団は環境に恵まれていた。彼らは軍務の命ずるまま,部隊から部隊へと転勤させられ、各自はそれぞれ味方を獲得することができた。ナセルは次第にカイロ当局から注意人物として見られるようになる。辺境へ左遷されそうな予感がし、先手を打つ。隣国スーダン勤務を志願~首尾よく首都ハルツーム転勤が叶う。が、ナセルの影響力を気遣う陸軍省は西側の隣国リビアとの国境に近い前哨基地へ転属させる。ナセルにとっては失望の時代であり、なんと39年秋には第二次世界大戦が勃発する。
ナセルの盟友で、後に彼の次の大統領となるサダートはこう記している。
――イギリスにとっては悲劇の年であり、エジプトにとっては希望の年であった。西では枢軸軍が荒れ狂い、中央ではエジプトが反乱の寸前にあり、東ではイラクの反乱が成功していた。(中略)それは東アラブ解放の先駆的徴候であった(後略)。
③ロンメルと自由将校団
42年1月、ドイツのロンメル将軍は攻撃を再開。無敵の進撃を続けるアフリカ戦車兵団はかつてこれほど強力だったことはなく、北アフリカの要衝を次々と陥し、四万人の英軍を捕虜とした。そしてエジプト国内に深く浸透、アレキサンドリアの西七十キロのエル・アラメインに進出した。アレキサンドリアでは市民は胸を躍らせ、「歓迎!」のプラカードを掲げ、青年の集団は街の中を練り歩いた。
が、エジプトでは色々な情勢の変化があり、イギリスのモンゴメリー将軍はそれを利用して反撃の準備に専念することができた。ロンメル軍団はエル・アラメインから一歩も進むことができず、連合軍の総反撃を受けて後退。リビア~チュニジア~イタリアへと撤収し、エジプトへの脅威は去った。
この勝利は英国の威信を再び高めることになる。43年2月、連合軍はカサブランカとアルジェに上陸。自由将校団はもはや外部から如何なる援助も期待することができなくなった。兵籍から外されたサダートは収容所送りとなり、自由将校団には日夜追及の手が厳しくなる。彼らは地下に潜らざるを得ず、将校団は内部組織の強化に着手。団員は五人で一細胞とし、二十細胞で一部を構成。各部の長は、中央委員会(十名で構成)指名によるとした。
2月7日、ナセル大尉はカイロ陸軍士官学校の教官に任命される。これにより、彼は未来の軍幹部となるべき幾百の青年と接触できる立場に就く。以後、彼の努力により、多数の参加者が新たに生まれていった。45年5月、ドイツ降伏。士官学校教官の職を解かれたナセルは、革命運動の全指導権を手中に収める。革命の頭脳であり、執行機関である最高委員会は議長ナセルを筆頭とする十名で構成、後年のクーデタ後の「革命評議会」の母胎となる。
運動が着々と地歩を固めていく間、エジプト政府は目まぐるしく交代。ロンドンと国連に対し、英国駐留軍の撤退について、果て知らぬ会談を繰り返した。47年に英国は突如、エジプトから撤収する。アトリー内閣は財政難に悩み、軍事費を切り詰め、兵員を縮小せざるを得なかったのだ。トルコとギリシャからも派遣軍を引き揚げさせ、後事を米国に委ねた。
④パレスチナ戦争の教訓
イギリスはパレスチナの委任統治も放棄した。48年5月15日、D・ベングリオンはイスラエルの独立を宣言。翌16日、エジプト政府は正規軍に対し、パレスチナ侵入を指令する。政府首脳は一押しで済むものと信じ、ファルーク国王は「不穏な将校たち」を厄介払いできると思っていた。が、両者共その考えが甘かったことにたちまち気付く。
テルアビブ、ジャッファ、ハイファ、エルサレムなどの主要都市はユダヤ人のテロ団体ハガナに占拠され、また村々はイスラエル国民軍のために一夜にして要塞化された拠点に変わっていた。これに反し、当時のエジプト軍は九個大隊しかなく、そのうち三個大隊だけがパレスチナ戦争に参加したのだ。総数約三千ないし四千の兵力に過ぎなかった。しかも装備は悪く、極言すれば、戦争の技術を全く知らなかった。
その上、アラブ諸国連合軍は五つの戦闘区を持ち、それぞれに司令部を置いていて、連合軍を一体化する総司令部はなかった。当初、エジプト軍はガザを獲り、北上したが、テルアビブ南方三十キロでイスラエル軍の大反撃に遭って南方に追い落とされ、軍の大半はファルーガの三角地点に包囲される。エジプト軍は死力を尽くして戦ったが、損害は極めて甚大だった。イスラエル側の士気は高く、装備は遥かに近代的だったのだ。
ナセル少佐は、この包囲された部隊の中に居た。彼は戦ってみて、事実上エジプト軍なんて存在しなかったのだ、とたちまち悟る。もし母国が攻撃を受けたら、丸腰の国土はどうなるか――愕然として、考えた。政府の怠慢、国の責任者が祖国をダシにして肥え太っている。敗戦を味わって、彼は内心で叫んだ。「我々は裏切られた!」
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